第四十七章
ネリッサとのやり取りは、いつのまにか、ただの会話ではなくなっていた。
最初に彼がそれを感じたのは、ただの苛立ちとしてだった。会って話したあとに残る感覚が、会話の終わりではなく、短く鋭い打ち合いのあとの感触に近い。どちらも倒れてはいない。どちらも勝ったとも言えない。けれど、互いにどこまで踏み込めるか、どこでかわされるか、その感触だけは確かに残る。
やがてその感覚には、もっとはっきりした名前がついた。
アヤノとの剣のやり取りに似ている。
内容ではない。
流れだ。
踏み込み。牽制。軽い突き。わずかな退き。相手の軸を探るための半歩。ひとつの言葉の背後に、必ずもうひとつの意味があり、だがそれを早まって掴みに行けば、その瞬間に自分のほうが開く。そういう種類の会話だった。
ネリッサは、そう話した。
露骨な罠を仕掛けるわけではない。こちらに「今、試されている」と分かるようなやり方はしない。だが、彼女の言葉にはいつも、ちょうどいい重さがあった。少し軽ければ礼儀だけの音になる。少し重ければ、意図が見えすぎる。彼女は毎回、そのちょうど中間に置いてくる。問いに答えながら、問いそのものの位置を半歩ずらす。気づけば、こちらは彼女の張った線の上で返答している。
彼は、だんだんそれを待つようになっていた。
女を待つ、という意味ではない。
そこが彼をまだ救っていた。
恋ではなかった。
少なくとも、彼が自分で知っているあの単純な熱――理由もなく顔を見たくなり、ただそばにいたいと思い、何の得もなくても会えば少し軽くなる、ああいうものではない。ネリッサに対して彼を強く引っかけていたのは、そういう種類の柔らかい熱ではなかった。
まず、頭だった。
彼女の思考。
彼女の張り方。
返し方。
どこで引き、どこで押し、どこで相手に「次を言わせる」か、その感覚。
それがひどく正確だった。
そこが危険だった。
身体を思い出す女よりも、続きを考えたくなる女のほうが、男の頭の中で場所を取りやすい。彼は、いやでもそれを認めざるをえなかった。
ネリッサは、彼の思考の中に入り始めていた。
多すぎるくらいに。
ふとした時に、彼は彼女の言葉を反芻していた。何を言ったかだけではない。どこで間を取ったか。どこであえて曖昧にしたか。エドランに対する返答の前に、なぜあの一呼吸を置いたのか。ヴェイルの誘導を、どうやって真正面からは崩さずに、実際には自分の線へ引き寄せたのか。寝台に入ってからでも、リラのそばに座っていても、カイラの重くなった身体を眺めていても、意識の一部が勝手にそちらへ戻っていくことがあった。
それが、気に入らなかった。
とくに今の家の中では、なおさらだった。
カイラは、もうほとんど出産の手前まで来ていた。
それは腹の大きさだけの話ではない。もちろん、腹はもう誰の目にも明らかだった。彼女の前に、別の真実がひとつ先に歩いているようなものだった。だが本当に強く感じられるのは、もっと別のことだった。歩き方。座り方。疲れの出方。苛立ちの粘り方。そして何より、ときおり顔の奥に差す、あの動物的な恐れ。大声で言いはしない。噛みつくことで追い払おうともする。だが、それでも分かる。身体がもう、自分では止められないところまで来ていることを、カイラ自身が知っているのだ。
彼はそれを見ていた。
だからこそ、余計に、自分の頭の中にまだネリッサが残っていることに、ひどく居心地の悪いものを感じた。
ここには家がある。
カイラがいる。
リラがいる。
アヤノがいる。
三人とも、今や彼の生活の「一部」ではなく、そのものだ。
その密度の中で、それでもなお別の女のことを考えている自分を、彼はすぐにはうまく位置づけられなかった。
彼は、ネリッサがどれだけ自分にとって大きくなっているかを、認めまいとしていた。
認めれば、何かが一段進んでしまう気がしたからだ。
だが、見えていないわけではなかった。
むしろ、見えすぎていた。
もしこれが単なる肉の欲なら、もっと楽だっただろう。名前もつけやすい。扱いも単純だ。もし政治的な警戒だけなら、それも彼はよく知っている。距離を取り、見極め、必要な分だけを残せばいい。
だが、ネリッサに対して彼の中にあるものは、そのどちらだけでもなかった。
