第二十五章
リラの妊娠は、もう見て分かるようになっていた。
彼にだけでもなく。
女たちにだけでもなく。
もう、目のある人間なら誰にでも分かる。
腹はまだ大きいというほどではない。彼女の輪郭を別人のように変えてしまったわけでもなければ、以前の軽やかさを完全に奪ったわけでもない。ただ、もう“知っている者にだけ分かる段階”ではなくなっていた。変化は外にも出ていた。布が腰のあたりで落ちる形に。立ち上がる時、無意識に脇腹へ手を添える仕草に。歩き方はまだきれいなままなのに、重心だけはすでに少し大事にされている、その具合に。
そしてもうひとつ。
家の中を、時々妙に可笑しくしてしまう細かな変化にも。
リラのつわりは軽かった。寝込んで動けなくなるほどではない。だが、生活の流れをふいに曲げるには充分だった。急に「これは無理」が来るし、同じくらい急に「これが欲しい」も来る。
「しょっぱいジャムが食べたい」
ある朝、リラは本気でそう言った。
彼はちょうど訓練のあとで水を飲んでいて、そこで少しむせかけた。
「何だって?」
「しょっぱいジャム」
リラは、まるでごく普通の願いごとを口にするみたいに、静かな顔で繰り返した。
「そんなにしょっぱくなくていいの。甘くて、とろっとしてて……少しだけしょっぱいの」
向かいでパンを切っていたカイラは、笑いもしなかった。
「いいわ」と彼女は言った。まるでそれが完全に正常な要求であるかのように。「何のジャム?」
リラは、本当にちゃんと考えた。
「分からない」
窓際で杯を持っていたアヤノが、一瞬だけ目を閉じた。
「すごい。対象は未定なのに、欲求だけは決定してるんだ」
「うん」とリラは言った。「そういう感じ」
カイラはすぐ立ち上がった。
「分かった。何とかする」
彼は彼女を見た。
「本気で今から“しょっぱいジャム”を作るつもりか?」
カイラは、そんなことも分からないのかという顔で彼を見返した。
「当然でしょ。何だと思ってるの? 妊娠してる女の前で、欲しがってるものが世界の論理に合ってるか会議でもしろって?」
「それはたしかに、かなり男っぽい発想ね」とアヤノが静かに言った。
「でしょ。だから黙ってて。私は今から家族を“しょっぱいジャムがない”という危機から救うの」
そう言って、本当に出ていった。
もちろん、出ていった。
まず台所へ。
次に貯蔵へ。
そのあとたぶん、半分くらいの下働きを詰めたのだろう。どうすれば何かしらの果実を塩でまとめても“味覚への冒涜”にならずに済むのかを。結果として、その日の夕方、リラは本当に小さな器を手にしていた。黒っぽい果実に蜜と粗塩を合わせた、妙に濃いものだ。それを真顔で食べて、しかも満足していた。
「で?」
カイラは、ほとんど詰問みたいに立っていた。
「これで合ってるの?」
リラはもう一口食べた。
「かなり近い」
カイラは、そこでゆっくり目を閉じた。
「いつか絶対あんたを殺す」
「いいえ」
リラは落ち着いて答えた。
「今はすごく私のこと好きだよ」
カイラは目を開け、器を指差した。
「そうよ。今のところはね。これが“蜂蜜をかけた燻製魚が食べたい”とかに発展しない限りは」
窓のそばで草を選っていたサレットが、そこで短くカイラを見た。
「あなた、甘やかしすぎ」
カイラは振り向きもしなかった。
「だから何?」
「だから、彼女が言うことを全部、考えるより先に叶えていたら、そのうち身体が本当に求めてることと、その瞬間の気まぐれの区別がつきにくくなる」
そこでようやく、カイラは振り向いた。
「サレット殿、我が敬愛する賢き最年長の御方」
彼女は、わざと大げさに、ほとんど儀式めいた荘重さで言った。
「このお方はいま妊娠中なの。ならば、望みはすべて叶えて然るべきでしょう?」
サレットは乾いたまま答えた。
「いいえ。あなたはまず、それが身体の必要なのか、その場で湧いた欲求なのかを見分けるべきなの。できないなら、それは庇護ではなく、声の大きい甘やかしよ」
「ひどい言い方」
「本当のことだから」
リラは、その時にはもう“しょっぱいジャム”を静かに食べていたが、そこで顔を上げた。
「一応、私ここにいるんだけど」
「ええ」
サレットは言った。
「だからこそ、あなたの前で言ってるの。いないところでじゃなく」
カイラが鼻を鳴らした。
「本当に手に負えない」
「あなたは、妊娠中の女を守る役に酔いすぎてるのよ」
カイラはそこで黙った。
負けたからではない。
図星だったからだ。
