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第四十八章

冬はその頃には、もう音まで重たくしていた。


空っぽだからではない。むしろ逆だ。静けさそのものが密度を持っていた。雪は中庭に長く留まり、白さを失い、石の脇で湿って縮み、衛兵の靴やそりの下で鈍く鳴った。城の中は炉の熱、濡れた外套の毛の匂い、焼いたパン、煙、それにもっと曖昧で、もっと身体に近い匂いで満ちていた。家だ。女たちの息、待機している生、まだ生まれていないもの、まだ言葉にならないものが、全部まとめて空気の中に混じっていた。


カイラはもう、ほとんど出産の縁にいた。


それは腹の大きさだけではない。もちろん腹はもう、誰が見ても圧倒的な現実だった。彼女が歩けば、その重みが先に空間を変える。人も物も、自然とその進路を空ける。だが、もっと強かったのはカイラそのものの変化だった。もともと彼女は、生き物として世界に噛みつく力でできていた。怒りも、欲しさも、挑発も、全部が外向きだった。今は、その巨大な力の相当部分が内側へ向いている。そこに、彼女自身がいちばん苛立っていた。


口は相変わらず悪い。


むしろ、悪さはさらに洗練されていた。


世界へ向ける悪態の密度は少しも落ちていない。だが同時に、そこには別のものも混じり始めていた。重さだ。ほとんど動物的な、しかし大人の女にしか宿らない重さ。やがて来る痛みと血と裂けを、もう身体のどこかで知っている者の重さだった。


彼女は今でも平気で言う。


「もし今ここで誰かが“落ち着いて”とか言ったら、その顔面に子どもごと蹴り入れる」


そう言って椅子に座り込んだあと、次の瞬間には腰へ手を当てて小さく顔をしかめる。彼は、その一連の動作を見ているだけで胸が詰まることがあった。強い女が、なお強いまま、どうしようもなく身体に従わされていく。その変化を、彼は毎日見ていた。


リラもまた、この頃にはもう完全に妊婦の身体になりつつあった。


カイラほどではない。まだそこまで重くはない。だが、もう隠れようがない。衣の落ち方、立ち上がる時の手の添え方、ふいに腹へ触れる指先、そのどれもが、新しい命が中にあることを静かに示していた。リラはそのことを喜んでいた。だが、その喜びは軽くない。失って、もう一度得た者にしかない重さがあった。彼女の表情には、時々ひどく不思議な光が差した。嬉しいのに、まだ信じきっていない。幸せなのに、同時におびえている。そんな光だった。


アヤノだけが、まだ子を宿していなかった。


それは誰も口にはしない。しないが、家の空気の中ではすでにひとつの輪郭になっていた。彼はアヤノを避けていない。欲もある。身体も重ねている。彼女の願いを忘れたこともない。にもかかわらず、何も起きていない。そのことを、アヤノは責めなかった。そこがまた、彼にはきつかった。


彼女はもう一度も言わない。


催促もしない。


ただ、一度口にした願いを、自分の中で静かに持ち続ける。その静けさが、かえって重かった。彼女はみじめにならない。待つことによって自分を削らない。ただ、選んだ女として、そのままそこに立っている。彼は、そういうアヤノに対して、以前よりさらに強く身体を向けるようになっていた。


その夜もそうだった。


外はよく冷えていた。廊下の石は夜の湿り気を吸ってわずかに冷たく、窓の隙間からは細い風が入る。家の中はもう静まりかけていた。カイラは散々文句を言ってからようやく寝台へ引き上げ、リラも長くは起きていない。アヤノだけがまだ起きていた。廊下の脇の小さな部屋で、記録の束を見ていた。そこは狭く、灯りもひとつしかなく、座り心地も良くない。だが、アヤノはそういう場所を好んだ。余計なものが少ないからだろう。


彼が戸口に立つと、彼女は紙から目を離さずに言った。


「また見すぎ」


「また気づくのが早すぎる」


その時点で、もう半分は始まっていた。


アヤノは顔を上げた。表情は穏やかだった。だが、その奥で何かがもう変わっていた。彼が何を欲しているか、そして今夜はその欲に余計な言葉がいらないことを、彼女は最初から知っていた。


彼は近づいた。


まだ触れない。


アヤノは立ち上がり、卓の端に手を置いた。


「何?」


その問いに、説明の言葉はもう必要なかった。


彼は彼女の腰へ手を置いた。薄い布越しの熱がすぐに掌へ上がってくる。アヤノは一歩も引かなかった。ただ、息だけが少し深くなった。


彼は口づけた。


激しくでもなく、優しすぎもせず、ただひどく濃く。すでに始まっていたものを、そのまま身体へ落とし込むような口づけだった。アヤノは即座に応えた。その応え方が、彼にはたまらなく好きだった。受け身ではない。対等だ。だが抵抗もなく、そこで何をしているのかを全部知ったうえで、自分から同じ線へ入ってくる。


