第四話 奥様初日
鳥の歌う声が聴こえ、羽音が遠ざかる。帳から漏れ入る朝日に、フィロメナは目を開けた。
何度か目を瞬いて、小さく欠伸をする。
「おはよう。よく、眠れたか?」
低くて優しい声が至近距離から聞こえて、フィロメナは頬が熱くなるのを感じた。
「おはようございます。え……と、よく、眠れました」
まだ目を合わせられない。心臓が勢い良く走り出した。恥ずかしさが込み上げてきて、フィロメナはシーツに顔を埋めた。
「可愛いことをしているな、俺の……いや、私の奥方」
フィロメナはちら、とシーツの間から顔を覗かせた。
「ディートリヒ様、もしかして俺って仰る方が自然でいらっしゃいます?」
「え? ああ。貴族らしくないからな。気を付けてはいるんだが」
「――では、私の前では"俺"で」
「何故?」
「その方が、飾らないあなたが見られる気がします」
ディートリヒはフィロメナの腰を引き寄せた。
「本当に、可愛いな。俺の奥方は」
抱き締めてフィロメナの頭に顎を乗せて、ディートリヒはうっとりと囁く。
「どきどきしてる」
「そ、れは仕方ないです。だって――」
昨夜のことを思い出し、フィロメナは耳まで赤くなった。ディートリヒはくつくつと笑って、フィロメナを抱き締める腕に少しだけ力を込めた。
「痛いところはないか?」
「だ、いじょうぶ、です。……その、違和感は、えと……はい」
「うん。少しずつ、慣れていこう」
「はい」
ディートリヒはフィロメナの髪を手で櫛りながら、うっとりと吐息をこぼした。
「もうすぐ小姓が起こしに来るが、今日はどうする? 身体が辛かったら、ゆっくり休んで……」
フィロメナがディートリヒの鎖骨に、軽く頭突きをした。
「何を仰います。ディートリヒ様の奥方として最初の日ですわ。寝坊などしたら見限られてしまいます」
「誰に」
「あなたにも、あなたの家の方々にもです」
「真面目だな、俺の奥方は」
亜麻色の髪に口付けて、ディートリヒはうっとりと呟いた。
「真面目な女はお嫌いですか?」
「いや、まさか。ただ――」
「ただ?」
「次からは加減しなくてもいいかな、と」
フィロメナは目を瞬いた。意味がわかって、徐々に頬が熱くなる。
「加減、して、くださって、た、のです、ね」
「無理はさせられないだろう」
フィロメナは額をディートリヒの胸に押し付けた。
「――やはり、夫婦の務めは、普通は、その……辛く苦しいものなのですか?」
ディートリヒは少し考えた。
「どうだった?」
「……初めての感覚でしたので、なんと言ったら良いのか、わかりませんが……ええと、その……幸せ、です」
ディートリヒはフィロメナの頭を抱き込んで、耳に直に囁いた。
「もう少し慣れたら、もっと君とひとつになりたい」
甘やかな声に、フィロメナは蚊の鳴くような声で答えた。
「……私、も、です」
甘くしっとりとした空気のまま夜着から着替えて、朝食前に朝礼があると告げられる。
今日から"奥方様"なのだ。改めて気持ちを引き締めなければと、フィロメナは思ったのだった。
◇
朝礼で、浮ついた気持ちは欠片も残さず吹き飛んだ。ぴしりと整えられた空間は、糸が張り詰めたようだ。
ゼーベルク商会王都館、迎賓棟と居住棟の使用人たちは勢揃いして、ディートリヒとフィロメナを待っていた。総勢五〇人弱だろうか。
「おはよう、諸君。今日からここの女主人になるフィロメナだ。万事彼女に従うように。私の大切な妻だ。彼女に無礼を働いたり、傷付けたりした者は即刻解雇するのでそのつもりで」
ディートリヒが宣言し、フィロメナはひくりと頬を僅かに引き攣らせた。
「フィロメナ、挨拶を」
ディートリヒに促され、フィロメナは一歩前に出た。
「フィロメナ・マルリス・フォン・ゼーベルクです」
そう名乗った時、フィロメナの中で何かが変わった気がした。
今日からは、この居住棟の女主人となるのだ。
「ブルーメンフェルト伯爵家で育ちましたが、この家のことはまだ何もわかりません。ですから、皆の力を借りることになるでしょう。どうぞよろしくお願いいたします」
フィロメナはドレスの裾をさばき、きれいに一礼した。場がざわめく。女主人が使用人たちに礼を取ったのだ。驚きもするだろう。
フィロメナは一拍息を吸い、続けた。
「皆の働きが、正しく報われる家であることを望んでおります。この家を支える者同士、どうぞ力を貸してください」
使用人たちは揃って頭を下げた。敬意に満ちた空気に、ディートリヒは優しく目を細めた。
「次にフィロメナの侍女、ギーゼラだ」
ギーゼラが進み出て一礼した。
「フィロメナ様に付き従いゼーベルク家に参りましたギーゼラと申します。宜しくご指導ご鞭撻の程、お願い申し上げます」
流れるような口上に、フィロメナは内心驚いていた。見事な猫を被っている。
「では、順に紹介する。執事長のセバスティアン。居住棟のことは隅から隅まで把握している。何でも聞くと良い。他に執事は三名、来客管理、文書管理、客室管理」
ひとりずつ一歩前に出て一礼し、下がる。
「家政婦長のカーリン。セバスティアンに聞きにくいようなことは、彼女に」
どっしりとした赤毛の女性は一歩前に出て、丁寧に一礼した。迫力負けしそうだと、フィロメナはこっそりと思う。縦にも横にも大きなカーリンは、きりりと引き締まった表情をしていた。
そして料理長、女中長の紹介が続き、下級使用人たちはそれぞれ部署ごとに揃って礼をした。
(侍女と従僕がいないのね)
ゼーベルク商会職員は別で、職員棟にいると言っていたから、秘書などが従僕の代わりをしているのだろう。
(――全員覚えられる気がしないわ)
フィロメナはこっそりと憂鬱になった。人の顔と名前を覚えるのは苦手ではないはずなのだが、ここ数日で人に会い過ぎている。さすがに記憶力の限界だ。顔と名前が一致しない。
一旦部屋に下がって、フィロメナは吐息した。
「お嬢様、じゃなかった、奥様。どうしました?」
「名前が、覚えられなくて……」
ギーゼラは笑う。
「私が常に隣におりますから、大丈夫です。ご安心を」
フィロメナはぎょっとしてギーゼラを見た。
「まさかあなた、もう全員覚えたの?」
「はい」
何でもないことのように言ってのけるギーゼラに、フィロメナは嘆息した。
「侍女の役目は、主人に代わって雑事を覚えることも含まれますから。ゆっくりで大丈夫ですよ。わからなくても横で囁きますし。一年も経てば、きっと嫌でも覚えます」
榛色の眸がきらきらと輝く。フィロメナは改めてギーゼラの手を取った。
「ギーゼラ。私と一緒に来てくれてありがとう。本当に心強いわ」
「お嬢、いや、奥様は完璧主義者ですからねえ。些末なことはいい加減で良いんです。どーんと丸投げしてください」
ギーゼラはとんと得意気に胸を叩いた。




