第二七話 開耕の祈り
三月上旬の佳き日を選び、開耕の祈りが行われる。
春の訪れを祝い、その年の豊作を祈る、農民だけでなく、貴族や商人、王家も参加する国家的儀式だ。
大地母神エルデリアへの感謝と、春の女神フリューリンゲの祝福を願う。
夜明けとともに神殿の鐘が鳴ると、家々では窓を開け、新しい春の空気を迎え入れる。
ゼーベルク王都館でも次々と窓が開け放たれた。
そして冬の間使った暖炉の灰を庭へ撒き、大地へと返す。
ギーゼラと共に、フィロメナも私室の暖炉の灰を掻き集め、小さな布袋へ入れた。
玄関ホールにてのひら大の袋が山と積まれる。撒かれるのは庭ではなく菜園だ。
肥料として使うという。
「とても良いことだと思いますわ」
フィロメナはにこにこと頷いた。ディートリヒも微笑み返す。
「儀式に則り、実利も得る。それが商人だ」
天空神を始めとした神々を祀る王都中央神殿では祈祷が行われ、神官が豊穣の祝詞を唱える。王家、七大貴族、主要商会代表などがこれに参列する。
フィロメナはゼーベルク商会総帥夫人として、初めて参列することとなる。
「男爵夫人であり、商会の総帥夫人でもあるとはいえ……思っていた以上に、色々参加しなくてはならない行事が多いわね」
フィロメナは春の儀式に相応しい鴇色のドレスを着た。本当に衣装を選ぶ機会が多いなと、しみじみ思った。
ブルーメンフェルト伯爵令嬢として儀式に出席する際には、毎回ほぼ同じようなドレスを着ていた。
唯一の一張羅だったり、その式典の時だけしか袖を通さない特別なドレスだったり。
フィロメナは小さく溜め息を吐いた。
ゼーベルクの名を背負う以上、生半可な衣装では出られない。
髪をまとめ、フィロメナは表情を引き締めた。
「では、参りましょうか」
ディートリヒは頷いてフィロメナの手を取った。
馬車は大通りを中央神殿へと向かって駆けた。
馬車の窓越し、石畳の大通りがゆるやかに後ろへ流れてゆき、鉄を打った蹄が石畳を律動的に駆ける。
街路樹の枝先には淡い若芽がのぞき、春の光を透かしている。
白い雲が流れる高い空の下、王都は長い冬から解き放たれたような明るさに包まれていた。
馬車の速度ががくんと落ちた。中央神殿前は幾つもの馬車で混み合っていた。
中央広場を見下ろすように、壮麗な神殿がそびえ立っている。
彩色硝子で描かれた絵に陽が差し込むたび、床には赤や青、金色の光が静かに広がった。
開耕の祈りで最重要とされるのが、"王家の鍬入れ"だ。儀式最大の見せ場であり、"今年も国を耕す"という象徴的な意味合いがある。
神殿内にある畑に、王家の者が鍬を入れるのだ。
「今年は王太子殿下夫妻ですのね」
そっとフィロメナはディートリヒに囁いた。
エストラヴィア王国から輿入れした王太子妃が、レーヴェンライヒの正式な儀式を執り行うのは、確か初めてではなかっただろうか。
遠目ながら、王太子妃はかなり緊張しているように見えた。
神官から王太子へ、鍬が手渡される。
王太子ジークムント・ゲオルグ・フォン・グロリア・エーヴィヒカイトは大きく鍬を振り被った。
そして、三度振るう。
そこへ王太子妃リリア・マルタが丁重に種籾を撒き、神官が聖水を振り掛けた。
地方でも同時開催し、各領地では、領主、代官、村長が鍬を入れる。
例年、ブルーメンフェルト領では領主代理として、本邸執事のオットーが鍬入れを行なっていた。
鍬入れの後に農民は鍬、鎌、犂などを持参し、神官が祝福を与える。
これから一年、安全に使えるよう祈るのだ。
王太子夫妻が見守る中、王領の農民への祝福は粛々と行われた。
午後になると、中央広場に市が立つ。通称、春の大市だ。
種子、苗木、家畜、農具、香辛料、茶葉など春に必要な品が並ぶ盛大な市は、祭りに等しい。
当然ゼーベルク商会も出店する。
会議の場でディートリヒは発言した。
「今年は茶葉を多めに出す。貴族層では茶会が流行りだ。平民層にも手を出しやすい価格帯の物を、多く並べろ」
総支配人のハインリヒが頷き、財務部長のセドリックが数値を出した。
「二月分の月次決算はまだですが、現在時点で茶葉の売り上げは昨年の二月分を大きく上回る見通しです」
一旦言葉を切り、セドリックはディートリヒを見た。
「奥様、いえ、紅茶本部長の成果と言えるでしょう」
ディートリヒは誇らしげに微笑んだ。
「どうだ、私の妻は素晴らしいだろう」
セドリックは軽く溜め息を吐くと両手を挙げた。
「認めざるを得ませんね。——この状態が続けばのことですが」
そう付け加えることを忘れない。
昼から夕方に掛けて。各家庭では新しい黒パン、春野菜の煮込み、燻製肉、蜂蜜酒などを囲む。
通称"祝いの食卓"だ。
フィロメナは前回ヴァルトマン侯爵夫人への土産とした配合紅茶を淹れた。甘橙の香りがほのかに明るく香る。
「春に相応しい紅茶ですわ」
フィロメナは得意げに微笑んだ。
食卓を囲みながらフィロメナは儀式のことを思い出していた。
「今年はゼーベルク男爵夫人として初参加でしたが——」
農民が笑顔になること。商人が種や農具を売ること。豊作は商会にも利益をもたらすこと。
それらはすべて繋がっている。どの一角が崩れても、成り立たない。
「商人も、貴族も、そして国そのものも——農民がいてこそ成り立つ存在なのだと、改めて思い知った気がいたします」
ディートリヒは紅茶茶碗に口をつけ、頷いた。
「なるほど、それも確かに重要なことだな」
そういいながらも、ディートリヒは儀式そのものより、春の物流開始や山道の雪解け、港の再開、各地の収穫予測を見ていた。
「民のことより物の流れのほうが気になる俺は、やはり君と違い、貴族よりは商人なのだろうな」
自嘲するようなディートリヒに、フィロメナは小首を傾げた。
「違う見方ができるのは、良いことではありませんの? だって、物事を多角的に見られますでしょう」
前向きな意見に、ディートリヒは柔らかく微笑んだ。
「なるほど、道理だな」
フィロメナは柔らかく目を細めた。そして、祈る。
「豊作になりますように」
ディートリヒは北に思いを馳せた。
「今年は北街道の開通が例年より早そうだ」
同じ儀式に臨んでも見ているものが違う。それもまた、二人らしい。
希望に満ちた月の始まりだった。




