↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/28

第十二話 砂糖に群がる蟻

 一月三日、早朝。

 ゼーミュンデでの"契約始めの日"を終え、ディートリヒがゼーベルク商会王都館に戻った。

「お帰りなさいませ」

 執事長のセバスティアンがディートリヒを迎える。

「ただいま。——空気が変わったか」

 玄関ホールを抜けた辺りから、館の空気が引き締まっているように感じられた。新年を迎えたからというだけではあるまい。

 セバスティアンは恭しく頭を下げた。

「奥様でございます」

「——そうか」

 ディートリヒは目を細め、頷いた。

 

「お帰りなさいませ、ディートリヒ様」

 居住棟で夜着に肩掛け(ショール)を掛けただけのフィロメナに迎えられた。ギーゼラは三歩後ろで静かに控えている。

 ディートリヒは愛しい新妻の腰を引き寄せて接吻(キス)をした。

「ただいま、フィロメナ」

 そのまま肩に顔を埋め、ディートリヒはフィロメナの柔らかな香りを堪能する。フィロメナはくすぐったさを堪えて、少し身をよじった。

「こちらで一服なさいますか? それとも執務室に紅茶をお持ちしましょうか」

「——このまま動きたくないな」

 甘える夫の背中を宥めるように叩き、フィロメナは優しく囁く。

「そうもいきませんでしょう? さあ、旦那様。お仕事があなたをお待ちですよ」

「あー……愛しい奥方がそう言うなら、頑張らなくてはならないか……」

 未練たっぷりにゆっくりと身体を離し、ディートリヒは軽く溜め息を吐いた。そしてフィロメナをじっと見つめる。

 フィロメナは、どうしていいかわからずに頬を染めて視線を逸らせた。

「あの……ディートリヒ様……」

「ん?」

「……見過ぎです」

「そうだろうか。——フィロメナ」

「はい」

「激励をくれないか」

「はい。頑張ってください、ディートリヒ様」

「そうではなくて」

 ディートリヒはフィロメナの額に、自分の額をそっと付けた。

「接吻してほしい。君から」

 フィロメナは忙しく瞬きして、頬をますます赤く染めると視線を逸らせた。

「——嫌か?」

 至近距離で甘く囁かれ、フィロメナは耳まで赤くなった。

「い……やでは、ないです、が……その……」

 フィロメナはちらりと横に視線を走らせた。ギーゼラが頭を横に向けて手を振る。

「見ておりません」

「見ていないそうだ」

「そういう問題ではありません!」

 ディートリヒは言い切り、フィロメナは首を横に振った。ディートリヒは微笑んで、表情を改める。

「からかって悪かった。——セバスティアンから聞いた。お疲れ様」

 フィロメナは柔らかく微笑んで、頷く。

「はい」

 安心したような柔らかな微笑みに、ディートリヒは吸い込まれるように口付けた。

「ディートリヒ様、きりがありませんから……!」

 ディートリヒは不満そうに口を引き結び、渋々フィロメナから離れた。

「——では、マサラチャイを淹れてほしい。部屋で待っている」

「畏まりました」


 フィロメナは給湯室のストーブに鍋を置いた。水を計り、沸騰する分を足すと、香辛料(スパイス)を潰しながら水に投入する。肉桂(シナモン)、丁字(クローブ)、黒胡椒、小荳蔲(カルダモン)、そして砂糖。沸騰したら茶匙(ティースプーン)に二杯の茶葉と、すりおろした生姜を入れる。砂時計の砂が半分まで落ちるのを待って、牛乳(ミルク)を加える。沸騰する寸前で火から下ろし、茶漉しを通しながら紅茶茶碗(ティーカップ)に注ぎ入れた。


「お待たせいたしました」

 盆(トレイ)に茶碗をふたつ乗せ、フィロメナは寝室へ戻った。

 ディートリヒは茶卓(ティーテーブル)の椅子を引いて、フィロメナの着席を待っている。待ちかねていたのだろう。顔がほころんでいる。

「さ、召し上がれ」

「いただきます」

 ディートリヒはそっと唇を茶碗につけると、一口飲んで深く頷く。

「そう。——これなんだ」

 しみじみと言い、目を細めるディートリヒは本当に幸せそうで。フィロメナも、そんな夫の姿に幸せを噛み締めていた。

 この寝室もひとりで使う気にはなれなくて、ディートリヒが留守の間はずっと私室の寝台を使っていた。

(あなたがいるだけで、まるで別の部屋だわ)