彼女は本当に、ほとんど危ういくらい真剣にリラを庇っていた。アヤノももちろん気を配っていた。だがそのやり方は、もっと平たく、もっと静かで、対象を保護領域へ入れるみたいなものだった。カイラは違う。彼女は全身と性格ごと使って庇う。重いものを取り上げる。椅子を引く。疲れを誰より先に見抜く。リラが「大丈夫」と言おうとする前に、もう「駄目」と言う。そして何より、それを少しも恥ずかしがらない。
「それ持つな」
彼女は言う。
「持てるよ」
「知ってる。でも持たない」
「どうして?」
「私がそう言ってるから」
「それ、理由になってない」
「もうあんたには充分理由よ」
それを聞いて、アヤノが時々、乾いた声で言う。
「前は、そういう言い方する相手は彼だけだった」
「成長したの」
とカイラは答える。
「私の専横は、いまや対象範囲を広げつつある」
その一方で、リラ自身の“わがまま”は、驚くほど柔らかかった。押しつけない。命令しない。ただ、ある瞬間、身体の中に奇妙な欲求がふいに立ち上がる。普通の世界なら変だと笑われるようなそれが、この家の中では、その時間帯の最優先事項になる。
しょっぱくて甘いものが食べたいこともある。
昨日まで好きだった焼いた肉の匂いが、今日はいきなり駄目になることもある。
温かいパンと冷たいミルクだけが“正しい朝”になることもある。しかも、ミルクは大きい杯では駄目で、小さい杯でなければいけない。
そして家の全員が、気づけばそれに付き合っている。気まぐれではなく、新しく発見された自然法則でも扱うみたいに。
一方その頃、ヴェイルは学校のことを考え続けていた。
あの見学のあとで、彼はすぐにはその話へ戻らなかった。だが、彼が本当に何かを自分の中で扱い始めた時は、いつもそうだ。最初に長く黙り、それから制度のほうを先に変える。
知らせは、ほとんど雑談の途中みたいに来た。
彼が家へ来たのは夕方近くで、部屋には温かいパンと、草を煮出した匂いと、何か少し酸味のあるもの――リラが急にそれを“いま最高にいい匂い”だと言い出したらしい――が混じっていた。カイラは火床の前で、肉と鍋に対して、どちらも自分を侮辱した相手であるかのように話しかけていた。アヤノは卓で本を読んでいた。サレットはちょうどその日の定例のような訪れの最中で、窓際に座り、皆を見ていた。部屋の外にいるようでいて、真ん中にもいる、あの顔で。
ヴェイルは中へ入るなり言った。
「生活の中での制御訓練を、男子にも入れた」
カイラは、ゆっくり顔を向けた。
「へえ。そういう重要なことを、挨拶より先に言うんだ」
「今は、そっちのほうが重要だと思った」
ヴェイルは答えた。
リラが杯から目を上げる。
「どうだった?」
「年長の魔術師たちは、“ただの技術上の追加”みたいな顔をしてる。男の子たちは、“正しく遊ぶことを許された”みたいな顔をしてる。教師は最初は渋ったが、子どもが前の退屈な教え方より明らかに早く反応するのを見て、渋り続けるのが難しくなった」
彼はそれを聞きながら、すぐに何が起きたのかを理解した。
ヴェイルは、単に発想を移したのではない。
基礎を揃えたのだ。
もし生活制御が女の子にだけ与えられれば、それはすぐに“女の魔法”とか“あちら側の枝”と見なされる。だが男子にも入れれば、もうそれは例外ではなく、共通の基礎になる。
賢い。
かなり賢い。
「これで、連中は違う手で育つ」
彼は言った。
ヴェイルはわずかに頷いた。
「そこが重要です。土台を片側だけ変えると、もう片側は一生それを“ чужое”として扱う。だが、始まりから共通なら、そうはなりにくい」
サレットが、珍しくまっすぐヴェイルを見た。
「あなた、男を並べ替えること以外もできるのね」
「自分でも時々驚きます」
ヴェイルは乾いたまま答えた。
カイラはすぐ鼻を鳴らす。
「ちがうわね。あんたは、女の子が何か役に立つことをやり始めたら、男にもそれをやらせないと男の自尊心が息苦しくなるって分かってるのよ」
ヴェイルは彼女を見た。
「残念ながら、それも事実です」
「そういうところ、嫌いじゃないのよね」
カイラは言った。
家の中ではそういうやり取りが続いていた。
だが、彼とエドランのあいだでは別の仕事が進んでいた。
人を割り出す仕事だ。
抽象的にではない。
家ごとに。
つながりごとに。
口で言うことと、裏でやることが違う人間を、具体的に。
学校が動き始め、少女の教育が現実になり始めてから、反発はずっと見えやすくなっていた。まだ一撃にはなっていない。まだ露骨な妨害でもない。だが、確実に進んでいる。根回し。足の引っ張り。教師の選定への介入。少女の振り分けへの口出し。新しい規則の解釈そのものを、旧来の価値観へ引き戻そうとする動き。ある者は恐怖から。ある者は家の傲慢さから。ある者は、自分の娘の未来を握る形が変わること自体が耐えられないから。
エドランは、いくつかの名を彼に見せた。
