第四十一章
カイラの懐妊について、家の中では慎重に話すようになった。
それは禁じられたことだったからではない。むしろ逆で、あまりにも本物で、あまりにも生々しく、あまりにも早く日々の手触りの中へ入り込んでしまったからこそ、ぞんざいには扱えなかったのだ。カイラ自身、最初のうちは何につけても苛立っていた。自分の身体をどう扱えばいいのか、自分でもまだ掴めていなかったのだろう。昨日までただ自分のものでしかなかった身体が、突然、未来までも抱え込んでしまった。その事実に、彼女自身の感覚がまだ追いついていなかった。やがて少しずつ慣れてはいった。柔らかくなった、というのとは違う。カイラという女に、その言葉はもともと似合わない。ただ、慣れていったのだ。荒っぽく、率直に、そして自分でも半ば信じきれないような顔で。それでも、その苛立ちの奥には、現実が自分に課してきたものを、どこか誇らしく受け止める気配も確かにあった。
だが、リラのほうは、彼が思っていたよりもずっと難しかった。
表に出るぶんには、ほとんど隙がなかった。
冷たくもなく、張りつめてもいない。むしろ、あまりにも穏やかすぎるほどだった。カイラに対する声音も平らで、視線もやわらかい。食事のこと、眠りのこと、少しずつ現れはじめた身体の細かな変化――そういった話になると、リラがいちばん先に動いた。杯を差し出す手も、椅子へ座らせる気配りも、黙ってそばにいる在り方も、あまりに自然だった。かつて一度、子を失った身体が、今では誰よりも正確に、何をすべきか知っているようにすら見えた。
だからこそ、なおさら痛ましかった。
その穏やかさの下には、別の真実があった。
剥き出しで、残酷で、目を逸らせない真実が。
リラは嫉妬していた。
それは、ありふれた意味での嫉妬ではなかった。女同士の狭い感情でも、幸福を「自分ではない誰か」が持っていることへのすね方でもない。もっと深いところの、もっとどうしようもなく身の内に根を下ろした感情だった。
子が、自分のものではないこと。
今、カイラの内側で確かに育っている命が、自分の内側にはもうないこと。
かつて自分の中にあった命は、ある日、突然に、乱暴に、何の権利もなく断ち切られてしまったこと。
その事実が、彼女の中では抜きようのない刃のように刺さり続けていた。
ある夕暮れ、彼はそのことを、とうとう口にした彼女を見た。窓辺に立ち、冷えた窓枠に手を置いたまま、彼女はいつものように静かだった。部屋もまた静かだった。カイラは先に引き上げていた。その日は食欲と苛立ちの波があまりにせわしなく、本人ですら自分に疲れたのだろう。アヤノは卓について紙を前にしていたが、ほとんど書いてはいなかった。ただそこにいた。
彼がリラの隣へ立つと、彼女は先に口を開いた。
「私、あの子に嫉妬してる」
あまりにもまっすぐで、あまりにも静かな言い方だった。
彼は頷いた。
「分かってる」
リラはわずかに顎を引いた。
「ひどく、ね。腹が立つくらい。どうして私じゃないの、って思うことがある」
部屋の空気が一段深く沈んだ。アヤノは身じろぎもしなかった。だが、意識のすべてをそこへ向けているのが分かった。
「でも」とリラは続けた。「カイラにも、その子にも、悪いことなんて何ひとつ起きてほしくないの。痛い思いも、嫌な思いも、少しもさせたくない。そう思ってる。だからたぶん、それがいちばん苦しい。絶対に一緒にはいられないはずの気持ちが、今の私の中では、どっちもちゃんと生きてるから」
彼は一歩だけ近づき、彼女の手首に指を触れた。慰めるためではなく、そこに一緒にいることを示すために。
「一緒にあっていい」と彼は言った。「そういうふうに抱えていいんだ」
リラは、ほんの少し、笑うような息を漏らした。
「誰にとっても都合のいい言い方ね」
「都合がいいんじゃない。正しいだけだ」
彼女は一瞬だけ目を閉じた。
「私、カイラを見るたびに、自分の失ったものを重ねたくない。でも、そうなっちゃう時がある。最初はちゃんとカイラを見てるのに、その次の瞬間には、もう自分の空っぽになったところを見てる」
「それでも、お前はあの子に優しい」
そう言うと、リラは目を開けて彼を見た。
「当たり前でしょう。あの子は悪くないもの。あの子の中の命だって、悪くない。もし私がこれを受け入れられなかったら、私の中には“失った”っていうことだけが残る。そんなふうには、生きたくない」
それは、美しさや献身の話ではなかった。
もっと苛烈な、もっと容赦のない内的な仕事だった。自分の嫉妬があると認めること、その嫉妬が汚れていて、身も蓋もなく、母としての肉を伴ったものだと認めること、そのうえで、それを毒へ変えないと決めること。
その夜、アヤノは何も言わなかった。だがリラが去ったあとで、ぽつりと口にした。
「私たちが思ってるより、ずっと強いんだね」
彼はそちらを見た。
