第十八章
彼が“もう外へ漏れた”と理解したのは、大事にはなっていない、むしろ小さすぎる一瞬からだった。
盆だった。
朝、湯と焼きたてのパンを運んできた若い下働きの男は、いつも通りの顔をしていた。こういう城で育った男によくある、見ていて何も見ていないふりが上手すぎる顔だ。だが、リラが、立ち上がるのを面倒がって、卓の端へ水差しをもう少し寄せてくれと頼んだ時、その男の視線がほんの一瞬だけ、彼女の顔ではなく、もっと下へ落ちた。
不躾と呼べるほど長くはない。
だが、見た。
そう分かるには充分だった。
何も言わない。
礼をして、出ていく。
その静かな数秒だけで、彼の内側はいやなふうに縮んだ。恐怖というより、この世界が相変わらず“重要なことを静かに知る”技術を持ちすぎていることへの反応だった。問いも、確認も、選択権もない。ただ、誰かが一度見て、別の誰かがそれを気配で受け取る。そうやって、“家の中だけのこと”は簡単に家の中だけでなくなる。
カイラも、それには当然気づいていた。
「ほらね」
扉が閉まったあと、彼女は言った。
「しかも気を遣って、“見てないふり”まできれいにやる。ほとんど親切。だから余計に嫌」
アヤノは火床の前で、匙と小さな刃物と香辛料の入った器を同時にゆっくり動かしていた。生活の中の制御は、もうそこそこ形になっている。彼女は振り向きもせずに言った。
「まだ確信まではしてないかもしれない」
カイラは、その言葉を聞いた顔でアヤノを見る。まるで、狼は状況によって犬に近づくこともある、とでも言われたみたいに。
「ええ、もちろん。リラが最近ちょっとゆっくり立つのも、ただ芸術的にやってるだけだしね」
リラは両手で杯を包んだまま、静かに言った。
「それでも、いつかはそうなる話だったよ」
「そうだな」と彼は答えた。「ただ、その“いつか”は、もう少し先であってほしかっただけだ」
そこで会話は一度終わった。
だが、感覚は残ったままだった。
だから、その日のうちにエドランから呼び出しが来た時には、彼はすでに分かっていた。話題がそれだけではないにせよ、そのことも含まれているのだろう、と。
王は、最近こういう時によく使う、あの狭い部屋で待っていた。細い窓。物の少ない卓。わざと“宮廷”を削ったような空間。そのぶん、楽な話がされる余地もない。
エドランは、まわりくどい入り方をしなかった。
「リラは身ごもっているな」
問いではない。
確認済みの事実としての言い方だった。
彼はすぐには座らなかった。
「誰が言った」
「誰も」
「なら、どうやって知った」
エドランは、ごく小さく肩を動かした。
「世界は、お前が望むほどには鈍くない。まず下働きの男が気づいた。言葉にしたわけではない。むしろ、気づかなかったふりを丁寧にやりすぎた。それから廊下で、年長の女が別の違和感を拾った。あとは、静かな知識の流れだ。私は噂そのものからではなく、“触れていいか分からない話題に、妙に視線を避ける人間たちの態度”から知った」
彼はゆっくり息を吐いた。
腹を立てる意味はなかった。エドランは何かを誇示しているのではなく、ただ現実を説明していた。
「それには触るな」
彼は言った。
「できれば、何もするな」
王は彼をまっすぐ見た。
「それは無理だ」
そこで、ようやく本当に内側が少し硬くなった。
「許可を求めてるわけじゃない」
彼は言った。
「手を出すなと言ってる」
「手を出すつもりはない」
エドランは平静に返した。
「だが、完全に無視することもできない。お前が嫌いだからでも、急に父親面をしたいからでもない。私の城の中に、お前に深く結びついた妊婦がいる。その事実に、統治者としてまったく反応しないのは、敬意ではなく鈍さだ」
彼は、そこでようやく座った。
納得したからではない。立ったままだと、このまま話が怒りへ流れやすいと分かったからだ。
「何をするつもりだ」
「したい、ではなく、する」
エドランは言った。
「年長の女を一人、そちらへ遣る。見張りではない。決めごとを押しつけるためでもない。お前たちが明らかに持っていない知識を渡すためだ。身体のこと。生活のこと。出産までの感覚のこと。男は、こういう話を知っていても、たいてい使いものにならない形でしか知らない」
