第九話 紅茶と金庫
ウーヴェ・シュミットの名は、紅茶を嗜む者なら誰もが知っている。王国屈指の紅茶専門家であり、同時に筋金入りの頑固者でもあった。
かつて彼がシュトルツェンブルク公爵家を解雇された理由は有名だ。公爵夫人の望んだ紅茶を出さなかったから。
茶請けに合わない紅茶は出さない――それがウーヴェの信条である。
「そのウーヴェ・シュミット氏が、我がゼーベルク商会に協力を?」
マティアスが目を細めた。フィロメナがまた訂正を入れる。
「私がウーヴェ殿の試験に合格すれば。そしてその結果に彼が納得すれば、です」
「試験の内容は?」
「シュミット氏が決める。フィロメナが受ける」
ディートリヒが言い、セドリックがゆっくりと頷いた。
「奥方様次第というわけですか。——ハインリヒ」
「何か」
「あなたは納得を?」
ハインリヒは即答した。
「勿論」
「バルトロメ」
バルトロメは紫水晶の眸を細める。
「当然です」
セドリックは長く吐息し、そして改めてフィロメナを見た。
「奥方様。もし同じ茶葉の缶が二つあったとして、一方は銀貨十枚、一方は銀貨二十枚で売られております。——なぜそのような差が生じると思われますか」
フィロメナは睫毛を伏せ、少し考えた。
茶葉ごとに差があるのは当然として——
「茶葉そのものだけでなく、産地、収穫時期、保存状態、そして、誰が売るかということも関係するかと」
「誰が売るか、ですか」
「信用のある人の扱う品は、安心して買えます」
「——成程」
セドリックは頷いた。
次いで熊のようなエーリヒがひょいと手を挙げた。
「そいじゃあ奥さん、茶葉を運ぶ船と茶葉そのもの、どちらが重要だ?」
「どちらも欠かせません」
「どうしても、どちらかひとつだけ選ぶなら?」
フィロメナは一拍だけ、考えた。
「船を」
「ほう。何でだ?」
熊が、いや、エーリヒが興味深そうに身を乗り出し、フィロメナは微笑んだ。
「茶葉は今年のものを失っても、来年また育ちます。しかし運ぶ手段を失えば、どれほど良い茶葉であってもお客様に届きません」
「俺と同じ考えだ」
エーリヒはにっこりと可愛らしい笑顔を浮かべた。
マティアスが手を挙げた。
「では奥様、私からも。茶が王都で流行したとして、利益を得るのは茶商だけでしょうか」
「いいえ」
「では誰が?」
「茶器職人に陶工、銀細工師。茶館の主人。運送業者。そして酪農家。それに砂糖商人もでしょうか」
マティアスは目を細めた。
「砂糖商人ですか」
「紅茶には、砂糖が欠かせないと仰る方もいらっしゃいます」
「——ああ、そうですね。納得しました」
アメデオがその後に続けた。
「では、奥方様。ある年茶葉が大豊作になりました。喜ばしいことでしょうか」
フィロメナは頷いた。けれど、と付け加える。
「場合によります」
「と申されますと?」
「豊作で値が下がりすぎれば、茶園を維持できなくなるかもしれません」
「ふむ」
「来年以降の供給にも影響します」
アメデオは何度も頷いた。
セドリックはハインリヒを見た。ハインリヒは頷き、フィロメナを見た。眼鏡の奥の眸が光る。
「奥方、あなたは茶の品質を決めるものは何だと思われますか」
フィロメナはまっすぐにハインリヒを見た。灰青色の眸が澄んだ光を宿している。
「——人です」
「茶葉ではなく?」
「茶葉を育てる人、 摘む人、運ぶ人、保管する人、売る人、淹れる人——どこかひとつでも疎かになれば、良い茶にはなりません」
ハインリヒは頷き、ディートリヒを見た。
ディートリヒは満足そうに笑った。
