第六話 整えましょう
ゼーベルク商会王都館はそれぞれの棟が独立しつつも、渡り廊下で繋がっている。居住棟と執務棟、使用人棟もだ。
「奥様はそれほどお渡りにならないかと存じますが」
特に使用人棟は、必要がない限り立ち入らないだろうとセバスティアンは言った。
執務棟をさらりと案内され、使用人棟を通り過ぎる。その際にもフィロメナは動線を気にしていた。
一通り周り、倉庫群の前でセバスティアンは一礼した。
「以上が王都館でございます。ご不明な点はございますでしょうか」
フィロメナは少しだけ睫毛を伏せ、記憶をなぞった。
「動線を少し整えたいと思いました」
セバスティアンは目を瞬く。
「動線、でございますか?」
「美味しい紅茶を淹れるには正しい手順が必要です。正しい順番で正しい量を、正確に。――人が動くにも同じです。まずは使用人棟から辿りましょう」
厨房で、フィロメナは立ち止まった。
忙しく指示を飛ばす料理人に、走り回る厨房女中。あちこちでぶつかりかけては辛うじて避ける。皿が一枚宙を飛んだ。
料理長は片手だけで、しかも視線も遣らずに捌き、自身は鍋の火加減を調整していた。
厨房は、今でも十分に機能している。十分以上だ。
だが、それは個々人の能力に拠るものが大きいと、フィロメナは見た。
「時折、人がぶつかりそうになる点があります。ここと、その棚の前です」
料理長が片眉を上げた。新参者の奥様が、厨房に何の用だといいたげだ。
フィロメナは臆せず提案した。
「棚を二歩分奥へ。竈の前を少し広くしてみてください」
わずかでも余裕が出る。それだけで、場は変わる。
料理長はセバスティアンを見た。セバスティアンが頷くのを見、渋々言う通りに動かした。
伯爵令嬢に何がわかる、と思っているのが有り有りと顔に出ていたが、フィロメナは何も言わなかった。
ただ、礼儀正しく一礼した。
「お邪魔いたしました」
フィロメナたちが去ってすぐ、厨房は仕事を再開した。余計な訪問で時間を食った分を取り戻すべく、皆が少しだけ急いでいる。
途中で何か違和感を感じ、料理長は後ろを振り返った。料理人と女中が駆け回っているが、いつもと比べていやに滑らかだった。
ぶつかりもせず、食器を落としもしない。怒鳴り声もない。
フィロメナが動線を整えた。
ただそれだけで、見違えるほど円滑にことが進んでいる。
料理長は息を呑んだ。
その日、そのことに気付いたのは料理長だけだった。
だが数日を経て、仕事が以前より楽だということに、誰もが気付き始めていた。
仕事量は減っていない。だが、疲労度が違った。人とぶつからない。鍋の移動が滑らかだ。皿を運ぶ際、どこにも引っ掛からない。
厨房の空気は少し変わった。
◇
「次はここです。失礼いたします、ディートリヒ様」
執務棟へ向かった一行は、道々幾つかの動線を整えながら総帥室へと来た。
ディートリヒは書記官を従えて、何事かの指示を出していた。
「何かあったか?」
ディートリヒが気遣わしげに聞くのに、フィロメナは首を横に振った。
「――提案なのですが、書類の箱を設けては如何でしょうか」
「箱」
ディートリヒが目を瞬く。書記官は嫌そうな顔をした。仕事がどんなものかもわからない奥方の思い付きで、手順を狂わされるのは堪らない。
フィロメナは正確に表情を読み、それでも続けた。
「緊急を要する書類、通常、遅くても構わない――の三つ」
ディートリヒは目を瞬いた。
「成程。合理的だ」
「廊下で幾らか人がもたつきますので、濾したらどうかと思いました」
ディートリヒが少しだけ笑った。茶漉しに喩えるのが実にフィロメナらしい。
「遅くても構わない書類の箱を、手前の部屋に設置しておけば、ここまで来る必要はありません。人が滞りませんかと」
「採用だ」
ディートリヒはにやりと笑ってセバスティアンを見た。普段見ない類の表情に、セバスティアンは目を瞠る。
「どうだ。圧巻だろう」
「はい、旦那様」
書記官は溜め息を吐いた。お偉方は奥方の機嫌を取ることしか、考えていないように見えた。
実際走り回るのは自分たちなのにだ。
大体、そんな子供騙しのような策で、何が変わるというのだ。
書記官の溜め息はノックの音で遮られた。
総支配人のハインリヒが入室し、眼鏡の傾きを直した。
「遂に奥様が紅茶本部長に?」
ディートリヒとフィロメナは、同時に首を横に振った。
「まだだ」
「試験を受けてからです」
ハインリヒはふむ、と頷いた。
「執事長がこちらに来るのは珍しい」
「奥様に従い、動線を整えております」
ハインリヒは頷いた。
「奥様は見る目がある。従うべきです」
書記官は絶望的な気持ちになった。総支配人までが、奥方の機嫌を取るのか。
そうしている間にも、書類は次々と増えていく。
ディートリヒは髪の切れ端に"至急"、"通常"、"期限の余裕あり"と書き込んだ。
「箱を三つ用意し、これを貼り付けろ。余裕ありの箱は別室に置く。徹底させろ。結果は五日でわかる」
フィロメナは頷き、書記官も嫌々ながら頷いた。
ギーゼラが得意気ににやりと笑った。後で驚くがいいとでも言いたげな表情に、書記官は鼻の頭に皺を寄せた。
「では、お邪魔いたしました。お仕事頑張ってくださいね」
フィロメナは一礼し、去る。ディートリヒは優しい眼差しでその背中を見送った。
「男爵」
「何だ」
ハインリヒは唇の片端を持ち上げた。
「大変やる気が出たところで、耳寄りな話が」
ディートリヒは表情を改めた。怜悧な商会総帥の顔だ。
「聞こう。――お前は下がれ。箱を忘れるな」
書記官は溜め息混じりに一礼した。
「畏まりました」
そして三日が過ぎた。バルトロメが愉快そうに総帥室の扉を叩いた。
「行列減ったな。フィロメナ殿の策か?」
バルトロメは書類を分類し、箱に入れた。書記官は半信半疑でバルトロメを見上げた。
「偶然では?」
ディートリヒが書類を捌きながら小さく笑った。
「三日までは偶然かもしれん。だが、五日続けば必然だ」
書記官は不承不承頷いた。
五日目。列は更に短くなった。書記官は認めざるを得なくなった。
◇
その日、気付いた場所の、全ての動線を整え終えて。フィロメナは居住棟の私室に戻った。
「差し出がましい真似だったかしら」
少し不安気なフィロメナに、セバスティアンがきっぱりと否定した。
「いいえ。お見事です、奥様」
ギーゼラが頷く。
「ええ、本当に。数日もすれば皆が実感するでしょう。滞らないという快感は癖になりますよ。――ところで、先程稼働中のストーブがございましたね。お茶にいたしませんか」
フィロメナは立ち上がった。
「私が淹れるわ」
「侍女の私がおりますのに」
ギーゼラが苦笑するが、フィロメナは悪びれない。
「セバスティアンにも飲んでほしいの。給湯室を使っても?」
セバスティアンは、今日初めて狼狽した。
「お近付きの印に。ね?」
重ねて言われ、セバスティアンは陥落した。
初めて飲むフィロメナの紅茶は最高に美味だったと、セバスティアンは後に語っている。