それがアヤノの身体の受け入れ方だった。


彼は首筋へ下り、肩へ口を寄せ、衣の内側へ手を差し入れた。アヤノは微かに顎を上げる。その小さな反応だけで、彼の中の欲望は一段深くなる。


「最近、前より好き」


アヤノが言った。


彼は顔を上げた。


「何が」


「あなたが、前よりあまり戦わなくなったところ」


「誰と?」


「私と。自分とも」


その言葉は、不意打ちのように入ってきた。


彼は理解した。以前の彼は、欲すると同時に、欲している自分とも戦っていた。これでいいのか。押しつけていないか。何かを償おうとしているだけではないか。そういう余計な検閲が、いつもどこかに挟まっていた。今はそれが少し薄い。だからアヤノもまた、前よりまっすぐ受け入れられる。


「それは、良いことか」


彼が訊くと、アヤノは彼を見た。


「うん。だって私は、もうとっくに受け入れてるから」


その一言が、ひどく深く沈んだ。


彼はアヤノを抱いた。狭い部屋の中、卓の端に腰を預けさせ、そのまま衣をずらして肌を露わにする。彼女の身体はもう十分に温まっていた。彼が触れた場所へ、迷いなく反応が集まる。アヤノは大きな声を出さない。だが、息の切れ方と、肩の震えと、彼を迎える腰の動きが、いま何が起きているかを十分に語る。


彼は彼女をそのまま横たえ、深く入った。


その瞬間のアヤノは、何かに負ける女ではなかった。ただ、そうすることが彼女自身にとっても正しいから受け入れる女だった。そこが、彼にとってはたまらなく官能的だった。彼女は彼の動きをただ受けるのではなく、静かな精度で返してくる。深く入れば、その深さに応じて身体の奥が変わる。速さを変えれば、呼吸のリズムも変わる。彼女はそれを隠さない。むしろ、どこまでもきちんと感じる。


彼はその身体の受け入れ方に、奇妙な救いを覚えていた。


こういう瞬間だけは、世界が余計な理屈を要求しない。


身体の中で呼吸が崩れ、アヤノの手が彼の腕へ上がり、爪がわずかに食い込む。声は低く、短く、掠れていて、だがそれがいっそう彼を熱くした。彼女は決して派手ではない。だが、その静かな正確さが、彼を何よりも深く溶かした。


終わったあと、アヤノはしばらく目を閉じたまま言った。


「あなた、まだずっと緊張してる」


「今も?」


「今は少し違う。でも、全体として」


彼は苦く笑った。


「世界か家か自分か、どれかはそのうち裂けると思ってる」


アヤノは目を開けた。


「だったら、少なくとも自分からは裂きにいかないで」


その言葉は、その夜の少し後にすぐ意味を持つことになる。


カイラの陣痛は、深夜に始まった。


最初は彼女自身も、まだ確信がなかった。ただ機嫌が悪かった。次に、落ち着かない悪さに変わった。やがて短く低く息を吐き、歯を食いしばって「今のがもう一回来たら、誰かを殺す」と言った。


そのあと、もう一度来た。


それで十分だった。


彼は何度か人の出産に立ち会ったことがあった。前の世界でも、この世界でも。それでも、その瞬間の体感は毎回まったく新しかった。知識があっても、慣れがあっても、目の前の一人の女が血と痛みと身体の仕事へ入っていく時、その現実はいつだって初めてのように重かった。


家全体が一気に動いた。


サレットは、呼ばれるより先に来たような顔で現れた。眠りから起こされた人間の動きではなかった。年長の女として、こういう時のために身体そのものが待機していたかのようだった。リラもすぐに起きた。アヤノはすでに必要なものを考え始めていた。彼自身は、経験があるはずなのに、最初の数瞬だけ、妙に場違いな気持ちになった。知っている。やることも分かる。それでも、男の身体のどこか深いところが、こういう時には毎回初めて恐れる。守りたい。止めたい。役に立ちたい。だが、肝心のところで自分の身体は当事者ではない。その半端さが、毎回彼を痛めつけた。


カイラは寝台を掴んだまま、顔を歪めて言った。


「絶対に、今、“落ち着け”とか言うなよ」


サレットはそちらも見ずに答えた。


「なら無駄口を叩くな」


「この古代の――」


「もう一言言ったら、痛みの合間も口を閉じさせる」


なぜかそのやり取りで、カイラは少しだけ落ち着いた。


出産は、苦しかった。


けれど、筋は正しかった。


彼はそれを、祈るように握っていた。時間の感覚はすぐに狂う。進んでいるようで進まない。まだかと思えば、一気に深くなる。カイラの呼吸は乱れ、叫びは時に言葉を失い、時に罵声に変わる。汗が髪を額に貼りつかせ、腹と腰のあいだを痛みが波のように通るたび、彼女は全身でそれに抗おうとし、サレットに叱られる。


