3.わたしの名前は
「マリア! しっかりして!」
目を開けると、知らない女性が叫んでいた。
ぼんやりとした視界の端に、石造りの教会の窓と、そこに反射した光が映った。粗い麻布の匂いと、遠くで燃える薪の煙の香りが鼻をかすめた。どうやら、ここは倉庫の外のようだ。
身体を必要以上にゆする女性は、目に涙を溜めていた。
深い彫りの顔、金色の髪、灰色の目、東ヨーロッパの民族衣装のような服装を着ていた。子会社の職員ではなさそうだ。
その女性は「マリア、良かった」と繰り返した。
馬車が行きかう通りには、木造の家が立ち並んでいた。
女性はマリアと呼んだ。着ていたのは、目の前の女性と似た服だった。手も足も、教会の窓に映った顔も、いつもの見慣れたものではなかった。
つまり、これは遥の身体ではない。異世界転生……というものだろうか? 情報を収集するため、記憶喪失を装うことにした。
「あの、ここはどこですか?」
首をすくめると、女性は「マリア、どうしたの?」と引きつった笑みを浮かべた。
「記憶がはっきりしなくて……思い出せないのです」
「そうなのね。何でも聞いてちょうだい」
女性は目に涙を溜めて、何度も頷いた。きっと、この身体の持ち主と親しい関係なのだろう。
「まず、わたしの名前は?」
女性は質問に答えた。この身体の名前はマリア・ベッカー。目の前にいる女性はマリアの母親。ここはヘルマン王国の王都らしい。
通りに馬車が走っているから、文明は遥がいた世界よりも遅れている。石造りの城壁が遠くに見え、その向こうには尖塔がそびえていた。空は淡い水色で羊雲がゆっくりと流れていた。
とにかく、もとの世界に戻れるかはわからない。しばらくは、マリアとして生きていくしかなさそうだ。
**
石畳の道の両側に、煉瓦造りの店が軒を連ねていた。通行人が行き交い、荷車を引く商人の声や鶏の鳴き声が入り混じっていた。
炭火で焼かれる串肉から立ちのぼる煙、香ばしい匂いが漂ってきた。匂いに誘われて視線を向けると、丈の長い外套を纏った若い男が串肉の露店の前に立っていた。
露店の貼り紙には、「串肉一本・銅貨三枚」と書いてあった。見たことのない字だったけれど、なぜだか読めた。きっと、この身体が文字の読み方を覚えていたのだろう。
「串肉三本で銀貨一枚におまけします。お得ですよ」
露店の店主は男性客に話しかけた。日に焼けた店主の顔には、深いしわが刻まれていた。母に尋ねると、銀貨一枚は銅貨十枚と等価であるらしい。
「あの、銀貨一枚は高くありませんか?」
マリアが話しかけると、「お嬢ちゃん、冗談だろ?」と店主は笑い飛ばした。
「串肉一本が銅貨三枚なら、串肉三本は銅貨九枚です。銀貨一枚は銅貨十枚なので、銅貨一枚分割高ですよね?」
マリアが首をすくめると、店主は目を丸くした。客の男は二人のやり取りを嬉しそうに見ていた。
「じゃあ、串肉三本。銀貨一枚で支払うから、お釣りをください」
男は露天の主人から銅貨一枚と串肉三本を受け取った。
「これをお礼に」
男は串肉二本をマリアと母に差し出した。串肉から立ちのぼる湯気を夕陽が橙色に染めていた。
「いえ、そんなつもりでは」断ろうとしたのだが、串肉をほうばる母を見て、マリアはため息をついた。
しかたない。やけくそで串肉にかぶりついた。味は鶏肉に似ていた。辛さと酸味のバランスが絶妙だ。肉に少し癖があったけれど、病みつきになる味だった。
「これは何の肉ですか?」
「サラマンダーだよ」
男は串肉を口に入れながら、頬をゆるめた。
サラマンダー――ファンタジー世界に登場するトカゲの一種だ。空を飛べたような気もするし、飛べなかったような気もする。火は吹けただろうか?
遥の暮らしていた世界では、サラマンダーは屋台で売られていない。やはり、ここは異世界だ。
夕刻の鐘が鳴った。通りの向こうでは商店が店じまいを始めていた。




