第十九話 衣食住足りて
天蓋付きの大きな寝台と幾つもの枕に埋もれ、フィロメナは目を覚ました。
背中から包み込まれるように愛しい夫の腕が回っていて、逃げられそうにはない。
フィロメナはほう、と小さく息を吐いた。
(あったかい……)
結婚式からひと月が過ぎた。
だが、まだひと月だ。
もっと長かった気がする。何しろ様々な事がありすぎた。
結婚式に続いての三日間の披露宴は、まさに怒涛の如くだったし、ゼーベルク商会幹部との初顔合わせに、王宮への新年の挨拶、ギーゼラへの嫌がらせもあった。
そしてつい先日の、紅茶本部長の試験に続いて初仕事をも終えた。
これからどんどんと、案件は増えていくだろう。
(そう、緊張しているわ……)
今日から五日間は慈善活動期間だ。神殿や教会、商会などが、旧河岸地区——いわゆる貧民街で毛布の配布や炊き出し、薪の配布などを行う。
危険地帯ではないが、貴族の令嬢が近付く場所ではない。そのため、フィロメナも訪れるのは今回が初めてだ。
ディートリヒも最初はフィロメナが参加することに反対だったが、ディートリヒの隣を離れないことを条件に認められた。
(ディートリヒ様は、やっぱり過保護だと思うの)
王都ヴァイスブルクには常に人が流入する。農村から仕事を求めて来た若者、港町から移ってきた船乗り、他国からの移民、職を失った職人、戦争や災害で故郷を失った人々、境遇は様々だ。
全員がすぐ仕事や住居を得られるわけではないため、自然と低所得者が集まる地区ができたのだ。
男性が多い傾向にある。言い換えるなら、女性には危険な場所である。
一人で歩く女性は珍しく、たいていは家族や知人と連れ立っている。子供も、日暮れ前に帰れと言い聞かされて育つ場所だ。
ブルーメンフェルトにも貧困地域はあったし、フィロメナ自身、支援活動の経験はある。だからそこまで心配することはないと思うのだ。
王都警備隊が巡回し、神殿の施療院、孤児院、炊き出し、職業斡旋所などがある場所だ。
国から見捨てられた地域ではなく、無法地帯ではない。
だが、夜になると掏摸や詐欺師、密売人が闊歩するのに適した場所でもある。助けを求める声が聞こえても、周囲は関わることを避けるとも聞く。
(ブルーメンフェルトとは規模が違うし、心配する理由もわかるけど……でもやっぱり、私は想定が甘いのかしら)
想像しているよりも、ずっと荒んだ地区なのかもしれない。
そんな旧河岸地区へ、年に何回か大々的に支援活動が行われる。
ゼーベルク商会も一翼を担い、大々的に援助をする行事だ。フィロメナの提案で、今年からはパンとシチューだけでなくマサラチャイも配布することとなった。
風味が落ちた茶葉は、今までは規格外品として処理していた。しかしフィロメナとウーヴェとが居れば、美味しく、しかも栄養も考慮して提供できる。いいこと尽くめだ。
(紅茶が少しでも慰めになれば——)
ディートリヒが背中で少し身動きをした。
「おはよう……フィロメナ」
少しだけくぐもった声は、まだ寝ぼけている。
「おはようございます、ディートリヒ様」
「すまない、掴まえてしまっていたな。苦しくなかったか?」
「大丈夫。あったかかったです」
フィロメナは、嬉しそうにディートリヒの手を頬に当てた。
一ヶ月前は、ディートリヒはいつでもフィロメナよりも先に起きていて、寝ぼけた様子など見たことがなかった。
だが、最近は少しぼんやりしている姿を見せてくれるようになった。
気を許してくれるようになったのだと思う。
(もっとあなたのいろんな姿を見たいわ)
段々覚醒してきたのだろう、ディートリヒは一旦ぎゅっとフィロメナを抱き締めて解放した。
「今日は旧河岸地区か」
「はい」
「重ねて言うが、俺の傍を離れないように」
「はい。心得ております」
◇
旧河岸地区は、思ったよりも雑然とした場所だった。
