↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
19/28

第十九話 衣食住足りて

 天蓋付きの大きな寝台(ベッド)と幾つもの枕に埋もれ、フィロメナは目を覚ました。

 背中から包み込まれるように愛しい夫の腕が回っていて、逃げられそうにはない。

 フィロメナはほう、と小さく息を吐いた。

(あったかい……)

 結婚式からひと月が過ぎた。

 だが、まだひと月だ。

 もっと長かった気がする。何しろ様々な事がありすぎた。

 結婚式に続いての三日間の披露宴は、まさに怒涛の如くだったし、ゼーベルク商会幹部との初顔合わせに、王宮への新年の挨拶、ギーゼラへの嫌がらせもあった。

 そしてつい先日の、紅茶本部長の試験に続いて初仕事をも終えた。

 これからどんどんと、案件は増えていくだろう。

(そう、緊張しているわ……)

 今日から五日間は慈善活動期間だ。神殿や教会、商会などが、旧河岸地区——いわゆる貧民街で毛布の配布や炊き出し、薪の配布などを行う。

 危険地帯ではないが、貴族の令嬢が近付く場所ではない。そのため、フィロメナも訪れるのは今回が初めてだ。

 ディートリヒも最初はフィロメナが参加することに反対だったが、ディートリヒの隣を離れないことを条件に認められた。

(ディートリヒ様は、やっぱり過保護だと思うの)

 王都ヴァイスブルクには常に人が流入する。農村から仕事を求めて来た若者、港町から移ってきた船乗り、他国からの移民、職を失った職人、戦争や災害で故郷を失った人々、境遇は様々だ。

 全員がすぐ仕事や住居を得られるわけではないため、自然と低所得者が集まる地区ができたのだ。

 男性が多い傾向にある。言い換えるなら、女性には危険な場所である。

 一人で歩く女性は珍しく、たいていは家族や知人と連れ立っている。子供も、日暮れ前に帰れと言い聞かされて育つ場所だ。

 ブルーメンフェルトにも貧困地域はあったし、フィロメナ自身、支援活動の経験はある。だからそこまで心配することはないと思うのだ。

 王都警備隊が巡回し、神殿の施療院、孤児院、炊き出し、職業斡旋所などがある場所だ。

 国から見捨てられた地域ではなく、無法地帯ではない。

 だが、夜になると掏摸(スリ)や詐欺師、密売人が闊歩するのに適した場所でもある。助けを求める声が聞こえても、周囲は関わることを避けるとも聞く。

(ブルーメンフェルトとは規模が違うし、心配する理由もわかるけど……でもやっぱり、私は想定が甘いのかしら)

 想像しているよりも、ずっと荒んだ地区なのかもしれない。

 そんな旧河岸地区へ、年に何回か大々的に支援活動が行われる。

 ゼーベルク商会も一翼を担い、大々的に援助をする行事だ。フィロメナの提案で、今年からはパンとシチューだけでなくマサラチャイも配布することとなった。

 風味が落ちた茶葉は、今までは規格外品として処理していた。しかしフィロメナとウーヴェとが居れば、美味しく、しかも栄養も考慮して提供できる。いいこと尽くめだ。

(紅茶が少しでも慰めになれば——)

 ディートリヒが背中で少し身動きをした。

「おはよう……フィロメナ」

 少しだけくぐもった声は、まだ寝ぼけている。

「おはようございます、ディートリヒ様」

「すまない、掴まえてしまっていたな。苦しくなかったか?」

「大丈夫。あったかかったです」

 フィロメナは、嬉しそうにディートリヒの手を頬に当てた。

 一ヶ月前は、ディートリヒはいつでもフィロメナよりも先に起きていて、寝ぼけた様子など見たことがなかった。

 だが、最近は少しぼんやりしている姿を見せてくれるようになった。

 気を許してくれるようになったのだと思う。

(もっとあなたのいろんな姿を見たいわ)

