第十三話 玉座の前にて
成程、これは確かに凄まじい。
フィロメナはディートリヒに伴われ、新年の拝謁のための行列に並んでいた。
その間、本当に引っ切り無しに話し掛けられた。歯の浮くような褒め言葉、心の籠もらない結婚の祝福——何とか取り入ろうとする姿は、見るに堪えない。
「もっと遅く来れば良かったな」
ディートリヒが苦々しくフィロメナの耳に囁く。
「すまない、フィロメナ。もう少し辛抱してくれ」
フィロメナは笑顔を顔に張り付けて、小首を傾げてみせた。
「大丈夫です。問題ありませんわ」
だが、隠し切れない困惑が滲み出ている。
無理もない、とディートリヒは思う。何しろ彼女の生家はブルーメンフェルト——没落しかけたとはいえ、七大貴族だ。連中の目に映るのは、自ら目の前に落ちて来てくれた、良く熟れた甘い果実。蟻に群がられ、無残に喰い荒らされる未来を回避しなくては。
そんなディートリヒに、何の含みもない声が掛けられた。
「ご結婚おめでとうございます、ゼーベルク男爵」
ディートリヒが振り返り、少しだけ表情を緩めた。
「モルゲンロート男爵」
(この人が——)
拝謁のための列はつづら折りに繋がっていて、折れ曲がったところで丁度良い具合に顔を合わせたのだ。
「奥方には初めてお目に掛かります。クレメンス・フォン・モルゲンロートと申します」
四十前後の派手さのない男で、立派というよりは実直という言葉が似合う。
(穏やかで真面目そうな方)
「初めてお目に掛かります。フィロメナと申します」
クレメンスは丁寧に礼をとった。
「モルゲンロート男爵は、旦那様とお親しいのですか?」
クレメンスとディートリヒは顔を見合わせ、お互いに真顔で首を横に振った。
「いいえ。特別に親しいということはありません」
「親しいわけではないが——モルゲンロート男爵は信用できる人です」
フィロメナは目を瞬いた。
「お二人は信頼し合っておられますのね」
ディートリヒとクレメンスは、また顔を見合わせた。二人ともが微妙な表情だった。
「それが一番近いでしょうか」
クレメンスが頷いて、ディートリヒも肯定した。フィロメナは目を細めた。
(ディートリヒ様にとって、"好き"よりも"信用できる"方がずっと重い)
モルゲンロート男爵クレメンスは、ディートリヒが認めた数少ない人間なのだろう。
(この方以外の男爵は"危険"だと、仰るくらいには——ディートリヒ様にとって、特別な方)
列が動き、モルゲンロート男爵とは会釈をして別れた。
「やはりお金なのね」
侮蔑の言葉は不意に背中から投げ付けられた。
「高貴の血を買うなんて芸当、中々できないわ」
「それを言うなら娘を売った貧乏な伯爵様だろう」
誰、と名指しはしなくとも、明らかにディートリヒとフィロメナに向けられた台詞だった。
ここで声を荒げるわけにはいかない。何しろ謁見の間の前だ。
礼儀のなっていないこと、とフィロメナは冷たく切り捨てた。父、パルツィファルを貶める言葉に怒りは湧いたが、父を知る誰もそのようなことは思うはずがないことを、フィロメナ自身がよく知っていた。
何も知らぬ者が何を吹聴しようと、ブルーメンフェルト伯爵家は揺るぎはしない。
だが、ディートリヒは海のような青い眸を強く燃やし、ぐるりと辺りを睥睨した。
水を打ったように静寂が落ちた。
周囲の温度がぐっと下がる。
フィロメナはそっとディートリヒの袖を引いた。ディートリヒが困ったように微笑み、フィロメナは首を横に振った。
ふたりはそっと手を握り合う。それだけで十分に心は温かくなった。
待機列の前方がだいぶ減ってきた。拝謁を終え謁見の間から出て来た貴族たちで、伯爵家、子爵家がほとんどだ。
多くの者がディートリヒをちらちらと見ていく。家格は上の者たちが——特に階級には厳しい貴族らが、ディートリヒを無視できない。
フィロメナにはそれがとても奇妙なものに見えた。
幾人かの伯爵や子爵はわざわざディートリヒのもとにやって来て、挨拶をして去っていく。態度は妙に丁寧で、滑稽に見えた。
通常、貴族同士の挨拶は、身分の高い者から低い者へと声をかけなくてはならない。
