第四十九章
息子は、とうとう生まれた。
象徴としてではない。
報酬としてでもない。
何かの決着としてでもない。
ただ、子として。
温かく、よく泣き、手を、乳を、熱を、静けさを要求し、その存在だけで家の密度そのものを変えてしまう、小さな生として。
それまであったもの――政治も、不安も、冬の報せも、ラヴァルンの変化も、家の中の関係の形も、罪悪感も、欲も、恐れも――何ひとつ消えてはいなかった。だが彼が生まれたことで、それらすべては新しい軸のまわりで組み直されるしかなくなった。
名は、すぐには決まらなかった。
決めかねたからではない。
出産のあとの最初の数日は、そもそも何ごとも明瞭な形を取りにくいのだ。時間は細かく裂ける。乳を含ませる。眠る。泣く。静かになる。もう一度泣く。サレットの乾いた指示。カイラの、世界を噛み殺しそうな顔。彼自身も、かつて別の世界で新生児を抱いたことがあるはずなのに、それでもやはり、これは毎回初めてのことのように思えた。
子を抱いたカイラの姿は、不思議だった。
滑稽ではない。
安っぽく感動的でもない。
恐ろしいほど、正しかった。
彼女の中に元からあった直線的な強さ、怒り、肉の生々しさ、生に食らいつく意地、その全部が、新しい用途を得たようだった。彼女は柔らかな母になったわけではない。乳の中へ溶けていくような女にもなっていない。そうではなく、自分の人生で何かを握る時と同じように、この小さな命を持ったのだ。真正面から。世界を信じずに。必要なら誰の喉にでも噛みつける覚悟のままで。
時々、カイラは息子を見て、まだ自分でも信じていないような目をした。
また別の時には、まるで最初からずっとこの子は自分のものだったかのような顔をした。
名を決めたのは、家の中がようやく少しまともな夜を取り戻した頃だった。最初の裂けた数日をどうにか越え、久しぶりに皆が同じ部屋に集まっていた。子は眠っている。サレットは壁際に座り、声に出して情に流されるほど若くはないが、この瞬間の重さを感じないほど鈍くもない顔をしていた。アヤノは杯を両手で持ち、火を見ていた。リラは少し離れたところに座り、すでに丸みを帯びた自分の腹へ静かに手を置いていた。カイラは椅子に腰を据え、疲れていることを認めるくらいなら意地を張ったまま倒れたほうがいい、とでも言いたげに背を伸ばしていた。
「それで?」とカイラが言った。「春までずっと“おい、ちび”で済ませる気?」
「それも案としては悪くない」
彼が言うと、カイラは一切笑わなかった。
「却下」
最初に名を口にしたのは、リラだった。
「レン」
それだけ言って、部屋は静かになった。
大げさな沈黙ではない。
ただ、あまりにも自然に、その音が生き物へ重なったのだ。
「レン」
アヤノが小さく繰り返した。声の中で確かめるように。
カイラは子を見て、それからリラを見て、もう一度子を見た。
「悪くない」と彼女は言った。「短い。馬鹿っぽくない。危ないことした時にすぐ怒鳴れる」
「そこが基準か」
「当然でしょ」
そうして息子はレンになった。
いったん決まると、それはすぐに家の中へ馴染んだ。無理に覚える必要もなかった。サレットはその日のうちに「レンが起きるほうが先だ」と言ったし、それはもうずっと前から彼がレンだったかのように聞こえた。カイラも夜更けに、まだ眠りの浅い顔で「どう、レン。ずいぶん派手に始めたわね」と呟いたが、それもまるで自然だった。
家そのものが、少しずつ新しい形へまとまっていった。
出産のあと、カイラは柔らかくなったわけではない。少なくとも、そういう安い意味ではまったくなかった。むしろ彼女は、さらに重くなった。濃くなった。舌の悪さも、反発も、誇りも、そのままだ。だが、その全部の奥に、責任の垂直な芯が一本通った。以前の彼女より、軽く噛みつけない女になった。