「知ってる」
「ううん」アヤノは首を振った。「強いっていうだけじゃない。今のリラは、正反対の真実を二つとも抱えたまま、どっちにも食われてない。それは、もうただの強さじゃない」
彼は否定しなかった。
その通りだった。
一方で、ラヴァルンからは新しい報せが、少しずつ、あちこちの細い線を伝って入ってきた。表の経路からではない。あちらはまだ、自分たちの上層の死をどう解釈するか、どう隠すか、誰に責任を押しつけるかで精いっぱいのはずだった。だが、国家というものは、完全に閉じようとする時ほど、かえって綻びから情報を漏らす。
その中に、目立ち始めた名があった。
サルヴェル・タロン。
最初は二つの別筋から、次にホウセイの線からも同じ名が上がったことで、その存在は一過性ではなくなった。サルヴェル・タロンは、あの愚鈍な軍上層の真ん中にいる男ではなかった。かといって、分かりやすい反対勢力でもない。むしろ、壊れ始めた構造の中に長く耐えながら、しかし構造そのものと同化せずに残っていられる、稀な種類の人間だったらしい。まず聞いてから話す。異質なものを並べて置くことを恐れない。獣人に対しても、反射的な嫌悪を示さない。そして何より、権力それ自体に酔っているようには見えない。
「少なくとも、前よりはましだな」
短い報告を読み終えたエドランはそう言った。
「良いとは限らない」と彼は返した。
「分かっている」エドランは頷いた。「だが、国そのものを完全に沈めずに済ませられる人間が、ようやく顔を出したのかもしれん」
ホウセイからの見立ても興味深かった。向こうでは、サルヴェル・タロンについて、きわめてホウセイらしい言い回しが使われていた。
**「この人物は、少なくとも“誤っている”とは見えない」**
正しい、と言っているのではない。
誤ってはいない、と言っている。
世界を聖性の尺度で切り分けたがる国が、それを口にするのは、ほとんど異例だった。
「神殿の連中でさえ、ひどい歪みは感じていないということか」
ヴェイルはその文を読み返しながら言った。
「あるいは、歪みはあっても、付き合えない種類ではないということだろう」
エドランの答えもまた正しかった。いずれにせよ、それはひとつの希望だった。ラヴァルンの崩れの中に、次の結節点になりうる人間が現れたという、その一点だけは。
だが、ラヴァルン使節の件でエドランと向き合った時、空気は重かった。彼は、厳しい叱責を予期していた。あの場で、あそこまで深く他国の権力へ手を入れたことを、どう説明するつもりなのかと問われるのだろうと思っていた。
実際には、それより厄介だった。
エドランは彼を、誰もいないところへ呼んだ。公式の汚れ仕事を話す小部屋ではない。かといって、個人的な温度だけで話す場所でもない。主君が、まだ相手を道具にし切る気はないが、道具になりうると分かっている相手に向かう時の部屋だった。
開口一番、エドランは言った。
「やりすぎだ」
飾りのない一言だった。
彼は頷いた。
「そうだな」
エドランは目を細めた。
「しかも腹立たしいことに、形式の上では、そこまで明確に越権したとも言い切れん。見本みたいな叱責にしづらい」
彼は黙っていた。
エドランは壁際をゆっくり歩きながら続けた。
「使節の範囲そのものは逸脱していない。交渉を公然と壊したわけでもない。ヴァルガルドへ直に火の粉を飛ばしたわけでもない。証拠も残していない。しかも結果だけ見れば、あの愚かな上層を消し、もしかすると次のまともな節を立てるための空白を作った。そこだけを見れば、悪くない」
そこで足を止め、彼に向き直る。
「つまりお前は、正しいわけではない。ただ、有用な方向へ危険だ。いちばん扱いづらい種類の危険だな」
彼は、口元だけで笑った。
「叱ってるのか、褒めてるのか、どっちだ」
「両方だ」エドランは即答した。「お前がやったことは、たぶん必要だった。だが、それを他国の土の上で、私の使節の看板のもとで、個別の明示を待たずに実行した。その一点だけで、私には別のことも考えなければならなくなる」
「別のこと?」
「お前を他国へ送るのは、本当に安全なのか、ということだ」
その言葉は、静かだった。
だが、だからこそ重かった。
それは正しい問いだった。もし彼が、他国の政治を前にしたとき、使者ではなく、自分の判断で“間違った層を消す側”へ自然に傾くのだとしたら、次はどこまで行くのか。エドランは、その先まで含めて見ていた。
彼はしばらく考え、それから言った。
「気に入る答えじゃないかもしれないが、俺は面白半分でやったわけじゃない。あそこに、上へ残しておいていい顔が一人も見つからなかった」
エドランは頷いた。
「だからこそ、私はまだお前についてではなく、お前に話している」
その一文は、短かったが鋭かった。
まだ、お前そのものを“管理すべき対象”として語ってはいない。だが、その一歩手前には来ている、という意味だった。
