第十二話 砂糖に群がる蟻
一月三日、早朝。
ゼーミュンデでの"契約始めの日"を終え、ディートリヒがゼーベルク商会王都館に戻った。
「お帰りなさいませ」
執事長のセバスティアンがディートリヒを迎える。
「ただいま。——空気が変わったか」
玄関ホールを抜けた辺りから、館の空気が引き締まっているように感じられた。新年を迎えたからというだけではあるまい。
セバスティアンは恭しく頭を下げた。
「奥様でございます」
「——そうか」
ディートリヒは目を細め、頷いた。
「お帰りなさいませ、ディートリヒ様」
居住棟で夜着に肩掛けを掛けただけのフィロメナに迎えられた。ギーゼラは三歩後ろで静かに控えている。
ディートリヒは愛しい新妻の腰を引き寄せて接吻をした。
「ただいま、フィロメナ」
そのまま肩に顔を埋め、ディートリヒはフィロメナの柔らかな香りを堪能する。フィロメナはくすぐったさを堪えて、少し身をよじった。
「こちらで一服なさいますか? それとも執務室に紅茶をお持ちしましょうか」
「——このまま動きたくないな」
甘える夫の背中を宥めるように叩き、フィロメナは優しく囁く。
「そうもいきませんでしょう? さあ、旦那様。お仕事があなたをお待ちですよ」
「あー……愛しい奥方がそう言うなら、頑張らなくてはならないか……」
未練たっぷりにゆっくりと身体を離し、ディートリヒは軽く溜め息を吐いた。そしてフィロメナをじっと見つめる。
フィロメナは、どうしていいかわからずに頬を染めて視線を逸らせた。
「あの……ディートリヒ様……」
「ん?」
「……見過ぎです」
「そうだろうか。——フィロメナ」
「はい」
「激励をくれないか」
「はい。頑張ってください、ディートリヒ様」
「そうではなくて」
ディートリヒはフィロメナの額に、自分の額をそっと付けた。
「接吻してほしい。君から」
フィロメナは忙しく瞬きして、頬をますます赤く染めると視線を逸らせた。
「——嫌か?」
至近距離で甘く囁かれ、フィロメナは耳まで赤くなった。
「い……やでは、ないです、が……その……」
フィロメナはちらりと横に視線を走らせた。ギーゼラが頭を横に向けて手を振る。
「見ておりません」
「見ていないそうだ」
「そういう問題ではありません!」
ディートリヒは言い切り、フィロメナは首を横に振った。ディートリヒは微笑んで、表情を改める。
「からかって悪かった。——セバスティアンから聞いた。お疲れ様」
フィロメナは柔らかく微笑んで、頷く。
「はい」
安心したような柔らかな微笑みに、ディートリヒは吸い込まれるように口付けた。
「ディートリヒ様、きりがありませんから……!」
ディートリヒは不満そうに口を引き結び、渋々フィロメナから離れた。
「——では、マサラチャイを淹れてほしい。部屋で待っている」
「畏まりました」
フィロメナは給湯室のストーブに鍋を置いた。水を計り、沸騰する分を足すと、香辛料を潰しながら水に投入する。肉桂、丁字、黒胡椒、小荳蔲、そして砂糖。沸騰したら茶匙に二杯の茶葉と、すりおろした生姜を入れる。砂時計の砂が半分まで落ちるのを待って、牛乳を加える。沸騰する寸前で火から下ろし、茶漉しを通しながら紅茶茶碗に注ぎ入れた。
「お待たせいたしました」
盆に茶碗をふたつ乗せ、フィロメナは寝室へ戻った。
ディートリヒは茶卓の椅子を引いて、フィロメナの着席を待っている。待ちかねていたのだろう。顔がほころんでいる。
「さ、召し上がれ」
「いただきます」
ディートリヒはそっと唇を茶碗につけると、一口飲んで深く頷く。
「そう。——これなんだ」
しみじみと言い、目を細めるディートリヒは本当に幸せそうで。フィロメナも、そんな夫の姿に幸せを噛み締めていた。