リラは、カイラが子を抱く姿を見ながら、自分の妊娠をまた別の仕方で受け入れ始めていた。最初の頃の彼女の中には、もっと強い緊張と、もっと深い不信と、失ったものの痛みがそのまま希望の隣に座っていた。だがレンが生まれたことで、彼女の身体の中の命はもう「いつかもしれないもの」ではなくなった。生きた終着の姿を、目の前に持ったのだ。そこから彼女は、ようやく少しずつ、自分の腹の中の子を「他人の幸福の対岸」ではなく、「自分もまた辿りうる現実」として見始めていた。
嫉妬が消えたわけではない。
彼はそれを知っていた。
だが、あの底の見えない穴のような嫉妬は、もう少し別のものになっていた。痛みのまま残りながら、同時に抱えて歩けるものへと変わり始めていた。
アヤノだけが、相変わらず最も静かだった。
だからこそ、彼にはいちばん難しい。
カイラは、すべてが目に見える。子がいて、疲れがあり、乳があり、眠れぬ苛立ちと、それでも手放せない母としての熱がある。
リラもまた見える。再び宿った命、かつての喪失、その二つを抱えてなお静かな深み。
アヤノだけは、見た目としては何も変わっていない。だからこそ、その一度きり口にした望みが、逆に家の中で輪郭を持ち続ける。彼女はまだ待っている。責めず、媚びず、みじめにもならず、ただ選んだ女のままで。
彼は、自分がどう生きればいいのか、まだ全部は分かっていなかった。
一人はもう産んだ。
一人は確かに次を宿している。
もう一人は、はっきりと望みを口にして、なお静かに待っている。
そして彼自身は、ようやく「偶然ではなく、子を望むこと」に慣れ始めたばかりだ。
おそらく、今すぐすべてを分かる必要はなかった。
冬そのものが、別の律動を教えていた。急いで結論へ行くな。意味も身体も、少しずつ形になる。そういう季節だった。
それでも、家の外の世界も、もちろん止まってはいなかった。
サルヴェル・タロンは、どうやら本当にラヴァルンを立て直しつつあった。少なくとも、愚かな軍の暴走へ戻すことはしていない。山から下る魔物の流れも、なお散発的にはあるが、以前よりはるかに薄い。根本原因に届いたのか、それとも症状を賢く押さえているだけなのかはまだ分からない。だが、少なくともホウセイはそれを評価していた。両国の関係は、単なる相互警戒を越えて、慎重な協調へ近づきつつあった。
ヴァルガルドとの関係は、まだ遅かった。
山がある。
長く向こうをまともな隣国として扱ってこなかった慣性がある。
そして、おそらくは獣人に対する古い不寛容もある。
そのせいで、ラヴァルンとの往来や連絡はなお細く、不規則だった。常駐の使者が来たからといって、それだけで古い鈍さが消えるわけではない。
だが、使者は来た。
ネリッサ・ヴァルン。
そして、もはや彼も自分に誤魔化せなかった。彼女が自分の頭の中で占める位置は、とうに「外交」の一語では片づかなくなっている。
彼はなおも、それを単純な言葉では呼べなかった。
恋ではない。
少なくとも、よく知っているあの分かりやすい形ではない。
警戒だけでもない。
肉欲だけでもない。
もちろん、彼女が女として目に入らないわけではない。だが、それ以上に彼を掴んでいるものがあった。知性。間。返し。危険。答えをくれないことそのもの。あまりに整った思考の手触り。それらが全部絡み合って、ネリッサは彼の中で特別な場所を作り始めていた。
彼女との会話は、相変わらず決闘に似ていた。
時に社交の仮面をつけた決闘。
時にほとんど露骨な打ち合い。
山の道を話していたはずが、いつの間にか国家の関係の本質へ入っている。貿易の話をしていたはずが、最後には互いの価値観の境へ刃先が触れている。そんな会話だった。
彼にはまだ分からなかった。
自分は彼女にとって何なのか。
そこがいちばん鬱陶しかった。
ただの男ではない。
ただの交渉相手でもない。
だが、では何かと言われると、そこはまだ濁されたままだった。
彼は、不明瞭なものが嫌いだった。とくに、すでに自分の内側で大きな場所を取り始めた相手が、なお曖昧なままでいることを。
ネリッサは、そこを執拗に明かさなかった。
露骨に誘わない。
甘い合図を出さない。
安っぽい女の技も使わない。
ただ、決して冷たくもならない。