石畳はところどころ欠け、長年の往来で角が丸く磨かれている。樽や木箱が無造作に積まれ、人ひとりがようやく通れる道も少なくない。
今は雪は降っていないが、昨日までの残り雪が角に無造作に除けられている。
ちらちらとこちらを窺う胡乱な視線も幾つかあった。ディートリヒは油断なく視線を向け、視線の主らを退けた。
「足元に気を付けて。意外と小石が転がっている」
馬車から降りる際、ディートリヒはそう言って手を差し出した。
「はい、ありがとうございます」
フィロメナは地面に降り立つと、早速腕まくりをした。
「では、私は鍋でマサラチャイの担当ですね」
簡素に石を組んだだけのかまど。そこに大鍋を置くと火をつけた。
大鍋にあらかじめ計ってきた香辛料と砂糖と水を入れ、沸騰するのを待つ。
やはりあらかじめ計ってきた茶葉を入れ、鍋を掻き混ぜる。牛乳を入れる頃合いを見極めるため、集中しているフィロメナの横で、ディートリヒはあれこれと指示を出している。
フィロメナにぴったりと寄り添い離れないようにしているディートリヒに、申し訳なく思う。
「ディートリヒ様、私はここを動きませんので、視察をなさってくださっても大丈夫ですよ?」
「すべてここに報告するように取り計らってある」
真顔で頷かれ、フィロメナは苦笑した。
ぐつぐつと泡が弾ける音がした。沸騰する直前に、フィロメナは牛乳瓶を傾けて鍋に注ぐ。
ディートリヒがさり気なく支えてくれた。
「ありがとうございます」
「重いだろう。何かあれば指示してくれ」
フィロメナは頷いて鍋の中身を掻き混ぜた。
「では、味見をお願いします」
木製の杯に玉杓子で一杯注いで、ディートリヒに渡す。
「熱いのでお気を付けて」
ディートリヒは少し冷まして口をつけた。
「——うん、美味い」
「良かった」
フィロメナは微笑み、煮詰まらないように鍋を掻き混ぜ、火の調整をした。
フィロメナのマサラチャイは好評だった。
行列は長く続き、鍋はあっという間に空になった。
「奥さん、お恵みを」
空になった杯を差し出し、男が薄ら笑いを浮かべた。
「ごめんなさい、もう無くなってしまいました。シチューは如何?」
男は舌打ちし、杯をフィロメナに投げつけた。ぶつかる寸前にディートリヒが庇い、男は衛兵に取り押さえられる。
「ちっ、気取りやがって」
フィロメナは目を瞬いた。驚いたこともあるが、自分に向けられる悪意の理由がわからなかったのだ。
「フィロメナ、無事か」
「……はい、ありがとうございます。ディートリヒ様」
「うん?」
フィロメナは複雑な表情をしていた。怒ればいいのか、悲しめばいいのかわからない。
「私、何か気に障ることをしてしまったのでしょうか……」
ディートリヒはフィロメナを抱き締めて、耳を塞いだ。
「聞かなくていい。聞く価値のない言葉だ」
恵まれた者の笑みが、彼らには嘲りのように映ったのだろう。羨望は、冷たい嫉妬へ姿を変える。
境遇の隔たりは言葉では埋まらず、やがて敵意となる。
反感、軽蔑、不信——フィロメナが受けるべきではない感情だ。
ディートリヒの予想に反して、フィロメナは泣かなかった。
ディートリヒを見上げ、言った。
「心を慰めるには、まずお腹を満たさなくてはなりませんね」
ディートリヒは目を丸くし、フィロメナの顔をまじまじと見つめた。
「"衣食住足りて礼節を知る"という言葉が、東方にはあるそうです」
フィロメナは辺りを見廻した。劣等感と恨めしい視線が向けられている。
「ここには、どれも足りてはいないのでしょう。僅かばかりの施しでは駄目なのでしょうが、これ以上は国の領域ですね。意見書を纏めて提出します」
ディートリヒは目を細めた。
「さすが我が妻。逞しいな」
フィロメナは微笑んだ。
「悲しんで諦めるだけでは、何も変わりませんから」