警戒もある。
面白さもある。
苛立ちもある。
そして、そのどれとも少し違う、まだきちんと言葉にできない何かもある。
そこが、いちばん厄介だった。
しかも彼には、ネリッサの側が自分をどう見ているのか、まだよく分からなかった。
これもまた、落ち着かなかった。
彼女は、あからさまな誘い方をしない。安い媚びもない。男をわざと気分よくさせるような、あの単純な仕草の一つも持ち込まない。だが同時に、冷えた公式の膜だけで話しているわけでもない。彼女はエドランに向けるものと、自分に向けるものを明らかに変えていた。
柔らかい、というのではない。
むしろ、鋭い。
自分に対してだけ、少しだけ研ぎ方が変わる。彼個人を、ただのヴァルガルドの男ではなく、別の頭として見ている。その感触があった。
それは、彼の自尊心をくすぐるには十分だった。
同時に、ひどく危うかった。
どこまでが、ただよくできた外交なのか。
どこからが、個人的な関心なのか。
それが分からない。
あるいは、最初から最後まで全部が仕事で、その仕事の精度が高すぎるだけかもしれない。彼女はどんな交渉の場でも、必要な相手に同じように深く刺さるよう、自分を調整できる女なのかもしれない。
だとしても、それはそれで厄介だった。
それほど上手くやられているということだからだ。
そして、もしそうではないなら、もっと厄介だった。
彼を苦しめていたのは、彼女が自分をどう見ているかだけではなかった。
もっと深いところでは、彼女をいまの自分の世界のどこへ置けばいいのかが分からなかった。
寝台へ、という意味ではない。
そこまで単純ではなかった。
彼の世界は、もう空いていない。
リラがいる。
失い、もう一度宿し、それでもなお静かで深いままでいるリラが。
カイラがいる。
いまや出産の縁まで来ていて、それでもまだ噛みつくように生きているカイラが。
アヤノがいる。
乾いた誠実さと、成熟した равенство と、身体だけでは終わらない верность を持つアヤノが。
その構図はすでに、十分に濃く、十分に危うく、十分に満ちていた。
そこへネリッサが入ってくるとすれば、彼女は既存の線のどれにも収まらない。
リラのようでもない。
カイラのようでもない。
アヤノのようでもない。
だからこそ、危ない。
既にある形に嵌まらない女は、たいてい新しい形を要求する。
彼にはまだ、それが何なのか見えていなかった。
ある日、ネリッサとの長い会話のあと、彼は回廊へ出たところで、自分が本当に打ち合いのあとみたいな顔をしていることに気づいた。山の道のことから始まり、交易の保証へ移り、最後には「国家同士の持続的な関係とは何か」という、ほとんど思想の地面にまで話が伸びていた。
アヤノが、回廊の先で待っていた。
彼は驚かなかった。
「で?」
彼女は彼が近づくと、そう言った。
「何が」
「その顔。いい打ち合いのあとみたいな顔してる。あるいは、いい議論のあと。あの女とだと、その二つがだいたい同じなんでしょ」
彼は鼻から短く息を抜いた。
「そうだな」
アヤノは彼をじっと見た。
「頭の中を取られすぎてる」
問いではなかった。
だから、彼も誤魔化さなかった。
「そうだ」
アヤノは視線を中庭へ流した。雪はもう斑に溶け、濡れた石だけが残っている。
「それが何なのか、まだ分かってない」
「分かってない」
「向こうが、あなたをどう見てるのかも」
「分かってない」
アヤノは小さく頷いた。
「だったら、せめて“何も起きてない”みたいな顔はやめたほうがいい」
それは、たぶんいちばん正しい助言だった。
ネリッサ・ヴァルンは、もう彼にとってただの使者ではない。中心でも、最優先でも、何かとっくに決まった存在でもない。だが、もう確実に、ただの外政の一行には戻せない位置へ来ている。
危険なものというのは、多くの場合、大きな衝撃ではなく、繰り返しの中で内側へ入る。
次の一手を待つこと。
次に何を返してくるかを考えること。
次の打ち合いを、少し楽しみにしてしまうこと。
ネリッサは、そういうふうに彼の中へ入ってきていた。
アヤノとの剣のように。
だが、同じではない仕方で。




