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第二十八章

あの処刑と、台所でのあの荒い一瞬のあと、彼は何日か妙なことを考えていた。自分の元いた世界では、親密さというものがずいぶん軽く扱われていた。逆に、この世界にはそれがほとんど存在していないように見える、と。


向こうでは、身体の近さはすぐに背景にされる。あるいは恥。あるいは冗談。あるいは、料理や居心地のよさや、やわらかい雰囲気にすり替えられて、それを成熟だと呼んでしまう。だが、こちらはもっと悪い。ここには、身体の近さを“生きた返答”として扱う発想自体がほとんどない。あるのは役目。義務。男の権利。女の責務。子を作ること。強制。たまに私的な情や、まれな優しさ。けれど、二人や三人の人間が、体を通して、ただ取り合うのでも与えるのでもなく、互いに答え合うことができる、という感覚がほとんど育っていない。


そのせいで、彼にはだんだん、親密さというものがいかに過小評価されてきたかが、妙にくっきり見えてきた。


欲望そのものではない。


人が、欲望を通して一人で壊れずに済むことのほうだ。


技術ではない。


「どうすれば正しいか」でもない。


生きた、むき出しの事実。時には、人間に必要なのは意味でも、結論でも、正しい会話でもなく、誰かの熱、重さ、口、手、裸の弱さがすぐそばにあることだ。そしてそれが、恥にも義務にも変えられていなければ、言葉より深く人を支えることがある。


ヴェイルは、意外にもこの話へ自分から近づいてきた。


正面からではない。


最初は、ただ前より長く居残るようになっただけだった。ある時、家の中がとくに静かだった。リラは少し眠っていて、アヤノは本を読んでいて、カイラはサレットと一緒に外へ出ていた。ヴェイルは卓のところで、すでに冷めかけた煎じを手にしたまま、ふいに言った。


「お前のところは、それがずいぶん自然に見える」


彼はすぐには意味が分からなかった。


「何が?」


ヴェイルは、どこまでまっすぐ言うかを選ぶように、少しだけ間を置いた。


「彼女たちとの暮らしだ」と彼は言った。「家。身体の近さ。その間にあるもの。権利にも見えない。弱さにも見えない。尊厳を失うことにも見えない。理屈では、そういうあり方が可能だとは分かる。でも、この世界ではほとんど不自然だ」


彼はそこでようやく、ちゃんとヴェイルを見た。


ヴェイルは赤くもならなかった。


気まずそうにもしなかった。


問いを理屈へ逃がそうともしていなかった。


だからこそ、本気だと分かった。


「この世界では」と彼は言った。「古い利益の形に収まらないものは、たいてい最初みんな“不自然”に見える」


ヴェイルはごく薄く笑った。


「それはもう分かってる」


彼は椅子にもたれ、窓の光を少し眺めてから訊いた。


「女はいるのか」


ヴェイルは、その問いにも驚かなかった。


「いる」


「うまくいかない」


今度は、ヴェイルも少し長く黙った。


「そうだ」と彼は言った。「欲しくないわけじゃない。向こうが冷たいわけでもない。むしろ逆だ。だが、どうしても自分が近づくたびに、頭のどこかで“取るか、顔を失うか”みたいな古い前提が動く。それ以外のあり方が、最初から入っていない」


「向こうは?」


ヴェイルは息をついた。


「向こうは、別の意味で難しい。賢い女だ。空っぽでもない。見えているものも多い。だが、彼女もこの世界で育ってる。だから、近づきたくても、“自分が形に合わせる側だ”という癖がどうしてもある。一緒に形を作るんじゃなくて」


彼は頷いた。


そこだった。


欲がないのではない。


優しさがないのでもない。


ただ、言葉がない。


「助言が欲しいのか」と彼は訊いた。


「そうでなければ、こんな話はしない」


彼は少し考えた。


答えがないからではない。ただ、ここで雑にやると全部壊れる類の話だと分かっていたからだ。


「まずサレットを受け入れろ」と彼は言った。「自分のためじゃない。お前の女のために。あれを、彼女の導き手として」


ヴェイルは少し眉を上げた。


「サレットを?」


「そうだ。あの女は、もう充分見てる。ただ古い秩序を教えるんじゃなくて、そこからどうやって生きた形へ抜けるかを伝えられる。綺麗なことは言わないし、調和を手渡してもくれない。だが、女がまだ古い役割の中で固まっているのか、それとも少し押せば先へ進めるのか、その違いはちゃんと分かる」