それが、彼をなおさら苛立たせ、なおさら惹きつけた。
ある晩、彼がネリッサとの会見を終えて戻ると、家はすでに夜の深さに沈みつつあった。レンは眠っている。カイラもようやく眠った。リラも早く引き上げていた。疲れが急に来るようになっている。アヤノだけが火のそばにいて、本も持たずに炎を見ていた。
彼が向かいへ座ると、アヤノはすぐに言った。
「で?」
「何が」
「レンは寝た。カイラも寝た。リラも寝た。それなのに、あなたはまだここにいない顔をしてる」
彼は息を吐いた。
「そうかもしれない」
アヤノは頷いた。
「じゃあ、まだあの人だ」
彼は否定しなかった。
もう、そこに嘘を入れる意味はなかった。
「そうだ」
アヤノは火へ小枝を足した。
「それで?」
彼は少し黙った。
「分からない」
「違う」とアヤノは言った。「“それでどうなるか”が分からないんじゃない。“今の世界にどう置けばいいか”が分からないんでしょう」
彼はそこで顔を上げた。
やはり、アヤノはいつも骨のところを見抜く。
「そうだ」
「だって、もう家があるもの」と彼女は言った。「壁って意味じゃなくて。リラがいて、カイラがいて、私がいて、子どもがいて、もう一人中にいて。その形の中へ、ネリッサはどの線にも当てはまらない」
「まさにそれだ」
アヤノは、ほんの少しだけ口元を和らげた。
「だったら当然でしょう。あの人は、どこかの空いてる場所に“置かれる”人じゃない。もし入るなら、そのために別の形が必要になる」
それが、彼の恐れていることそのものだった。
ネリッサは、既存のどの線にも収まらない。
リラのようではない。
カイラのようでもない。
アヤノのようでもない。
だからこそ、彼女がもし本当にこちらへ入るなら、それは「今あるものの延長」では済まない。別の形を必要とする。
彼はそれを恐れていた。
同時に、そこに妙な引力を感じてもいた。
その数日後、ほとんど偶然のような顔をして、彼とネリッサは二人きりになった。もちろん二人とも、そういう偶然の値段くらいは知っている。会話はひと通り終わっていた。文も閉じられ、外はすでに冬の夕闇へ沈み、卓上の灯りだけが部屋を切り取っていた。ネリッサは椅子の背に片手を置き、少し身体を横へ向けて立っていた。その姿には、いつもの二重性があった。見た目には軽く、実際にはひどく研がれているという、あの在り方だ。
彼は、礼儀を越える長さで彼女を見た。
ネリッサはもちろん気づいた。
だが、視線を外さなかった。
「何?」
彼女は訊いた。
彼にも、なぜ今この問いが出たのか、最後までは分からなかった。だが、もうこのまま引き延ばすのは滑稽だ、という感覚があった。子は生まれ、家はさらに濃くなり、そのぶん外の曖昧さは、もはや遊びではなく境界の問題になり始めていた。
「俺は、お前にとって何だ」
ネリッサは、少しも驚かなかった。
目だけが、ほんのわずか細くなった。問いそのものではなく、その問いがここまで単純な形で来たことを測るように。
それから、ほとんど間を置かずに答えた。
「男」
彼は静かに息を抜いた。
交渉相手ではない。
ヴァルガルドの代表でもない。
利用価値のある頭でもない。
男。
それだけ。
それが、どんな長い説明よりも真実に近く感じられた。
ネリッサも同じ調子で返した。
「じゃあ、私は?」
彼には、考えるより前に答えが出ていた。
「女」
その言葉のあと、今度はネリッサのほうが少しだけ長く黙った。
恥じたのではない。
確認したのだ。
二人とも、余計に賢い言葉を剥ぎ取った。外交の層も、駆け引きの層も、知性の決闘としての楽しさも、そのまま残したうえで、芯だけを口にした。
男。
女。
たぶん、その答えは二人とも気に入った。
勝ったからではない。
何かが片づいたからでもない。
ただ、その一言で、これまでずっと周囲を回っていたものに、ようやく軸が入った。そして、その軸のあとでは、これまでとは違う関係の可能性が、静かに、しかしはっきりと開き始めているように思えた。