 寝室の主色は深い生成りと淡い金色で、フィロメナの私室よりも落ち着いた色調だ。床は木製だが絨毯は私室より厚手で、足音は吸い込まれるように静かだ。暖炉には熾火(おきび)がゆらゆらと赤く輝いている。

 寂しいと感じたのが嘘のように、温かく居心地が良い。フィロメナはゆっくりと寝室を見回して、ほっと息を吐いた。

 ひとりで使うには大き過ぎる天蓋付きの寝台は、部屋の中央に鎮座している。大人二人でも余裕のある大きさで、白と淡金の天蓋に、冬は厚手の帷(カーテン)を引ける。

 フィロメナの視線を追って、ディートリヒは少しだけ含みのある表情を見せた。

「午後まで一緒に寝る?」

 フィロメナはぷく、と頬を膨らませた。からかわれたと思ったのだ。

「本日は午後に、王宮へご挨拶に行かねばなりません。……結婚後初めての公式行事ですから、少し緊張しております」

「ゼーベルクは新興の男爵家だから、順番は後ろの後ろだ。ゆっくり行こう。君は七大貴族の参賀には、毎年行っていたのか?」

 七大貴族の王族への参賀は一月二日である。ブルーメンフェルト伯爵パルツィファルも、昨日の内に挨拶を終えているはずだ。

「毎年ではありませんでしたが、何度か」

 ディートリヒは頷いて茶碗を傾けた。

「俺は二度目だ。まだ慣れていなくて。しかし今年は君と一緒だ。心強い」

 フィロメナは唇を尖らせた。

「私だって、男爵夫人としては初めての参賀ですわ。どうにも不安はありますけれど、二日とそれほど変わらないことを願います」

 ディートリヒは小さく笑った。

「きっと二日の拝謁の方が、緊張感に満ち溢れているだろうな。歴史の重みが違うから」

「そうでしょうか」

「たぶんな。今日はきっと、並んでいる時間が一番長いぞ。君はたぶんあの行列にぎょっとする。貴族とはこんなにいたものかと思うはずだ」

「——まあ、七家より多いことは重々承知しておりますけれど。……そんなに多いのですか?」

「毎年増えているんじゃないか? 俺のような新興男爵とか」

「そんなこともないと思いますけれど」

 ディートリヒは甘く丸い吐息をこぼした。マサラチャイは身体に染みる。

「なんにせよ、一番大変なのは正装して行列に並んでいる時間だ。だが、まあ、あの時間こそが下級貴族の交流の場でもあるといえるのか」

 そうか、とフィロメナは気付いた。

 大抵の男爵家では新年舞踏会も末席だし、晩餐会には参加すらできない。新年参賀の際に交流を深めるのは大切だ。

 そしてディートリヒは、その中でも特別な存在である。皆がゼーベルク男爵との繋がりを求めて群がるだろうことは、想像に難(かた)くない。

「——だから、なるべく遅くの拝謁を?」

「それだけではないが、だいたい、そういうことだ。君のことは守るが、自衛もしてほしい。何しろ砂糖に群がる蟻(アリ)の如(ごと)しだ」

「それは……凄まじいですわね」

「うん。——俺を含めて自戒を込めて言うが、男爵は貪欲な者が多い。というか、欲深く厚かましい。勿論、誠実な方もいるんだが——うん。モルゲンロート男爵以外は危険だと思って良い」

 フィロメナは目を瞬いた。相変わらず小鳥のようだとディートリヒは思う。戸惑った時や驚いた時に、フィロメナはよく目を瞬く。

「モルゲンロート男爵……存じませんが、ディートリヒ様がそう仰るなら良い方なのですね」

 頷くフィロメナに、ディートリヒは苦笑した。

「そんなに無条件に信じていいのか?」

「あなたの人を見る目は確かですわ」

 それに、とフィロメナは少しだけはにかんだ。

「夫の言うことを信じられない妻だなんて、寂し過ぎますわ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。