ヴェイルは、ゆっくり杯を卓へ置いた。


「つまり、身体の近さに入るための導き手として、年長の女をすすめるわけか」


「いきなりやり方へ行くなと言ってるんだ」と彼は答えた。「お前たちの間にまだ、身体を恥じずに生きられる権利そのものができていないなら、 техника の話は意味がない。そこは俺よりサレットのほうが使える。俺が見せられるのは、“そういうあり方が可能だ”ということだけだ。あいつは、お前の女が新しい触れ方を“禁を破ること”だと感じずに済むようにするほうが上手い」


ヴェイルは視線を落とした。


気まずさではなく、思ったより深く入った時の沈黙だった。


「お前も最初は難しかったんだな」と彼は言った。


「当然だ」


「でも今はそう見えない」


彼は少しだけ笑った。


「今はもう、近さを“事件”だと思ってないからだ。ただの生活の一部だ。静かな時もある。飢えた時もある。救いになる時もある。荒い時もある。だが、生きてる。芝居じゃない」


ヴェイルは少し黙ったまま座っていた。


それから頷いた。


「分かった。サレットに頼んでみる」


サレットは、もちろん、サレットらしく受けた。


「つまり私は今度はそこまでやるのね」と彼女は言った。話を聞き終えたあとで。「結構なこと。歳を取ると、思わぬ方向で役目が増えるものだわ」


それを聞いて最初に吹き出したのはカイラだった。


「おお古き最年長の御方、ついにそこまで来たわね」


サレットは横目で彼女を見た。


「あなた、ずいぶん楽しそうね。私が今さら他所の人間に教えに行くのが」


「当然でしょ」とカイラ。「私たちはもう、教わるには遅すぎるもの」


「遅すぎるんじゃない」とカイラは自分で続けた。「もう今さら矯正不能なだけ」


それでもサレットは行った。


彼のところへでも、ヴェイルのところへでもなく、まず相手の女のところへ。


そして、その結果はヴェイルの変化に出た。


すぐにではない。


だが、確かに。


最初は、背骨にずっと力の入ったまま生きているような感じが少し薄れた。次に、他人の熱を切るのが少しだけ遅くなった。さらにある日、彼は来た。書類からも用件からも始めずに、ただ座り、しばらく卓を見たまま黙っていた。何か、自分にとっては政治よりずっと言いにくいことを持ってきた顔だった。


「助かっている」


やがて彼はそう言った。


彼は何も急かさなかった。


ヴェイルは顔を上げた。


「説明が助かるんじゃない」と彼は言った。「正しさでもない。助言そのものでもない。あいつが……返してくるんだ。生きて。近さを“こなしている”んじゃなくて、怖がっているんでもなく。ちゃんと、こちらへ返してくる。自分がそれをどれだけ欲していたのか、分かっていなかった」


そこで彼は、ようやくこの話をした意味があったと分かった。


「そうか」


彼はただそれだけ言った。


ヴェイルは、ごく小さく苦笑した。


「ひどく気前のいい反応だな。わりと深い話をしたつもりなんだが」


「何が欲しい。拍手か?」


「いや」とヴェイル。「お前は本当に、他人の身体の幸福を祝うのが下手だと思っただけだ」


「祝うもんじゃない」と彼は言った。「生きるもんだ」


ヴェイルは短く頷いた。


その動きの中には、前より少しだけ隠しきれない温度があった。まだ自由には出せない。だが、もう完全には閉じられない、そういう温度だ。


「お前の言う通りだった」と彼は言った。「ここで要るのは механика じゃない」


「もちろん」


「生きた答えだ」


「そうだ」


その時になって、彼は完全に理解した。ヴェイルにも“方法”が必要だったのだ。魔術師としてでも、統治に関わる者としてでもなく、ただ長いあいだ「身体とは、支配か、あるいは支配を失う危険か」のどちらかだと教え込まれてきた男として。そして今、そこに第三の道があると知ったことで、彼の内側は静かに、しかしかなり深く変わり始めている。