 段々覚醒してきたのだろう、ディートリヒは一旦ぎゅっとフィロメナを抱き締めて解放した。

「今日は旧河岸地区か」

「はい」

「重ねて言うが、俺の傍を離れないように」

「はい。心得ております」


◇


 旧河岸地区は、思ったよりも雑然とした場所だった。

 石畳はところどころ欠け、長年の往来で角が丸く磨かれている。樽や木箱が無造作に積まれ、人ひとりがようやく通れる道も少なくない。

 今は雪は降っていないが、昨日までの残り雪が角に無造作に除けられている。

 ちらちらとこちらを窺う胡乱な視線も幾つかあった。ディートリヒは油断なく視線を向け、視線の主らを退けた。

「足元に気を付けて。意外と小石が転がっている」

 馬車から降りる際、ディートリヒはそう言って手を差し出した。

「はい、ありがとうございます」

 フィロメナは地面に降り立つと、早速腕まくりをした。

「では、私は鍋でマサラチャイの担当ですね」

 簡素に石を組んだだけのかまど。そこに大鍋を置くと火をつけた。

 大鍋にあらかじめ計ってきた香辛料(スパイス)と砂糖と水を入れ、沸騰するのを待つ。

 やはりあらかじめ計ってきた茶葉を入れ、鍋を掻き混ぜる。牛乳(ミルク)を入れる頃合いを見極めるため、集中しているフィロメナの横で、ディートリヒはあれこれと指示を出している。

 フィロメナにぴったりと寄り添い離れないようにしているディートリヒに、申し訳なく思う。

「ディートリヒ様、私はここを動きませんので、視察をなさってくださっても大丈夫ですよ?」

「すべてここに報告するように取り計らってある」

 真顔で頷かれ、フィロメナは苦笑した。

 ぐつぐつと泡が弾ける音がした。沸騰する直前に、フィロメナは牛乳瓶を傾けて鍋に注ぐ。

 ディートリヒがさり気なく支えてくれた。

「ありがとうございます」

「重いだろう。何かあれば指示してくれ」

 フィロメナは頷いて鍋の中身を掻き混ぜた。

「では、味見をお願いします」

 木製の杯(カップ)に玉杓子(レードル)で一杯注いで、ディートリヒに渡す。

「熱いのでお気を付けて」

 ディートリヒは少し冷まして口をつけた。

「——うん、美味い」

「良かった」

 フィロメナは微笑み、煮詰まらないように鍋を掻き混ぜ、火の調整をした。

 

 フィロメナのマサラチャイは好評だった。

 行列は長く続き、鍋はあっという間に空になった。

「奥さん、お恵みを」

 空になった杯を差し出し、男が薄ら笑いを浮かべた。

「ごめんなさい、もう無くなってしまいました。シチューは如何?」

 男は舌打ちし、杯をフィロメナに投げつけた。ぶつかる寸前にディートリヒが庇い、男は衛兵に取り押さえられる。

「ちっ、気取りやがって」

 フィロメナは目を瞬いた。驚いたこともあるが、自分に向けられる悪意の理由がわからなかったのだ。

「フィロメナ、無事か」

「……はい、ありがとうございます。ディートリヒ様」

「うん?」

 フィロメナは複雑な表情をしていた。怒ればいいのか、悲しめばいいのかわからない。

「私、何か気に障ることをしてしまったのでしょうか……」

 ディートリヒはフィロメナを抱き締めて、耳を塞いだ。

「聞かなくていい。聞く価値のない言葉だ」

 恵まれた者の笑みが、彼らには嘲りのように映ったのだろう。羨望は、冷たい嫉妬へ姿を変える。

 境遇の隔たりは言葉では埋まらず、やがて敵意となる。

 反感、軽蔑、不信——フィロメナが受けるべきではない感情だ。

 ディートリヒの予想に反して、フィロメナは泣かなかった。

 ディートリヒを見上げ、言った。

「心を慰めるには、まずお腹を満たさなくてはなりませんね」

 ディートリヒは目を丸くし、フィロメナの顔をまじまじと見つめた。

「"衣食住足りて礼節を知る"という言葉が、東方にはあるそうです」

 フィロメナは辺りを見廻した。劣等感と恨めしい視線が向けられている。

「ここには、どれも足りてはいないのでしょう。僅かばかりの施しでは駄目なのでしょうが、これ以上は国の領域ですね。意見書を纏めて提出します」

 ディートリヒは目を細めた。

「さすが我が妻。逞しいな」

 フィロメナは微笑んだ。

「悲しんで諦めるだけでは、何も変わりませんから」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。