第十一話 最初の決定
「とは言ったものの……難しいところね」
フィロメナは、執事長のセバスティアンと家政婦長のカーリンを前に悩んでいた。
ディートリヒと幹部たちは、既にゼーミュンデに向けて出発した。
「処分をしないのは違うと思うの。悪いことをしても泣けば許されるとか、私は甘いから多少のことは目こぼしがあると、思われてはいけないわ」
セバスティアンは重々しく頷いた。
「ごもっともなことです」
「——とはいえ、即解雇という処分は重過ぎると思うのよ。仕事を失うというのは大変なことだわ。収入がなくなってしまうのだもの」
カーリンが少しだけ目を細めた。
「奥様は——随分と庶民的な考え方をなさいますね。普通、貴族のご令嬢はそういったことには無頓着では?」
フィロメナは肩をすくめた。
「ブルーメンフェルトは没落寸前だったから、金銭問題は切実な問題だったの。一度解雇された女中の再就職が難しいのも知っているわ。特に、個人の資質という点で解雇された場合、悲惨な結末に至りかねないということもね」
「そこまで考えていただけるだなんて——本当に過分なことです」
カーリンが感じ入り、セバスティアンが頷いた。ギーゼラが苦笑する。
「だから皆、奥様を好きになってしまうんです。こういう方ですもの」
「ええ、本当に」
ギーゼラは横目でフィロメナを見た。
フィロメナは考え込むと、右手で左手の薬指の爪をそっと撫でる。おそらくは本人さえも気付いていない癖だ。
今も、何度か左手薬指の爪を摘んで押している。段々と強くなるそれに、ギーゼラはそっと声を掛けて気を逸らせた。
「奥様、少し休憩なさっては?」
フィロメナはふと我に返ったように顔を上げた。右手が左手薬指から、離れる。
「——そうね。お茶を淹れるわ。カーリン、あなたの好みのものはある?」
カーリンは目を剥いた。
「何を仰います、もったいない!」
セバスティアンが苦笑し、カーリンの肩を叩いた。
「奥様の癖のひとつだ。お付き合いするのが正しい」
フィロメナが微笑んだ。
「そうよ。紅茶を淹れると考え事が捗るの。付き合ってちょうだい」
フィロメナは数ある茶の缶の中から、チャメリーを選んだ。
薬缶を火に掛け、茶壺に茶匙で四杯茶葉を入れた。沸きたての湯を、茶壺の中程より少し上の部分まで、注ぐ。そして砂時計を引っくり返した。
ゆっくりと砂が落ちていくのを見つめる。
砂粒ひとつひとつを見つめながら、女中の処分のことを考えた。何が適当なのか、過分ではなく、不足ではなく、丁度いい加減なのはどこだろうか。
茶壺の中で茶葉は跳ね回り、砂時計の砂が落ち切った。フィロメナは丁寧に茶漉しで紅茶茶碗に注ぎ入れた。
「さ、召し上がれ」
淡い琥珀色の水色に、甘く濃い香りが漂う。
「頂戴します」
カーリンは恭しく茶碗を捧げ持ち、そっと口を付けた。
「——随分と甘い匂いですが、味は甘くはないんですね。むしろ、思ったよりも渋い感じがします」
「だから、お砂糖を入れて飲むのが好きな方も多いわ。チャメリーは甘く濃い香りが特徴だから、余計にそう感じるかもしれないわね」
セバスティアンはうっとりと目を閉じた。
「本当に、美味しゅうございます」
「奥様の紅茶は世界一ですもの」
ギーゼラが頷き、フィロメナが苦笑する。
「好きこそものの上手なれ。私以上の紅茶好きは、そんなにいないかもしれないわね」
紅茶を一口飲んで、フィロメナは頷いた。
「——厳重注意にしましょう。正式に家政婦長立ち会いのもと、記録に残します」
突然に切り替わった話題に、フィロメナ以外が皆白目を剥いた。
「ギーゼラへの謝罪を公的に行い、ギーゼラの名誉回復と、その女中——」
フィロメナは言葉を切った。
「ところで誰なの? あなたたち一度も名前を言わないけれど」
