第二十話 義兄上
旧河岸地区へ行った次の日、ルードヴィヒがゼーベルク王都館に飛んで来た。それも馬車でではなく、騎馬でだ。
面会予約もせずに、文字通り乗り込んできた弟に、フィロメナは眉を寄せた。
「ルードヴィヒ、ディートリヒ様はお忙しいのよ。面会の約束なく来るものではないわ」
窘めるフィロメナを、ルードヴィヒは鋭い眼で睨みつけた。
形相の凄まじさにフィロメナは目を瞬き、付き従っているギーゼラは口をきゅっと引き結んだ。
これほどまでに怒っているルードヴィヒは、中々に珍しい。
「待たせてすまない、弟君」
ディートリヒが足早に応接室に現れ、一礼する。セバスティアンがそっと扉を閉めた。
ルードヴィヒは一礼すると口火を切った。
「ディートリヒ殿。何故、姉上を旧河岸地区へ連れて行ったのですか」
容赦のない詰問だった。その口調は厳しく、言い訳を許さない。
「ルードヴィヒ」
フィロメナが窘めるが、ルードヴィヒは止まらない。
「姉上が暴漢に襲われたと聞きました」
フィロメナはゆっくりと頭を振った。
「落ち着きなさい、ルードヴィヒ。木の杯を投げ付けられただけよ」
ルードヴィヒは眉を釣り上げる。
「それを世間一般では襲われたと言うのです!」
ディートリヒはフィロメナを一歩退かせると、ルードヴィヒに頭を下げた。
セバスティアンが目を細め、ギーゼラが短く吐息をこぼした。
「すまない。私の落ち度だ」
「ディートリヒ様!」
フィロメナが眉を寄せ、ルードヴィヒは唇を噛んだ。
「私が申し出たのです。しかも庇ってくださったのはディートリヒ様ではないですか!」
いや、とディートリヒは首を横に振った。
「認めたのは私だ。つまりは私の責任だ」
ルードヴィヒは苛々と歯噛みした。
「旧河岸地区は、姉上が思うより危険な場所です。二度と近付かないようにしてください」
フィロメナは苦く溜め息を吐いた。
「ルードヴィヒ。私はもうブルーメンフェルトの者では無いの。あなたに口を出す権限は無いわ」
「姉を思う弟の頼みでも聞けませんか」
まっすぐにフィロメナを睨み付ける、ルードヴィヒの拳は震えている。
フィロメナは溜め息を吐くと額を押さえた。
「ルードヴィヒ」
言いかけたフィロメナを、ディートリヒが制す。肩に手をやり、頭を横に振った。
フィロメナは頷くとその場を譲り、ディートリヒは改めてルードヴィヒに向き直った。
「ルードヴィヒ殿」
「何ですか、ディートリヒ殿」
ディートリヒとルードヴィヒは、真正面から睨み合う。
「フィロメナは私の妻だ。私が責任を持って守る」
ルードヴィヒは目の下に皺を刻んだ。
「あなたでは心配だと言っているのです。今回は大丈夫でしたが、毎回そうとは限らない」
視線が強くぶつかる。まるで剣で打ち合っているようだ。フィロメナはこっそりと天井を仰いだ。
ルードヴィヒは昔からフィロメナに対して過保護だ。
母イングリドが病没した時、ルードヴィヒはまだ幼かった。母にできなかった分もフィロメナを守ろうとするようになった。剣の稽古に勤しむのもその一環だ。
それは結婚し、ブルーメンフェルト家を離れた今も続いている。
諦めたように吐息し、フィロメナは軽く手を叩いた。そして、二人の視線が自分に向くのを見据え、口を開いた。
「私の意思はそれほどまでに、取るに足らないものなのかしら」
低い声だった。
「フィロメナ」
「姉上」
ディートリヒが息を呑み、ルードヴィヒが目を見開いた。
「ディートリヒ様」
「——はい」
「ルードヴィヒ」
「はい、姉上」
フィロメナは険しい表情のまま言葉を紡ぐ。
「私は私の意思で旧河岸地区へ赴きました。危険を軽視していたわけではありませんが、想定が甘かったことを認めます」
一旦言葉を切り、フィロメナは二人をゆっくりと見据える。