その一方で、カイラは別のことを強く感じ始めていた。


自分に向くものが足りない、と。


一般論としてではない。


子どもじみた「見てほしい」でもない。


もっと厄介な形で。


彼女はリラを受け入れていた。妊娠も。そのことで家の重心が少しずつリラのほうへ寄っていることも、当然のこととして受け入れていた。アヤノのことも受け入れていた。彼女にいまもなお必要な近さ、手当て、身体の中での支え、それらも。


だが、受け入れることと、自分の分を欲しがらないことは同じではない。


そして、ある夜、それは何の前置きもなく外へ出た。


リラはもう休みに行っていた。アヤノは窓際に座っていた。彼は卓の上の記録と、二本の刃物を片づけていた。そこへカイラが急に立った。彼が顔を上げるより早く。


「足りない」


彼女は言った。


彼は彼女を見た。


「何が」


「馬鹿なふりしないで」


声は平らだった。


怒鳴っていない。


だからこそ危なかった。


窓際のアヤノは、何も挟まなかった。ただ頁を一枚めくった。その音が、妙に静かすぎた。


「私は全部受け入れてる」とカイラは続けた。「リラも。あのお腹も。今この家がそのまわりを回るみたいになってることも。塩の入ったジャムだの、酸っぱいのと熱いのを“ひとつの感じ”にしろだの、そういう妊娠の魔法みたいなやつも。アヤノも。あんたとあの子のあいだにあったものも、あるものも。でも、それでも足りない。だから、私はもう“立派に分かってる人”のまま黙ってる気はない」


彼はまだ何も言わなかった。


困っているからではない。


彼女がどんな言葉でそこへ辿り着くのか、ちゃんと聞きたかったからだ。


カイラはそれを理解して、さらに一歩近づいた。


「私は自分の分が欲しい」と彼女は言った。「丁寧に切り分けられた立場じゃない。“あとで、都合がよくなったら”でもない。誰かのあとの余りでもない。丸ごと。私のためのやつ。そう。要求みたいに聞こえてもいい」


「実際、要求だな」と彼は言った。


「それでいい」


彼女は目も逸らさなかった。


そこでアヤノも、本から目を上げた。


口は挟まない。


ただ、もう完全に聞いている。


カイラはその視線を受けたまま、さらに言った。今度は少しだけ低く、だが柔らかくはならずに。


「私はここで、“全部理解して受け入れて、いつも待てる女”の役はもうやらない。 терпение を褒められるのもいらない。欲しいのは、私のもの。強引でも、支配的でも、ほとんど屈辱みたいでもいい。そうやってでもいいから、“これは私の分だ”って分かるものが欲しい。誰にも取られないやつ」


部屋が少しだけ狭くなった。


空気が重くなる。


彼はカイラを見ていた。これは挑発でも芝居でもない。彼女は、自分の言葉でごく単純な真実を言っていたのだ。愛情一般ではなく、自分だけに向けられた、生々しくて動かしがたい分が必要だと。


「お前が欲しいのは、やわらかさじゃないんだな」と彼は言った。


「いらない」


カイラは即答した。


「私は、取られるんじゃなくて、取られるくらいの勢いでこっちへ来てほしいの。迷いなく。私のだって分かるように。待てる女、分かってる女、あとからでも平気な女、そういう役じゃなくて」


アヤノは本を閉じた。


何も言わない。


ただ、もうそこに完全にいるというだけで、場が少し変わる。


カイラは一瞬そちらを見て、今度は少し声を落とした。


「別に、あんたたちに敵対してるわけじゃない。むしろ逆。受け入れてるからこそ、私はもうこれを黙って飲み込まない」


彼は、その真っ直ぐさを見て、妙に жесткое уважение を感じた。


そうなのだ。


カイラは、こういう時だけは本当に、額からまっすぐ真実へ突っ込んでくる。


「分かった」と彼は言った。


カイラは目を細めた。


「“聞いた”って意味で?」


「“分かった”って意味でだ」


彼女は息を吐いた。


安心したようには見えなかった。


むしろ、自分で卓に刃を突き立てて、それが柄までちゃんと入ったのを確認した人間の息だった。


アヤノは、ゆっくり視線を窓のほうへ戻した。


もう読んではいない。ただ、沈黙の中に座っていた。その沈黙は、何かがもう変わったあとに来るものだった。まだ何も始まってはいない。だが、確実に、位置だけは変わっていた。


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