1.国民の敵
王都を柔らかな秋の陽射しが照らしていた。三階にある経理部の執務室の窓から、黄金色の麦畑とその奥の森が見渡せた。涼しい風が窓から入ってきた。
そんなゆったりとした景色とは裏腹に、経理部の空気はぎすぎすしていた。
「だから、却下です!」
マリア・ベッカーは小さくため息をついて、基盤整備部からの申請書を机の上に置いた。
申請書にはびっしりと几帳面な文字が書かれていた。しかし、数字の裏付けがひとつもなかった。インクの匂いが新しく、慌てて書き上げたことがうかがえた。
向かいの男が机を拳で叩くと、積み上げていた書類の山が揺れ、埃が光に照らされてきらきらと舞い上がった。
「却下だと? 俺が誰か分かっているのか?」
「知っています。基盤整備部課長のゴードン・ファウスト様です。ここに書いてあります」
マリアは申請書の担当者欄を指差した。羽根ペンの先が、乾いた紙の上で音を立てた。
「課長で貴族の俺が申請しているのだから、承認するのが筋だろう。違うか?」
ゴードンはファウスト子爵家の次男。平民のマリアに申請を却下されるのが気に入らない。ゴードンの上着には銀糸で刺繍された子爵家の紋章が、窓から差す西日を受けて光っていた。
それに、マリアは経理部の主任、課長のゴードンよりも職位が下である。それもゴードンの怒りを助長していた。
「ここでは身分は関係ありません。わたしには予算の決裁権があります。ヘルマン王国に必要な投資以外は承認しません。いつも申し上げているように、この公共工事をすることで、いくらの経済効果があるのですか? 税収がいくら増えるのですか?」
農村を流れる川に橋を架ける公共工事の予算申請だった。マリアは緩やかに蛇行する川とそこに広がる牧草地を思い浮かべた。夏には草を食べる山羊が集まり、冬には雪が積もるのどかな集落だ。橋があってもなくても、交易に支障はない。それに、橋を架けることの経済効果が全く説明されていなかった。そんな予算申請を承認するわけにはいかない。
「国民の生活が便利になるではないか? これこそ、ヘルマン王国に必要な投資ではないのか?」
国民の生活が便利になる――結構なことだ。しかし、弱小国家のヘルマン王国には、常に隣国の影がちらついている。国境の境界補修費用、城壁の修繕費などがかさむ中で、無駄な公共工事をする余裕はない。
「ヘルマン王国は豊かな国ではありません。だから、優先順位が必要です。経済効果が大きい場所へ優先的に予算配分しないといけないのです。経済効果が量れない申請書を持ってこられても、承認できないのは分かりますよね?」
ゴードンが持ってきたのはファウスト子爵領内の公共工事の申請である。国家予算を使って自領を発展させる、そんな利益相反行為を許してはならない。それも、マリアが却下した理由であった。
マリアが書類をゴードンに返却すると鐘がなった。業務の終了を告げる合図だ。
外の広場から商人の呼び声が響いてきた。仕事帰りの人に何かを売っているのだろう。そんな穏やかな喧騒とは対照的に、執務室の中には沈黙が張り詰めていた。
「本日の業務は終了しました。何かあれば、明日お越しください」
「くそっ」
乱暴に経理部の扉を開けると、ゴードンは執務室から出ていった。壁に貼られた紙が、扉の風圧で揺れた。
廊下に反響する足音が遠ざかり、ぎぎぎと扉が閉まる音が響いた。
恨まれるのには慣れていた。この世界にきてから、ずっとだ。
執務室の窓から、マリアは眼下に広がる王都の街並みを眺めた。石造りの家の屋根が、夕陽を受けて赤褐色に輝いていた。目にする景色は美しい。なのに、心は冷え切っていた。
高圧的な態度に出る者、煽てて承認してもらおうとする者、賄賂を渡そうとする者。この世界の貴族、役人は、あの手この手でマリアを懐柔しようとした。
予算申請を却下する度に、罵声を浴びせられた。
「ケチ」、「血が通っていない」と陰口を叩かれ、マリアを「国民の敵」と言う者までいた。酷い扱いである。
マリアは長いため息をついた。
この世界では誰一人まともに予算申請書を作成できない。それが問題だった。
窓から吹いてきた風が机上の書類をめくった。教会の鐘の音が執務室に響いた。