「逆らうな。押す時だけ押せ」

「言うのは簡単なんだよ……!」

「簡単ならお前じゃなく私が産んでる」


カイラはその返しにすら笑う余裕がなく、ただ次の波に噛みつくように耐えた。


リラは水を飲ませ、汗を拭き、手を握った。アヤノは必要なものを黙って動かし、場の形を崩さないように支えた。彼は、横で支え、身体を預けさせ、必要な時に背を抱えた。呼吸の仕方を思い出させながら、自分のほうが息を詰めていた。


そして毎回、同じことを思う。


経験があっても、これは毎回初めてだ。


どれだけ知っていても、目の前で一人の女が身体を裂いて命を通す瞬間に、慣れることなどできない。


子が出た時、空気は一瞬止まった。


その直後に、泣き声が世界へ入った。


生きている。


それだけを証明する、あまりに剥き出しの声だった。


カイラはその瞬間、全身から力を抜いたように沈み、汗と涙の区別もつかない顔で息を吐いた。サレットは素早く確かめ、短く「大丈夫」と告げた。リラは目を閉じ、アヤノはそこで初めて小さく笑った。


彼は、赤く濡れた小さな身体を受け取った。


息をしている。


泣いている。


まだ誰にも似ていない。ただ生そのものの形でそこにある。


その感覚は、やはり毎回まったく新しかった。前にも知ったはずの衝撃なのに、その都度、知識など何の役にも立たないところまで来る。腹だった場所が、もう人である。その事実だけで、世界の輪郭が少し変わる。


カイラは、力の抜けた目で彼を見て、かすれ声で言った。


「どう……よ。説得力、あった?」


彼はそこで、笑ってしまった。


楽しいからではない。


そうでもしないと、今この場に流れ込んできた生の強さを、自分の中で受け止めきれなかったからだ。


ネリッサは、その間も、彼の頭の外へ完全には出ていかなかった。


それが、ひどく奇妙だった。


ここには、血と汗と母の身体と、新しい子の泣き声がある。カイラはまだ痛みに顔を歪めている。リラは静かに泣きそうな顔をしている。アヤノは、余計な感傷を挟まず、ただ必要なところへ手を置いている。そんな圧倒的に家の出来事の中にいて、それでも彼の思考のどこかには、ネリッサが残っていた。


もちろん、出産の最中に彼女を考えていたわけではない。


そんな余地はなかった。


だが、翌日になり、家の中に別の種類の静けさが落ち、まだ新しい泣き声が時々部屋を裂き、カイラが疲れと誇りと苛立ちを全部いっぺんに抱えて子を見ている、その中で、またネリッサのことが戻ってきた。


なぜ、彼女はまだ何も明かさないのか。


それはもはや単なる外交上の駆け引きというだけではなかった。


彼女は依然として、何ひとつ露骨な合図を出さない。あからさまに惹きつけることもなく、かといって冷たく距離を取るでもない。彼女との会話は相変わらず知性の打ち合いだった。そこに甘さはない。だが、その研ぎ合いが続くほどに、かえって彼の中では「では本当は何なのか」という問いだけが育っていった。


もし彼女に何もないなら、どうしてこうも自分の思考を引っ張るのか。


もし何かあるなら、なぜそこを一切見せないのか。


その中途半端さが、彼をいっそう掴んでいた。


そして、いまの彼の世界は、すでに十分すぎるほど満ちていた。


リラがいる。


カイラがいる。今では子までいる。


アヤノがいる。


家の中は、血縁と身体と歴史で、日に日に密になっていく。


その中へ、ネリッサは何として入るのか。


そもそも、入るつもりなのか。


あるいは、こちらが勝手にそう感じているだけなのか。


彼にはまだ、どれひとつも分からなかった。


数日後、カイラがようやく「ただ痛い」から「痛いし重いし眠いし全部むかつく」へ戻ってきた頃、彼はその違和をはっきりと自覚した。


彼の生活は、いま二つの律動でできている。


一つは、家だ。


乳の匂い。


新生児の熱。


夜中の浅い眠り。


カイラの荒っぽい母性。


リラの静かな手つき。


アヤノの、言葉にしない支え。


もう一つは、ネリッサだ。


琥珀色の目。


精密な間。


彼の一言へ返ってくる、よく研がれた答え。


それが何なのかを、まだ彼女が言わないという事実。


二つの律動は、互いを消さない。


そこが、なおさら彼には不気味だった。


どちらかがどちらかを押しのけるなら、まだ簡単だった。だが、実際にはそうならない。家は家としてどんどん濃くなる。その一方で、ネリッサの存在もまた、別の線で確実に太くなっていく。


彼にはまだ、それが欲望なのか、警戒なのか、好奇心なのか、あるいはそれら全部の混ざった別のものなのか、呼ぶ言葉がなかった。


ただ一つ分かるのは、それがもう「どうでもいい外の使者」ではないということだけだった。


そこが、何よりも落ち着かなかった。


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