「今回、ディートリヒ様は私を守ってくださいました。ですが次回もそうとは限りません。今後、護衛無しで旧河岸地区へ向かうことは致しません。——それではいけませんか」
ディートリヒは喉を鳴らし、ルードヴィヒは直立不動で口を結んだ。
「もう一度聞きます。いけませんか」
ルードヴィヒが直立不動のまま答えた。
「いいえ」
「構わない」
ディートリヒは低く頷いた。
フィロメナは深く息を吐く。
「結構」
一部始終を見守っていたセバスティアンは、ギーゼラにそっと視線を送る。
ギーゼラは緊迫した表情で、ゆっくりと頷いた。
こういう時のフィロメナに、逆らってはいけない。ブルーメンフェルトでは不文律だった。
セバスティアンはゆっくりと頷き返し、また一分の隙もない執事の姿勢に戻った。
フィロメナは張り詰めた空気を壊すように、微笑んだ。
「では、お茶を如何?」
そう言うフィロメナの表情は、いつもの柔らかなもので。応接室内の空気は、真冬から一気に春へと移行したように、緩んだ。
圧迫が消える。
ルードヴィヒは大きく息を吐くと、ギーゼラに目配せをした。
「はい、坊ちゃま」
ギーゼラが近寄ると、ルードヴィヒはそっとギーゼラの耳元で囁く。
「姉上、前より強くなってないか?」
「——まあ、そうかも知れませんね」
フィロメナはいつものように丁寧に紅茶を淹れた。
「セバスティアン、ギーゼラも」
「畏れ入ります」
「頂戴します」
ルードヴィヒは勧められるままに紅茶を飲み、眉を寄せた。
「姉上、これは……?」
フィロメナは微笑む。
「お気に召さなかったかしら」
言葉は疑問形だが、そうでないことを確信している表情だった。
「いえ、そうではなく……珍しい風味ですね。柑橘ですか?」
「当たりよ。さる御方に差し上げる配合紅茶の試作品なの。どうかしら」
ルードヴィヒはまた一口飲み、頷いた。
「明るい感じがしますね。華やかと言うよりは爽やかだ」
フィロメナは満足気に頷いた。
ゲーンダーを茶匙に二杯、グルバハールを一杯、甘橙の果皮を削ったものを一杯。
配合比率は二対一対一の物が、最も評判が良かった。
「ゲーンダーを三にするか二にするか、迷ったのだけど。三にすると、少し落ち着き過ぎてしまう気がして——」
ルードヴィヒは眉を寄せた。
「私には銘柄とか、詳しいことはわかりませんよ、姉上」
フィロメナは肩をすくめた。
「率直な意見が欲しいの。ゼーベルクの人たちは私を肯定してばかりなのだもの」
ギーゼラとセバスティアンが顔を見合わせ笑った。
「ゼーベルク商会は、既に奥様の信望者でございますから」
「そうですわね。文句をつけるのはウーヴェ殿くらいでは?」
ディートリヒが笑った。
「違いない」
ルードヴィヒは紅茶を飲みながら、少しだけ苦いものを感じていた。味覚ではなく、感情だ。
(姉上は——ゼーベルク男爵夫人になったのだ)
ゼーベルクに受け入れられ、認められているのを感じるのは嬉しく、また誇らしい。
だが寂しさも、そして悔しさもある。
取られた、と感じてしまうのは己の未熟さのせいなのだろう。
ルードヴィヒは紅茶を飲み干し、卓に紅茶茶碗をそっと置いた。
「——では、私はこれで失礼します」
フィロメナが目を丸くした。
「もう帰ってしまうの? ——まさかあなた、本当にディートリヒ様に文句を言うためだけにこちらへ来たの?」
ルードヴィヒは胸を張った。
「その通りです。ですが、言いたいことは言いました。姉上には、もっと言いたいこともありますが、今日のところは引きましょう」
ルードヴィヒは一礼した。
「姉上はこちらで、今迄以上に闊達にお過ごしの様子ですが、行き過ぎないことを願います。ディートリヒ殿——いえ、義兄上」
ディートリヒだけでなく、フィロメナもギーゼラも目を見開いた。
「姉上が暴走しないよう、宜しくお願いします」
ディートリヒは胸に手を当て、頷いた。
「心得た」