低位の者は声を掛けられるまで、頭を垂れて畏まっているのが礼儀だ。
なのに——
(ディートリヒ様は本当に、奇妙なお立場にいらっしゃるのね)
王国最大のゼーベルク商会の総帥で、各国の王侯貴族を顧客に持ち、あるいは金を貸し——更には数年前に男爵位を授けられた人。
身分と実力の捻じれが露骨に見える場面だ。
クローネンベルク侯爵アルブレヒトは、これこそを避けたかったのだろうと思う。
フィロメナの考えは途中で遮られた。いつの間にか謁見の間の扉の前まで来ていたのだった。
「ゼーベルク男爵ディートリヒ・クルト殿。ゼーベルク男爵夫人フィロメナ・マルリス殿」
儀典長の呼び上げにフィロメナは顔を上げた。
磨き上げられた艷やかな大理石の床に、臙脂色の絨毯が玉座まで導くように続いている。大きなアーチ窓からは冬の陽光が斜めに差し込んでいた。
向かって右に国王ヴィルヘルム、左に王妃ローゼマリアが座す。
玉座の両側には近衛騎士が二名ずつ控えていて、微動だにしない。その騎士のひとりは、ディートリヒにもフィロメナにも見覚えのある顔だった。ヴァルデンブルク公爵ゴットフリートの嫡孫フォルクハルト。結婚式にも出席してくれた人物だ。
そしてもうひとりはヴィンフリート。クローネンベルク侯爵の甥であり、ふたりの友人でもある。
そして侍従長に記録官——謁見の間の左右には拝謁済みの貴族たちがいた。声を落としてはいても賑やだ。
視線が一斉に自分に向かうのを感じ、フィロメナは少しだけ背筋を震わせた。圧倒的な好奇心の視線が貫いていく。
ここにいる人の何割かは、"ゼーベルク男爵夫人"を見るために残っているのだ。
ブルーメンフェルト伯爵令嬢だった時とは、明らかに種類の違う視線だ。好奇と興味と、侮蔑。
ディートリヒがフィロメナに手を差し出した。視線が心配げに揺れている。
フィロメナは微笑んでディートリヒの手を取った。
この程度の視線が何だというのだ。跳ね返してみせよう。
二人は玉座の前に進み出て、完璧な礼をしてみせた。
国王が微笑む。
「面を上げよ、ゼーベルク男爵ディートリヒ、そしてフィロメナ」
声は柔らかく、けれど威厳に満ちていた。
「新年を言祝ぐ。二人とも、元気そうで何よりだ」
「陛下のおかげを持ちまして」
ディートリヒが答えるのに、王妃が少しだけ身を乗り出した。
「フィロメナ、新婚生活はどう?」
名指しで問われ、フィロメナは一瞬言葉に詰まった。
「こら、王妃」
「あら、だって陛下、皆が知りたいことですわ」
フィロメナが真っ赤になって、小さく答える。
「……順調で、ございます。妃殿下」
周囲は必死で無表情を保ち、王妃は微笑みながら更に続けた。
「披露宴での東方帝国の茶。あれは大層美味でした」
場がどよめき、フィロメナもディートリヒも目を剥いた。
国王夫妻がディートリヒとフィロメナの結婚披露宴に、お忍びで来たことは公然の秘密だ。
だが、まさか公式の場で触れるとは思わなかった。
「楽しい宴だったわね」
「畏れ入ります」
「また、あなたの淹れた紅茶も飲みたいわ」
「お望みとあらば、いつでも参じます」
フィロメナの言葉に王妃はにこにこと頷いた。
「ディートリヒ、今年も忙しくなるぞ」
国王の言葉にディートリヒは丁寧に頭を下げた。
「覚悟しております」
「励めよ」
ふたりは揃って頭を垂れ、礼をとるとゆっくりと下がった。
拝謁の見物に加わることなく、ふたりは謁見の間を後にした。
更に何組かの挨拶を受け、謁見の間はようやく静けさを取り戻しつつあった。
「フィロメナは人妻になって、ますます強く美しくなったわね、ヴィンフリート」
王妃に話し掛けられ、ヴィンフリートは一瞬どんな表情をすべきか迷った。
「妃殿下、フレッドにその話題は酷かと」
フォルクハルトが苦笑しながら突っ込み、国王はヴィンフリートを見た。
「失恋の傷はまだ癒えぬか。繊細だな」
「——畏れ入ります」
ヴィンフリートが今もフィロメナを想っているのは、誰もが知っていることだ。だが、そこに邪なものは何ひとつない。ただフィロメナの幸せを願う、優しい感情だけだ。
「あなたは騎士の中の騎士ね」
眩しいものを見る目で、王妃はヴィンフリートを見つめた。




