第四十四章
その夜、家の中はあまりに長く、いつもの気配を保っていた。
たぶん、それがいちばん彼を追い詰めた。
台所には、焼いたばかりのパンと肉の匂い、それに草を煎じたような青い香りが混じっていた。サレットがまた、つわりに効くからとカイラの飲み物に何かを入れたらしく、カイラは二日続けて「病んだ馬みたいに扱うな」と文句を言っていた。とはいえ、その文句もいつものような勢いはなかった。腹はもう重く、腰は疲れやすく、身体のほうが勝手に押しつけてくる新しい律動に、彼女自身がいちばん苛立っていたからだ。
アヤノは卓に着いて本を開いていたが、読んでいるというより、静かにそこにいることのほうへ意識を置いているようだった。彼女にはもう、言葉だけでなく、言葉のあいだに溜まる圧まで読める。
リラはいつものように音もなく家の中を動いていた。杯を持ち、布を畳み、火を見て、カイラに食後の気分を尋ねる。返ってくる棘のある言葉を受けても、ただ微かに笑う。
その穏やかさ、その単純な深さ、その無条件の受け入れ方が、その夜の彼には支えではなく、耐えがたいものになっていた。
最初は、自分でも何が起きているのか分からなかった。
食卓にいて、話をし、必要なところでは返事もした。ラヴァルンのことも、山からの流れがまた少し減ったことも口にした。だが内側では、何か暗く、重く、ぬめったものがずっと膨らんでいた。それは政治とも戦とも狩りとも関係がなかった。
リラが、また彼のそばにいる。
あまりにも静かに。
あまりにもまっすぐに。
あまりにも条件なく。
まるで、何もなかったかのように。
まるで、失ったものも、痛みも、あの大きく空いた穴も、彼の前ではただ抱えたままでいられるかのように。
まるで、彼をそのまま受け入れることができるかのように。
それが、たまらなく苦しかった。
彼自身は、そんな自分を受け入れていなかったからだ。
あの山で、あの時、守りきれなかった男を。
そのあとも、リラの身体に縋るように近づき、まるでそこで取り返せるものがあるかのように振る舞ってきた男を。
もう人を静かに消すことまで考えられるようになってしまった、自分の中の冷たい部分を。
リラは、その静かな深さのまま、まるで生きた告発のように彼の前にいた。責めないからこそ、責め立てられているようだった。
夕食のあと、彼はほとんど逃げるように先に部屋へ下がった。
カイラがすぐに顔を上げた。
「どうした」
「何でもない」
その「何でもない」があまりにひどい響きだったので、カイラでさえそれ以上は言わなかった。
彼は先に寝室へ入り、数分後、案の定リラが追ってきた。
義務で来たのではない。
彼を一人にしてはいけない時を、彼女はいつも本能的に知っていた。
部屋は暗く、壁際の火だけが頼りなく揺れていた。窓の外からは夜の湿った冷気がわずかに入り、遠く下では衛兵の足音が石に吸われて消えていく。
リラは扉を閉め、少し離れたところで立ち止まった。
「急に引いたわね」と彼女は静かに言った。
彼は背を向けたまま、何も返さなかった。
リラが近づいてくる。
まだ触れない距離で。
「こっちを見て」
その一言で、何かが切れた。
彼は振り向いた。あまりに急で、リラの肩がわずかに揺れた。だがそれはまだ恐怖ではなかった。ただ、彼の顔があまりにも壊れかけていたからだ。長いあいだ黒く濁ったものを抱え込み、もう飲み下すことも、留めることもできなくなった男の顔だった。
「何?」とリラは、さっきより小さな声で訊いた。
彼は一歩で間合いを詰めた。
肩を掴んだ。
痛めつけるほどではない。だが、いつもの彼の触れ方ではなかった。
