第二五話 願いというよりは宣言
ヴァルトマン侯爵夫人の茶会から戻る途中の馬車の中、椅子に埋もれるようにもたれかかるフィロメナに、ギーゼラはそっと声を掛けた。
「お疲れ様でございました。大成功ですね、奥様」
フィロメナは疲労困憊の様子で頷いた。
「なんとかなった……」
「はい。帰りましたらゆっくりお風呂に入って、手足を伸ばしてお休みください。按摩いたしましょうか?」
「うん、お願い……首と肩ががちがちだわ」
「畏まりました」
ずるりとだらしなく手足を投げ出すフィロメナの様子に、ギーゼラは苦笑する。
「相当お疲れですね。お薬湯のご用意は必要ですか?」
「いいえ、大丈夫。ありがとう。——あなたは、ギーゼラ?」
「はい」
「疲れてない?」
ギーゼラはにこりと笑った。
「私の方は全然です。侍女同士、面白い話も聞けました。後でご報告しますね」
フィロメナは頷くと目を閉じた。
「このまま眠れるわ、私」
「駄目ですよ。眠るのは寝台でないと、却ってお身体が疲れます」
「うう……わかってるんだけど……」
馬車はかたことと律動的に揺れている。石畳を走る馬車の揺れは、眠りを誘うのに丁度いい。
まさに眠りに落ちる寸前、馬車はゼーベルク商会王都館に到着し、扉が開けられた。
「お帰り、フィロメナ」
扉を開けたのは侍従ではなくディートリヒだった。
「まあ、ディートリヒ様」
フィロメナは少し驚いた様子で身を乗り出した。
「お忙しい時分ですのに、わざわざお出迎えくださったのですか」
「丁度今し方、俺も帰って来たところだ。うちの馬車が見えたからな」
手を差し出しフィロメナを馬車から降ろすと、ディートリヒは柔らかく微笑んだ。
「疲れているが、満足そうな顔だ。成功だな」
「はい」
フィロメナはゆるゆると表情を崩した。
「抱いていこうか? 歩くのも辛い?」
「まあ、いいえ。歩けますわ」
相変わらず過保護なディートリヒに苦笑し、フィロメナは首を横に振った。
ギーゼラがそっと馬車を降り、控える。ディートリヒは視線をやった。
「特に報告すべき点はあったか?」
ギーゼラはにやりと笑った。
「これからお茶会が貴族界隈で流行します」
「根拠は」
「勘です」
自信たっぷりに言い切ったギーゼラに、ディートリヒは片眉を上げ、フィロメナは苦笑した。
「流行るかどうかまではわかりませんが、紅茶を気に入ってくださった方は多いと思います」
ギーゼラが補足した。
「奥様のチャイが、多くの方々の心を動かしました。ホーエンシュタイン公爵夫人が気に入った、と」
フィロメナが驚いてギーゼラを見た。
「あなた見てたの?」
「面白そうな展開でしたので、覗いていた侍女は多いですよ」
ディートリヒが首を傾げて不思議そうな表情を浮かべたので、フィロメナは顛末を話した。
「ホーエンシュタイン公爵夫人に試されたのですわ。香辛料抜きのチャイをお作りしました。気に入ってくださったと思います」
ディートリヒは商人の顔になって笑った。
「早速顧客を増やすとは。流石だな」
フィロメナは少し得意げに続けた。
「ここで例の紅茶初心者向けの冊子を出せば、良い反応が得られるはずです」
「よし。良い連鎖が起こる前触れだ。作業を急がせよう」
フィロメナは少しだけ上目遣いで囁いた。
「頑張りましたのよ」
そんな珍しい甘え方に、ディートリヒは優しく微笑んだ。
「良くやった。誇らしいぞ、フィロメナ」
そして、フィロメナの額にそっと接吻を落とした。
「俺の妻はやはり最高だ」
数日後、ゼーベルク商会には紅茶の注文が相次いだ。
そしてまた数日後、初心者向けの紅茶紹介の冊子が売り出された。
ここから大きなうねりが起こり、王都では紅茶が流行り物として持て囃されることとなった。
そして、その勢いは王都だけに留まらなかった。
二月の半ば。日没後に、冬送りの祭が行われる。
冬の女神ヴィンタリアを送り出し、春の女神フリューリンゲを迎える準備の日だ。
一年で最も寒い時期を無事に越えられたことへの、感謝が主題である。
日が落ちた王都は通りに灯籠が並び、窓辺には灯火が置かれている。広場には大きな篝火が焚かれ、残り雪が灯りを反射し、幻想的だ。
市場では、温かい飲み物や焼き菓子が売られる。
家族で灯火を灯す人、恋人と夜道を歩く人。子供は提灯を持って歩き、神殿で祈る人。広場では音楽が響き、踊る人々——祭の夜を過ごす姿は様々だ。
灯火は"春への道しるべ"とも言われるので、灯を吹き消す者はいない。
若者の間には"一緒に灯火を見ると一年離れない"という言い伝えも囁かれている。
ゼーベルクでは毎年、使用人全員に温かい飲み物を振る舞うのが恒例だ。
今年はフィロメナが提案したマサラチャイと温葡萄酒。どちらも香辛料が利いていて、美味い。
仕事終わりに、ディートリヒとフィロメナは二人だけで散歩をした。毛織物の外套を羽織り、手を繋いで。
街角には雪が残り、静かだ。遠く広場では音楽が響き、踊り歌う声が聞こえる。
灯火が揺れた。
フィロメナは目を細め、そっと呟く。
「綺麗ですね」
ディートリヒは真顔で囁いた。
「君の方がよほど綺麗だ」
フィロメナは耳まで赤くなり、俯いた。ディートリヒは上機嫌でフィロメナの手を引き、歩く。
橋の上では人々が小さな灯籠を川へ流していた。願いを書いた札を添え、叶うことをささやかに願う。
流れていく灯はまるで星のようだ。
「俺達も流そうか」
「はい」
フィロメナは札を貰い、少し考えた。何を書こうかと迷い、けれどいつも通りの願いを綴った。
"皆が笑って過ごせますように"と。
ディートリヒは少し悩んだ。常ならば"商売繁盛"で決まりなのだが、今年の祭にはフィロメナがいる。
ディートリヒはさらりとペンを走らせた。
「何を書いたのですか?」
「君を幸せにする、と書いた」
フィロメナは目を瞬き、頬どころか額まで赤くなった。ディートリヒは満足そうに微笑んで、フィロメナの額に接吻する。
「願いというよりは宣言だ。叶わなくても自力で叶える」
フィロメナはゆっくりと息を吸って、吐いた。
「……ディートリヒ様らしいですわ」
ディートリヒとフィロメナはそっと灯籠を川に流した。
灯籠の灯が遠く星のようになるまで、二人は寄り添って見守っていた。