彼は黙った。
エドランが続ける。
「サレット・イヴァルという。歳は取っている。賢い。経験は十分すぎるほどある。支えと支配を取り違えない程度には。そして、当然ながら、この世界の女たちの秩序の中で育ってきたから、お前たちを部分的に苛立たせるくらいには古い。だから、ちょうどいい」
「妙に正直だな」
彼が言うと、エドランは小さく答えた。
「今は、正直で損がない」
彼は顎へ手をやった。
ここで全面的に拒むことはできる。だが、その“拒み”が本当に境界を守るかといえば、おそらく逆だ。最初の訪れが、事前に定義された接触ではなく、“隠れて入り込んでくる圧”になるだけだ。
「来るなら」
彼は言った。
「リラに代わって何かを決める権利は持たせない」
「当然だ」
「誰がどこにいるべきかを命じる権利もだ」
「そうだ」
「少しでも、“昔からこうだから”の力でこちらを組み込みに来たら、終わりだ」
エドランは頷いた。
「それでいい」
少し置いてから、彼は付け足した。
「お前、本当に、自分の家に世界が触るのを嫌うな」
「お前、本当に、ひどく明らかなことを言うのが得意だな」
「役目だからな」
そこで彼は、ほんの少しだけ笑いそうになった。
ほんの少しだけ。
その時になって気づいた。少なくともこの点では、エドランは必要以上には踏み込んできていない。思いやりからではない。役に立てる範囲を理解しているからだ。つまり、今はまだ、完全な敵に回すより使ったほうがましだということでもある。
家へ戻って、サレット・イヴァルの話をすると、反応は予想通りで、しかもそれぞれ少しずつずれていた。
最初に口を開いたのはカイラだった。
「嫌」
リラは、もっと柔らかく言った。
「どうして?」
「“経験のある年長の女”って、たいてい“経験と一緒に、すごく古い厄介なものもたくさん抱えてる女”って意味だから」
アヤノは窓辺で本を持ったまま、視線だけ上げた。
「絶対そうとは限らない」
カイラはすぐそちらを見る。
「今日は、よりによって私とその話で戦うわけ?」
「戦ってない。まだ会ってもいない相手を、先に一種類に決めてないだけ」
彼は外套を壁へ掛け、それから言った。
「エドランは、“触るかどうか”ではなく、“どの形で触るか”の段階にいる。今のところ、話は年長の女が来て、実際の知識を渡すだけだ。見張るためでも、決めるためでもない」
カイラが鼻を鳴らす。
「“ただ知識を渡すだけ”。綺麗な言い方。で、その知識はきっと、偶然にも全部、“どうやってこの世界に従うか”と一緒に来るんでしょうね」
その時、リラが静かに彼を見た。
「でも、私が本当に知りたいこともあると思う」
それは、もっともだった。
正しすぎるくらいに。
彼は彼女のそばへ行き、腰を下ろした。
「なら、聞く」
彼は言った。
「身体のこと。感覚のこと。生活のこと。今後起こる変化。そういう“使えるもの”は全部。ただし、それがそのまま“どう生きるべきか”に変わるところでは止める」
リラは頷いた。
アヤノも言う。
「それが一番ましだと思う」
カイラは腕を組んだ。
「ほんと、こういう時に理屈が通るの嫌い。反論が面倒になるから」
「どうせするくせに」
アヤノが言う。
「もちろん」
サレット・イヴァルが来たのは、その翌日だった。
“感じがいい”という種類の女では、なかった。だが、悪いとも違う。背は高め。年を取っていて、背筋はもう完全には真っ直ぐではないが、真っ直ぐだった時間の長さを感じさせる。髪はきちんとまとめられ、顔には、長いあいだ女たちの身体と日々を見てきた人間特有の疲れと落ち着きが同居している。
彼がまず評価したのは、彼女が最初から大げさな優しさをまったく持ってこなかったことだ。
リラに対して“なんて幸せな”とか“祝福された”とか、そういう空疎なことを言わない。
彼に対しても、“父となる男”の重さを演じるような敬礼をしない。
まず、リラを見た。
それから言った。
「本当だったのね」
リラは卓についていた。掌は杯に添えられている。
「はい」
サレットは頷く。