「次からは」とエドランは言った。「お前の中で“こいつらは説得するより消したほうが早い”という考えが立ち上がったなら、まず私に出せ。そうしないなら、私はお前を、外から統御が要る要素として扱い始める」
彼もまた、率直に返した。
「分かった」
エドランは長く彼を見た。
「願わくは、本当に分かっていてくれ。有用な人間が、自分の中の秩序感覚だけで“殺してよい場所”を決め始めると、主の手の届かないところで、いちばん面倒なものになる」
その後は、もう長くは引かなかった。話は終わった。だが、残ったものは重かった。エドランが間違っていたからではない。あまりに正しいところを突いていたからだ。
そして家へ戻ると、そこで待っていたのはまた別の重さだった。
最初に彼のところへ来たのはリラだった。
その晩ではない。少し日が経ってからだ。家の中に、カイラの懐妊が「驚き」ではなく「事実」として居場所を持ち始め、リラの嫉妬もまた、もはや隠しきるものではなく、静かな痛みとして彼に見せられるようになった頃。
夜だった。
彼がまだ眠っていない時に、リラは寝台の縁へ座り、まっすぐ彼を見て言った。
「私、孕みたい」
一切の迂回がなかった。
その率直さに、彼の内側は一瞬だけ無音になった。
予想していなかったわけではない。むしろ、いつか必ず来る言葉だと分かっていた。だが、分かっていることと、実際にその声で聞くことは違う。
リラは視線を逸らさなかった。
「できたら、じゃない。いつか、でもない。そうしたいの。あなたと。もう偶然じゃなくて、ちゃんと」
そこには、失ったもの全部が含まれていた。母として断ち切られた線も、そのあとに生まれた静かな決意も。
彼は彼女の手に触れた。
「分かってる」
リラは、ごくわずかに笑った。
「ううん。まだ全部は分かってないと思う。でも、そのうち分かる」
彼女は懇願していたわけではない。訴えていたわけでもない。ただ、自分の真実を、まっすぐ置いただけだった。
そして、その翌日、今度はアヤノが来た。
彼女は夜を選ばなかった。昼だった。部屋を移る途中の廊下で、まるで立ち止まってしまえば自分でもまた慎重さへ逃げ込むと分かっているかのように、彼の腕を取ってその場で言った。
「私も、一つ言わなきゃいけないことがある」
彼は、その顔を見た時点で、軽い話ではないと悟った。
アヤノはまっすぐ見てきた。乾いていて、いつものように輪郭がはっきりしていた。
「私も孕みたい」
言ってから、彼女は続けた。
「カイラの真似じゃない。リラが失ったからでもない。ただ、私も欲しい。あなたとの子が」
それはリラとは違う衝撃だった。
深さが違うのではない。
向かってくる角度が違った。
リラのそれは、喪失の深みから伸びてきた願いだった。奪われた線を、自分の意志で繋ぎ直したいという、母の肉に根ざした願い。
アヤノのそれは選択だった。成熟した、厳しささえ帯びた選択だった。偶然に任せるのではなく、自分の人生の一部として、この男との子を欲しいと決めた、その「決めた」という強さ。
彼は、その場で初めて、本当に分からなくなった。
望まないわけではない。
むしろ逆だ。
望みは、もう十分にある。
だが、現実の構図が、彼の中でまだ形になっていなかった。
一人は、失った子のあとで、もう一度自分から欲しいと言っている。
一人は、すでに身体の偶然で命を宿している。
もう一人は、偶然ではなく自分で選んで欲しいと言っている。
それが全部、同時に、同じ家の中で、ひとりの男へ向かっている。
ついこの前まで、彼自身が“偶然ではなく子を望む”という感覚そのものに慣れ始めたばかりだというのに。
彼は、どちらにも、安易な答えは返さなかった。
「まだ、どう生きれば正しいのか分からない」
リラにはそう言った。
アヤノにも、ほとんど同じことを言った。
意外なことに、二人とも、その答えを空疎とは受け取らなかった。むしろ、作り物の自信を返されるより、よほどましだと受け止めたようだった。
リラはただ静かに頷いた。初めから、完成した答えなど期待していなかったのだろう。問いの重さを、ちゃんと認めてほしかっただけなのだ。
アヤノの返しは、やはり彼女らしかった。
「じゃあ、そのまま分かっていけばいい」
そう言って、彼女は落ち着いた顔で離れていった。まるで、その程度の不確かさを含んでいることこそ、この話のまともな始まりだと分かっているように。
残された彼の中には、新しい現実だけが、重く居座った。
この家には、もう一つの命が確かに育ちはじめている。
そして、なお二人の女が、自分の口で、はっきりと、同じことを望んでいる。
いつか、ではない。
誰か、ではない。
自分との子を、今ここから現実として欲しいと。
その事実は、もう心の隅へ追いやっておけるものではなかった。