この寝室もひとりで使う気にはなれなくて、ディートリヒが留守の間はずっと私室の寝台を使っていた。
(あなたがいるだけで、まるで別の部屋だわ)
寝室の主色は深い生成りと淡い金色で、フィロメナの私室よりも落ち着いた色調だ。床は木製だが絨毯は私室より厚手で、足音は吸い込まれるように静かだ。暖炉には熾火がゆらゆらと赤く輝いている。
寂しいと感じたのが嘘のように、温かく居心地が良い。フィロメナはゆっくりと寝室を見回して、ほっと息を吐いた。
ひとりで使うには大き過ぎる天蓋付きの寝台は、部屋の中央に鎮座している。大人二人でも余裕のある大きさで、白と淡金の天蓋に、冬は厚手の帷を引ける。
フィロメナの視線を追って、ディートリヒは少しだけ含みのある表情を見せた。
「午後まで一緒に寝る?」
フィロメナはぷく、と頬を膨らませた。からかわれたと思ったのだ。
「本日は午後に、王宮へご挨拶に行かねばなりません。……結婚後初めての公式行事ですから、少し緊張しております」
「ゼーベルクは新興の男爵家だから、順番は後ろの後ろだ。ゆっくり行こう。君は七大貴族の参賀には、毎年行っていたのか?」
七大貴族の王族への参賀は一月二日である。ブルーメンフェルト伯爵パルツィファルも、昨日の内に挨拶を終えているはずだ。
「毎年ではありませんでしたが、何度か」
ディートリヒは頷いて茶碗を傾けた。
「俺は二度目だ。まだ慣れていなくて。しかし今年は君と一緒だ。心強い」
フィロメナは唇を尖らせた。
「私だって、男爵夫人としては初めての参賀ですわ。どうにも不安はありますけれど、二日とそれほど変わらないことを願います」
ディートリヒは小さく笑った。
「きっと二日の拝謁の方が、緊張感に満ち溢れているだろうな。歴史の重みが違うから」
「そうでしょうか」
「たぶんな。今日はきっと、並んでいる時間が一番長いぞ。君はたぶんあの行列にぎょっとする。貴族とはこんなにいたものかと思うはずだ」
「——まあ、七家より多いことは重々承知しておりますけれど。……そんなに多いのですか?」
「毎年増えているんじゃないか? 俺のような新興男爵とか」
「そんなこともないと思いますけれど」
ディートリヒは甘く丸い吐息をこぼした。マサラチャイは身体に染みる。
「なんにせよ、一番大変なのは正装して行列に並んでいる時間だ。だが、まあ、あの時間こそが下級貴族の交流の場でもあるといえるのか」
そうか、とフィロメナは気付いた。
大抵の男爵家では新年舞踏会も末席だし、晩餐会には参加すらできない。新年参賀の際に交流を深めるのは大切だ。
そしてディートリヒは、その中でも特別な存在である。皆がゼーベルク男爵との繋がりを求めて群がるだろうことは、想像に難くない。
「——だから、なるべく遅くの拝謁を?」
「それだけではないが、だいたい、そういうことだ。君のことは守るが、自衛もしてほしい。何しろ砂糖に群がる蟻の如しだ」
「それは……凄まじいですわね」
「うん。——俺を含めて自戒を込めて言うが、男爵は貪欲な者が多い。というか、欲深く厚かましい。勿論、誠実な方もいるんだが——うん。モルゲンロート男爵以外は危険だと思って良い」
フィロメナは目を瞬いた。相変わらず小鳥のようだとディートリヒは思う。戸惑った時や驚いた時に、フィロメナはよく目を瞬く。
「モルゲンロート男爵……存じませんが、ディートリヒ様がそう仰るなら良い方なのですね」
頷くフィロメナに、ディートリヒは苦笑した。
「そんなに無条件に信じていいのか?」
「あなたの人を見る目は確かですわ」
それに、とフィロメナは少しだけはにかんだ。
「夫の言うことを信じられない妻だなんて、寂し過ぎますわ」




