2.転生前
三月には珍しく温かい日だった。夏のような強い陽射しが降り注ぎ、ガラス張りの高層ビルの外壁に反射していた。
フロアに響くキーボードの音、電話の呼び出し音。決算特有の慌ただしい景色だった。
大手商社の経理部に勤務していた湊本遥は、先輩の須藤から「子会社の貯蔵倉庫での実地棚卸に立ち会ってほしい」と頼まれた。監査法人の立会に同行するためだ。
子会社を所管する食品カンパニーの担当者に出張が入ったため、急遽、経理部がフォローすることになったのだ。
遥はその日、グループ会社と決算の打合せをする予定だった。
棚卸資産の評価方法、固定資産の減価償却方法のすり合わせ。連結パッケージの作成の留意事項。内部取引を消去するための債権・債務、売上・仕入の集計方法。外貨換算のための為替レートの指定。やることは山積みだった。
デスクには付箋を貼ったファイルが積み上がり、モニターには子会社数社の試算表が表示されていた。もし、実地棚卸で作業が遅れれば、決算スケジュールが遅れてしまう。にも関わらず、決算開示日は延期できない。要は、連日残業して終わらせろ、ということだ。
決算は駅伝である――遥が前の上司から聞いた言葉だ。ゴールを目指す経理部は全員が連帯責任、リタイアは許されない。
「無理ですよ。今期の決算作業が大変なのは、須藤さんもご存じですよね?」
「わかるよ。わかるけど……だいじょーブイ」
須藤はじっと遥を見つめた。
前の上司に「おやじギャグは場の雰囲気を和ませる」と教えられた須藤は、それを忠実に実行している。
すっとした切長な目、シャープな輪郭の須藤は、黙っていればイケメンなのに……残念である。
今期の決算作業が昨年度よりも大変であることは、もちろん須藤も認識しているはずだ。先月買収した海外子会社が異なる会計方針を採用しており、連結財務諸表の作成時に大幅な修正が必要になるからだ。
とはいえ、監査法人に同行するのも経理部の重要な業務である。監査法人が実地棚卸を立会できなければ、監査が終わらない。
「君にしか頼めないんだよ。そういえば、先週、表参道に新しいスイーツのお店ができたよね。対応してくれたら、行列に並んでスイーツを買ってくる。それでどうかな?」
須藤は苦笑いした。
遥が頼まれると断れない性格であることを、須藤は熟知していた。そして、甘いものに目がないことも。
遥は長いため息をついた。
ふと視線を移すと、応接スペースの観葉植物の葉が空調の風で揺れていた。そこだけ時間がゆっくりと流れていた。
「はいはい。わかりました」
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茨城県にある世界最大級の掘込式人工港の周囲にめぐらされた工業集積地。貯蔵倉庫はその一角にあった。無機質なコンクリートの外壁を抜けると、巨大な倉庫が並んでいた。空はどんよりと曇り、湿った風が潮の匂いを運んできた。
遥は監査法人の担当者に同行して、貯蔵倉庫で実地棚卸の立会をしていた。倉庫の中は巨大な迷路のようだった。天井近くまで積み上げられた金属製のコンテナ棚が、薄暗い蛍光灯の光でぼやけて見えた。フォークリフトの低いエンジン音、荷下ろし場の作業員の声が倉庫内に響いていた。
立会が終盤に差し掛かったころ、下から突き上げるような衝撃があった。地震だった。
頭上の照明が激しく揺れた。コンテナ同士がぶつかり合う金属音が響いた。埃が舞い上がり、視界がかすんだ。
倉庫の外に避難しようと身を屈めて進んでいたら、須藤が走ってくるのが見えた。
「危ない!」
須藤の指さす方向には、余震でぐらぐらと揺れる棚があった。棚からコンテナが落ちてきた。
遥は棚から離れてコンテナの落下を避けようとした。けれど、間に合わなかった。衝撃とともに視界が暗くなった。遠くで誰かが遥を叫ぶ声が聞こえた。
遥の意識はそこで途絶えた。