カーリンが溜め息を吐いた。
「ロッテという家女中です。まだ若く、奥様に心酔しています。いずれ侍女に——ギーゼラさんに成り代わりたいと」
フィロメナが紅茶を飲み、ゆっくりと息を吐く。
「私、一度か二度しか話したことはないはずよ。心酔なんて、何でそんなことに」
ギーゼラが紅茶を飲んで、丸く息を吐く。
「奥様はいつでも見られておられますから。仕草から所作から、魅了される者は多いんです」
「そんな、魔性の者みたいに言わないでちょうだい」
フィロメナは納得いかない顔をしていたが、セバスティアンとカーリンは頷いていた。
そのことに、ますます不本意な顔になるフィロメナだった。
セバスティアンは目を細めつつ、明日の朝のことを思った。
カーリンは溜め息を飲み込み、ロッテのことを思った。
果たしてフィロメナが思い描くように、ことは進むのだろうかと——。
◇
次の日、使用人たちの朝礼にフィロメナとギーゼラが参加した。そしてロッテに対し、執事長セバスティアンによる叱責と、家政婦長カーリンによる厳重注意が行われた。
ロッテは真っ青な顔で俯いて、震えていた。フィロメナは一歩前に出た。
「家女中ロッテに申し付けます。侍女ギーゼラに対する正式な謝罪を求めます」
ロッテは震えながら前に出て、ギーゼラに向かって頭を下げた。恐怖による震えではなく、屈辱と怒りによるものだった。
(なんで、なんで、あんたばっかり……!)
「ロッテ。ギーゼラさんに謝罪を」
カーリンに促され、ロッテは渋々口を開いた。
「申し訳、ありません、でした」
ロッテの謝罪は表面的で、小さな声で、怒りに震えていて——そのすべてに対して、カーリンは眉を顰めた。
(奥様とギーゼラさんの温情に気付きもしないで)
やはりこの子はいずれ、解雇しなくてはならないかもしれない。カーリンもセバスティアンもそう思った。
だが、ギーゼラは頷いた。
「謝罪を受け入れます」
一瞬、ロッテはぽかんと口を開けたまま、顔を上げてしまった。ギーゼラの冷静な榛色の眸が、まっすぐにロッテを見つめている。
そのことに気付いた時、ロッテは初めて血の気が引くのを感じた。足元が大きく揺らいだ気がした。
立ち位置が違うのだということを、思い知らされた。階層の違い、身分の違い、あるいは人としての格の違いだ。
ロッテは震えた。屈辱と後悔と、何に対してかわからない怒りと、そして届かないという絶望に。
ロッテの立っている場所は、フィロメナとギーゼラが立っている場所の間には、決して埋められない溝があった。
だが、フィロメナは一歩前に出た。
ロッテのいる側に、自分から近付いた。
「ロッテ、あなたの行いは間違っていました。ですが、ギーゼラが私を独占していると思わせてしまった原因の一端は私にもあります」
それは誰も予期せぬ言葉だった。
ロッテの目が限界まで見開かれて、こぼれ落ちそうだ。セバスティアンが目を剥き、カーリンが口を開け、ギーゼラが慌てて振り返る。
異口同音に奥様と連呼され、フィロメナは苦笑した。
「私と話したいと、思ってくれることはありがたいことです。ただ、ゼーベルクに嫁してから仕事が忙しく、あなたたちと話す機会がなかったのは、事実です」
「それは奥様の所為ではありません!」
「そうですよ、奥様!」
フィロメナは首を横に振った。
「事実は事実。それは認めなくては。ですが、そのためにギーゼラに嫌がらせをするのは間違いです。文句は直接に私に言うようになさい。そのための時間を取るように努力します。ただし——」
フィロメナは凛として言い切る。
「次はありません。覚えて置くように」
これが、フィロメナがゼーベルク男爵夫人になって最初に下した決定だった。