「なら、世界の話じゃなく、まずあなたから始めましょう。何が変わった?」
カイラは、その時点ですでに、どこからこの女が本格的に自分を苛立たせ始めるかを見極めようとしている顔だった。
アヤノは、むしろ静かになった。こういう種類の女――この世界を骨の髄まで知っていながら、そこで得た知識を生身の生活の形で持っている女――の話は、彼女なりにきちんと聞く。
彼自身は、最初しばらく口を挟まなかった。
サレットの問い方は、“男の問い方”ではなかった。いつからか。確かめたのか。そういう方向ではなく、朝の気分はどうか。匂いはどうか。腰や背に違和感はあるか。立ち上がる時に軽い揺れはあるか。眠気と疲れの質は変わったか。空腹と吐き気の間隔はどうか。そういうことを、少しも演技せずに訊いていた。
そこまでは、かなりよかった。
もちろん、カイラがずっと黙っていたわけではない。
サレットが、話の途中で静かにこう言った時、
「これから数か月、身体のほうが先に日々のリズムを決める瞬間が増えるでしょうね」
カイラはすぐに口を挟んだ。
「へえ。うまい言い方。“受け入れろ”じゃなくて、“そうなる”って感じで言うんだ」
サレットは彼女を見た。
「他の言い方が良かった?」
「少なくとも、“世界が最初から正しくできてる”みたいな口調じゃないほうが好き」
老いた女は、少し考えてから言った。
「世界が正しいなんて、一度も言ってないわ。ただ、同意するかどうかとは無関係に起こることがある、と言ってるだけ。そこは別でしょう」
それで、彼にも少し見えた。
エドランがなぜ彼女を選んだのか。
従順な伝統の代弁者ではない。
だが伝統から自由でもない。
そのあいだにいる。身体そのものが要求することと、世界がそこへ被せる思想とを、最低限は分けて考えられる女だ。
リラはかなり真面目に聞いていた。
アヤノはそれ以上に。
カイラも、顔の表面は最後まで“まだ信用してない”のままだったが、実際にはずいぶん耳を傾けていた。とくに、サレットが早い段階の変化について、妙に正確に言い当てたあたりから。
「じゃあ、昨日は平気だった匂いが、今日いきなり無理でもおかしくないのね?」
リラが尋ねる。
「おかしくないわ」
サレットは答えた。
「それで自分を面倒だと思わなくていい」
カイラはそれに、小さく鼻を鳴らした。
「よし。完全に好きにはなれないけど、想定よりはずっとまし」
サレットは彼女に目を向けた。
「それは褒め言葉かしら」
「今のところはね」
サレットが来ることで、家の空気は少しだけ変わった。
劇的にではない。だが確実に。
彼女は知識だけでなく、この世界を長く生きた女の時間そのものを持ち込んでくる。時に役立ち、時に腹が立つ。
たとえば、ある時彼女が、ごく当たり前のように言ったのだ。
「そのうち、最初の数年を誰が近くで見るかは決めておいたほうがいいわ。子どもも、母親も、移行がなめらかになるから」
その瞬間、部屋の温度が一段下がった。
リラは声を荒げなかった。
だから、なおさら強く聞こえた。
「その決め方を必要とする段階には、まだならないと思う」
サレットは長く彼女を見た。
世間を知らない若い女を見る目ではない。
すでに、自分の世界と衝突する覚悟を持った女を見る目だった。
「分かったわ」
やがて彼女は言った。
「では、まだその話ではないのね」
そのあと、カイラは半日ほど妙に機嫌が良かった。まるで、リラがたった一言で古い慣習の喉元へ刃を差し込んだのを目撃でもしたように。
「見た?」
彼女は台所で、三つの物――匙、林檎、包丁――を同時に動かしながら、彼に言った。
「“まだそうはならないと思う”。ああいうの好き。すごく好き」
「聞いた」
彼は答えた。
「聞いたんじゃなくて、私は音楽を聞いたの」
アヤノは、そのそばで五つの物を静かに動かしていた。もうほとんど安定している。
「一言に感情を乗せすぎ」
彼女は乾いた声で言った。
「そうよ」
カイラは答えた。
「だから今すごく機嫌がいいの」
その頃、タレン・ヴェイルは、本当に少しずつ権力の中へ入っていっていた。
急激にではない。
そこがかえって印象的だった。