それでもリラは退かなかった。
ただ、さらに深く彼を見た。
「言え」
掠れた声だった。
「何を?」
「俺が悪いって言え」
部屋の空気が、そこで凍った。
「何のことを」
それで、もう駄目だった。
彼は彼女を揺さぶるように強く掴み、声を裂いた。少年の激情ではない。長く抑え込んできた大人の男の、耐え切れなくなった崩れだった。
「分かってるだろ。山でのことだ。あの時だ。あの子のことだ。俺が守れなかったことだ。お前が失ったことだ。あれからずっと、まるで身体でそれを埋め戻せるみたいに、お前に触れてきたことだ。言えよ」
リラは、彼を見上げたままだった。
怯えでもなく、従属でもなく、ただあまりに痛ましい静けさで。
「誤魔化してなんかいない」と彼女は言った。
だが、その静けさが、彼を止めるどころか、さらに深く追い込んだ。
彼は彼女へ噛みつくように口づけた。愛撫ではない。息を奪うような、押しつぶすような口づけだった。リラは苦しそうに息をこぼしたが、それでも押し返さなかった。彼はそのまま彼女を寝台へ引き倒し、衣を乱暴に剥ぎ取った。布が肌に絡み、夜着の形が崩れ、白い肩と胸が火の明かりに露わになる。
その時にはもう、扉のところにカイラがいた。
当然、音を聞いて飛んできたのだ。
「何してんだよ!」
彼女は怒鳴り、寝台へ向かって踏み出した。
アヤノが、その半歩後ろから入ってきた。
そして一瞬で理解した。
表面ではなく、もっと奥のことを。
カイラが飛び込もうとしたのを、アヤノが腕を掴んで止めた。
「放せ!」
「だめ」
「正気かよ!」
「正気だから止めてる」
カイラは強く身を捩った。腹がその動きに合わせて揺れ、アヤノはすぐに掴む位置を変えて、今度はもっと正確に彼女を押さえた。
「リラが――」
「違う」アヤノは歯を食いしばったまま言った。「壊れてるのは、あっちだ」
寝台の上では、その声すらもう彼には遠かった。
リラは倒れたまま、髪を枕と敷布へ広げていた。衣は乱れ、息は明らかに速い。それでも、その目はまだ彼から逸れなかった。
それが、さらに彼を狂わせた。
彼は彼女へ乱暴に口づけ、胸を掴み、首筋に噛みつくように唇を押しつけた。彼女の身体がびくりと震え、時折、痛みを含んだ短い息が漏れる。それでも、彼女はまだ彼を拒まない。
「言え」彼はまた言った。「俺が悪かったって」
「あなたは、苦しんでる」
「それじゃない」
「ずっと、あれを抱えたままなんでしょう」
「それじゃない!」
彼は彼女の顎を掴み、無理に顔を上げさせた。
「俺があれを起こした。俺だ。山でも、獣でも、偶然でもない。俺だ」
リラはそのまま彼を見ていた。顎を掴まれてなお、侮辱されているようには見えなかった。ただ、そこにいて、彼を受け止め続けていた。
「そうね」と彼女は静かに言った。「あなたは、あれを防げなかった」
その一言が、彼の中へ深く入った。
彼女は彼を救う嘘をつかなかった。
「あなたは悪くない」とは言わなかった。
ただ真実を認めた。
それでも、退かなかった。
それが彼には耐えがたかった。
彼は彼女の脚を乱暴に開かせた。いつものような、彼女の身体をよく知っている男の慎重さはそこになかった。怒りのような、処罰のような勢いで、自分の欲望すら半ば歪めたまま、彼は彼女の中へ入った。
リラの身体が強く震えた。短い声が漏れ、指が敷布を掴み締める。痛いことは明らかだった。だが、それでも彼女は彼を拒まず、ただその苦しさごと受け入れていた。
カイラがまた一歩踏み出しかけた。
「もうやめろって!」
だがアヤノは離さなかった。
「まだだ」
「何がまだだよ!」
「これが終わらない限り、止まらない」