「どうだ、見込みがあるだろう。フィロメナの淹れる紅茶を飲めば、完全に納得するだろう」
ハインリヒとバルトロメが頷いた。
「同意します」
「同じく」
フィロメナはディートリヒを振り返り、小首を傾げた。
「淹れましょうか」
「そうだな。淹れてくれ」
「皆様のお好みは?」
「いや、任せる」
「承知しました」
フィロメナはカムルを選んだ。
真白な茶器が卓に所狭しと並べられた。
茶匙に四杯、茶葉を計る。今回は人数が多いので茶壺は三つ。それぞれに茶葉を入れ、よく沸騰した湯を等量注ぐ。そして砂時計を引っくり返した。
手際が良い。だが雑なところがひとつもない。丁寧に、そして愛情を込めて茶を淹れているのが、傍目にもわかる。
フィロメナは砂の落ちるのをじっと見つめていた。
砂が落ち切って、茶壺をひとつずつ紅茶茶碗に茶漉しを使って割り振っていく。
そこでも、もたつくことがなかった。そして最後の一滴まで落とし切った。
白い紅茶茶碗に、濃い赤黄色が映える。透き通った水辺に咲く花のような清々しい香りが漂った。
フィロメナが微笑む。
「どうぞ、お召し上がりを。今回はカムルなので、牛乳も砂糖も加えずに、そのままの味をお楽しみください」
そして。
幹部全員が陥落した。
紅茶は未だかつて飲んだことがないほどに、美味だった。
繊細な甘い香りに深いコク、そしてきりりとした渋みがある。上品で芳醇な風味が鼻に抜ける。
皆がうっとりと余韻を味わっていた。
紅茶で一服した後に、ディートリヒがセドリックを呼び寄せる。
セドリックは少しだけ眉を寄せ、フィロメナを見、そして溜め息を吐いて頷いた。
「フィロメナ」
「はい」
「次は金庫だ。案内しよう」
フィロメナは目を瞬いた。
王都館地下二階。
扉には鍵穴が三つ。総帥であるディートリヒ、総支配人のハインリヒ、財務部長セドリックがそれぞれ鍵を保有しているので、ひとりでも欠ければ開かない仕組みとなっている。
「どうぞ」
ディートリヒが促し、フィロメナは一歩踏み出した。
室内にはレーヴェンライヒ王国金貨の入った木箱。北海自由都市同盟共通銀貨の袋。各国の貨幣を仕分けた棚。銀塊、金塊。為替手形、信用証書、融資契約書。王侯貴族との担保契約印章の保管箱——などが並んでいる。
フィロメナは目を瞬いた。華やかさは感じられない。重厚で、圧倒的で、少しだけ息が詰まった。
だが、どこか書庫にも似ていると思った。書類の多さにだろうか。
フィロメナは軽く深呼吸をしてみた。金属臭よりは紙の臭いが強いかもしれない。
ディートリヒはフィロメナの横に立った。
「ここは表だ」
「表、ですか」
「奥に特別保管区画がある」
二重扉の奥、ディートリヒが灯りを点けた。
ゼーベルク商会の秘密帳簿。海外支店との暗号通信記録。情報部管理の機密文書。王侯貴族の借財記録。
フィロメナは目を瞬いた。
想像していた"宝物庫"とは、だいぶ違った様相をしている。
黄金より帳簿の方が多い。宝石箱より書類箱の方が大きい。そして金貨の山よりも、契約書の束の方が厳重に管理されている。それが示すところは——
「商会にとって、最も価値があるのは、黄金や貨幣ではないのですね」
ハインリヒが静かに答えた。
「はい。金は失っても取り戻せます。信用はそうはいきません」
「ここを見て、それがよく理解できました」
フィロメナの言葉にセドリックは満足気に頷いた。それが理解できる奥方で良かった。
ここに豪華さはない。むしろ修道院に近い静けさだ。金銀が積まれていても華やかではない。
ここでは貨幣は宝ではなく、数字の実体だ。
「世界が、凝縮されてここにある気がします」