彼は、新しい首席として自分を“事件”にするやり方を選ばない。いきなり大改革の顔をもしない。大きな演説もない。だが、動きはある。しかも、かなり賢い。だから余計に、旧来の連中には嫌らしいのだろう。
まず、内部資料へのアクセスを整理した。
次に、若い魔術師の評価軸を少し変えた。
それから、血筋のせいで“ほとんど触れられない有望株”として甘やかされていた数人を、実務の計算や現場の仕事へ下ろした。
そうした一つひとつと並んで、彼とヴェイルの会話も少しずつ変わっていった。
親しさとは、まだ言えない。
早すぎる。
だが、かなり正直にはなってきていた。
ある夕方、ヴェイルは短い用件を持って、彼の通り部屋まで来た。新しい内部の選別表を、少しだけ見てほしいと言う。わざわざ執務の場ではなく、こちらへ足を運んできたこと自体が、ひとつの合図だった。今、この家もまた“実際の話が通る場所”として認め始めているという合図だ。
カイラが扉を開けた時、すぐに眉を上げた。
「へえ。首席魔術師が自分の足で来た。これはいい兆候? それとも最悪の兆候?」
ヴェイルは、その言い方にもまったく崩れなかった。
「皆さんが私をどれだけ嫌っているか次第です」
「まだ保留」
カイラは言う。
「でも紙を持ってきてる時点で、だいぶ不利」
リラは静かに笑い、卓の上のパン籠を少し脇へ寄せて場所を空けた。
アヤノは、ただヴェイルを見た。最近、権力の構造の中にいる男たちへ向けるようになったあの目で。穏やかだが、余計な信頼はない。
話は、最初は紙から始まった。
だが、すぐに紙ではなくなった。
「オスタンは、最初の一人という意味で最初だったわけじゃない」
ある時ヴェイルが言った。
「最初に“やった”という意味で最初だった。それが一番悪い」
「分かってる」
彼は言った。
「いや、違う」
ヴェイルは首を少し振った。
「あなたは、“殺されかけた側”として分かってる。私は、“今もなお、彼に内心で少しだけ近い男たちを毎日見てる側”として分かってる」
それは、少し重かった。
彼は椅子の背に体を預けた。
「どれくらい悪い」
「今すぐ破裂するほどじゃない」
ヴェイルは言った。
「でも、あれはある。静かな侮辱の層が。しかもああいうものは、あっという間に“原理”の言葉に着替える。前は理屈としてそう思っていた。今は、毎日それを見てる」
それまで火床のところで、聞いていないふりをしていたカイラが、とうとう口を挟んだ。
「男たちが、自分の特別さは神意じゃなくて制度でしたって気づかされかけてるんだから、そりゃ苦しいでしょうよ」
ヴェイルは彼女を見た。
そして、傷ついた男の自尊心を演じたりしなかった。
「ええ」
彼は言った。
「その通りです」
その瞬間、カイラの中で彼の好感度が、ほんのわずかだけ上がった。
家の中では、そのあいだに、すべてがさらにリラのまわりへ寄り始めていた。
権力の中心としてではない。
重さの中心として。
それはサレットも見ていた。ある日、帰り際に彼を呼び止め、他の三人には聞こえないくらいの声で言った。
「あの子を、ずいぶん世界から庇おうとしてるのね」
「そうだ」
彼が答えると、サレットは頷いた。
「それでいいわ」
彼は、少しだけ目を細めた。
「だが?」
老いた女は目だけでわずかに笑った。
「でも、世界はどうせ入ってくる。あなたが選ばなきゃいけないのは、“入ってこないようにすること”じゃなくて、“どの扉から入れるか”よ」
その言い方は、ひどくこの土地の女らしくて、少し腹立たしかった。
だが、間違ってはいなかった。
彼がそのまま台所へ戻ると、カイラはまた林檎に悪態をついていた。思った場所へ三度連続で入らなかったらしい。アヤノは五つの物をほとんど乱れなく動かしていた。リラは、二人を聞きながら、どの瞬間に“もうそのへんで”と静かに言えば止まるかを、すでに分かっている顔をしていた。
その光景を見て、彼はまた思った。ここは、世界から逃げるための場所ではなくなりつつある。世界が入ってくること自体は、もう止められない。だからこそ、その入り方を、ここで噛み砕きなおして、自分たちの形へ直す場所になっているのだと。