それは、アヤノだけが分かっていたことだった。ここで途中で切れば、この崩れは形を変えて何度でも戻る。ずっと宙吊りのまま、家の中に残り続ける。
彼は荒く動いた。優しさも、いつもの確かさもなく、ただ壊れた怒りのままに。リラは痛みに息を乱し、時折顔を歪めた。それでも恐怖はなかった。そこがいっそう彼を追い詰めた。
「俺を憎め」
「いや」
「今だけでもいい」
「いや」
その拒否のなさ、その否定の仕方が、とうとう彼を根元から崩した。
彼は動きを止めた。まだ彼女の中にいたまま、なおも強く彼女を掴んだまま、唐突に、糸が切れたように全身から力が抜けた。
それまでの激しさの反動のように、彼の身体が重くリラへ落ちた。
そして、そのまま泣いた。
呻きでも、怒鳴りでもなく、男の喉から出るにはあまりに生々しい、裂けたような泣き方だった。子供のそれではない。何年も、何十年も、泣かずに積み上げてきたものが一度に崩れた大人の泣き方だった。
リラはすぐに彼を抱き締めた。
迷わずに。
自然に。
背中へ腕を回し、片方の手を髪に入れ、もう片方で肩甲骨のあたりをゆっくり撫でる。その抱き方は、彼の重みも、彼の醜さも、今この瞬間の壊れた姿も、全部を含んでいた。
彼はそこで完全に崩れた。
震えながら、言葉にならないことを繰り返した。あの子のこと、山のこと、ずっと離れなかった罪悪感のこと、自分がどれだけリラの身体にそれを持ち込んできたか、自分にはそんなふうに彼女へ触れる資格があるのか分からないこと。言葉は千切れ、時に意味を失い、それでも止まらなかった。
カイラは、いつのまにかもう暴れようとはしていなかった。
怒りはまだ顔に残っていた。だが、その下に理解が滲んでいた。
「……最悪だな、ほんとに」
掠れた声で、そう吐き捨てるように言う。
アヤノはようやく彼女の腕を放した。
カイラは動かなかった。
動けなかった、のほうが近かったかもしれない。
寝台の上では、彼はまだリラの中にいた。そのことが、この場面をいっそう逃れようのないものにしていた。彼の腰はまだ微かに震え、彼女の呼吸も整っていない。頬や首筋には彼の荒い口づけの痕が残り、唇は腫れ、胸にも指の跡がうっすら浮いている。
それなのに、もうこれは欲情の場面ではなかった。
男の壊れ方そのものが、女の身体の中で起きている。
その異様な生々しさが、部屋の空気を完全に変えていた。
リラは彼の耳元に唇を寄せ、あまりに静かに言った。
「それでも、私は受け入れる」
その言葉に、彼の身体が大きく震えた。
それが最後だった。
強さでも、怒りでも、支配でもなく、ただその言葉に押し潰されるように、彼は数度だけ不規則に動き、ほとんど反射のように果てた。快楽というより、痛みと羞恥と喪失と崩壊が、まとめて身体を通り抜けていったような果て方だった。
そのあと、誰もすぐには動かなかった。
夜は深く、窓の外では風が遠くを流れ、家全体が息を潜めているようだった。
最初に視線を外したのはカイラだった。
アヤノはゆっくり寝台へ近づき、彼ではなく、まずリラのほうへ手を伸ばした。頬にかかった髪をそっと払い、そのまま目だけで問いかける。大丈夫か、と。
リラはかすかに首を振った。
生きている。
ここにいる。
今はそれでいい。
部屋の中には、ようやく終わったものの重さが残っていた。ずっと宙吊りだったものが、最悪の形で地面へ落ちた、そのあとの静けさだった。
彼はリラの上に重なったまま、もう空になった身体を預けていた。自分の中にまだ残るのは、欲望でも、怒りでも、罪悪感でもない。ただ一つの、あまりに恐ろしい事実だった。
リラは、こんな彼でも見捨てなかった。