正式な名簿ではない。
観察を重ねたあとの、あの種類の紙だ。そこでは人は、身分や能力ではなく、“どの程度危険か”で並べられる。
「こいつらは価値がある」
エドランは言った。卓の上の紙を指で辿りながら。
「そこが面倒なんだ。愚か者でもない。無能な老いぼれでもない。ただの狂信者でもない。中には本当に自分の家を удерживает 者もいる。資源を知っている。人を縛れる。完全に失うのは、贅沢だ」
「だが、放ってもおけない」
彼は言った。
「そうだ」
エドランは窓辺へ歩いた。
「今のところは、まだ陰謀だ。掘り崩しだ。“少女を女の世界から早く引き離しすぎる”という囁きだ。“男の魔術師の地位が薄まる”という囁きだ。“国家が娘たちを何か分からないものに変えようとしている”という囁きだ。まだそこまでだ」
「だが、そこでは終わらない」
エドランは、楽しげではない笑いを浮かべた。
「終わらない。遅かれ早かれ、誰かが“そろそろ陰謀ではなく手を出す時だ”と決める。問題は、その前にこちらがどう動くかだ。切るのか、買うのか、折るのか」
彼は紙を見た。
名前はさまざまだった。老人。まだ力のある男。女も二人いた。女だから安全だと考えるには、賢すぎる。若い当主候補もいた。まだ重みは足りないが、毒のある野心だけは充分な者たちだ。
「話せる相手は?」
彼が訊く。
「一部とは可能だ」とエドランは答えた。「新しい秩序に参加したほうが得だと実感させれば動く者もいる。だが問題は、得ではなく“世界の正しさ”の話をしている連中だ。あれが一番嫌いだ」
彼は頷いた。
そうなのだ。
本当に危険なのは、ただ貪欲な者ではない。
貪欲な者は買える。縛れる。損得を計算させられる。
もっと厄介なのは、新しい秩序そのものを“世界への侮辱”だと感じている者たちだ。
そういう相手は、遅かれ早かれ、言葉では済まなくなる。
「ヴェイルはもう何人か見えてるか」
彼が訊くと、エドランは答えた。
「見えてる。しかも慎重にやってる。早すぎる打撃は、敵をこちらではなく、向こう側の“殉教者”にしてしまう。遅すぎる打撃は、連中に組織化する時間を与える。私が欲しいのは、そのあいだの瞬間だ」
彼は王を見ていた。こういう会話にはいつも同じ匂いがある。乾いた紙の匂い。窓の冷たさ。まだ決まっていない決断が、もう現実の重さだけは持ってしまっている、その匂いだ。
その一方で、家の中の時間は別の流れで動いていた。
ある日、そういう会話のあとで戻ってくると、リラは寝台の上に半ば埋もれるように座っていた。背中にも脇にも枕を当てられていて、その顔は、“本来ならあまり我がままに見えない人間が、かなり本気で何かを望んでいる時”の顔だった。
カイラは、その横で二つの杯を持って立っていた。
「説明して」
彼女は彼を見るなり言った。
「この人、酸っぱいミルクも欲しいし、熱い煎じも欲しいんだって。でも混ぜるのは違うし、“ひとつの感じ”でほしいんだって。生理現象って最悪」
リラは静かに彼を見た。
「それ、変に聞こえるのは、あなたが妊娠してないからだよ」
「神々に感謝する」とカイラ。「私までこうだったら、世界のほうが耐えられない」
ちょうどその場にいたサレットが、乾いた声で付け足した。
「世界は耐えるかもしれないけど、下働きは耐えないでしょうね」
それで、リラはとうとう本当に可笑しそうに笑った。口元を手で隠しながら。
そこでアヤノが、本から顔を上げて、完全に真顔のまま言った。
「先に酸っぱいほうを飲ませて、そのあと熱いほう。そのあいだにパンをひと切れ。たぶんそれが“ひとつの感じ”なんだと思う」
全員、そこで黙った。
カイラはゆっくりアヤノを見た。
「今の、天才なのか、それとももうこの家に染まりすぎてるのか、どっち?」
アヤノは少しだけ肩をすくめた。
「両方でも不思議じゃない」
それで、ちゃんと解決した。
当然のように。
リラはそのあと満足そうにパンを持ち、例の“ひとつの感じ”を得ていた。そしてその顔には、前からあった柔らかさの中へ、もう長いこと新しい強さが混じっている。
彼はそれを見ながら、二本の時間を同時に感じていた。ひとつは、重く、国家の側にある。名簿、疑念、影響線、誰を引き込めて誰を折らなければならないか、そういう計算に満ちた時間。もうひとつは、家の中の、温かくて、少し滑稽で、しかし本物の時間だ。しょっぱいジャムが最優先になったり、酸っぱいものと熱いものの順番が重大事になったりする、その時間。
そしてたぶん、後者があるからこそ、前者にも意味がある。
前者のすべては、結局のところ、後者が踏み潰されずに済むようにするための仕事なのだ。




