10.また厄介な仕事を押し付けられる
ブラット商事を出たら、表通りに人影はなく、街灯代わりの篝火が等間隔に燃えていた。すっかり夜が更けていたので、マリアは自宅まで馬車で送ってもらった。
クリスはパオロたちの処分を考えていなかった。国軍に石炭の代金を支払わせることで、本件を終わりにするようだ。国軍への代金未回収を除けばブラット商事の業績は良好だった。このまま存続させても問題ない、とクリスは判断した。
静まり返った夜の街に車輪の音が響いた。夜警の詰所から漏れる灯りが、馬車の窓から見えた。
「それにしても、予期しない展開だったね。君が黙っている間に、パオロが白状してくれて助かった。僕なら、気まずくてペラペラと話してしまいそうだけど」
向かいに座るクリスは目を輝かせていた。ブラット商事でのやり取りを思い出して興奮しているのか、疲れも眠気も忘れて嬉しそうだった。
「沈黙は金。話すよりも、状況に応じて黙っていることが得策なのです」
マリアが首をすくめると、「雄弁は銀だね。知っているよ」とクリスは口元をゆるめた。この世界にも同じことわざがあるのだろうか?
馬車の外の夜景を眺めていたら、別の疑問が浮かんだ。
「そういえば、パオロが殿下と言ってましたね。何の殿下なんですか?」
マリアは目を細めた。
内務省の職員はクリスを敬う姿勢を見せていた。ただの経理部長に対する姿勢ではなかった。きっと、クリスは特別な地位にある人物なのだろう。
「僕の名前は知っているよね?」
「もちろん。クリストファー・ヘルマンです」
「この国の名前は?」
「ヘルマン王国です」
「ということは?」
車輪の音がやけに大きく響いた。
マリアは長いため息をついた。クリスは王族だ。クリスが気に食わなければ、マリアは不敬罪で投獄される。厄介だ。かなり厄介だ。となると、マリアのするべきことは一つ。
「わたし辞めます。内務省を辞めます!」
クリスは目を大きく見開いた。
「いや……急にそんなことを言われても。ヘルマン王国には君が必要なんだ」
「失言したら、私を投獄しますよね?」
馬車の室内灯に照らされたクリスの顔には、驚きと焦りが入り混じっていた。
言いたいことは言えばいい、不敬罪には問わない。待遇に不満があれば言ってほしい、改善する。クリスの説得は、馬車がマリアの自宅に着いても続いた。
「そういえば、タルトタタンに似たスイーツがあるんだ。差入するよ」
タルトタタンはこの世界にもあるのか……甘いものを出されると断れない。前世でもそうだった。マリアは長いため息をついた。
「わかりました。もう少し続けてみます」
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こうして、マリアは内務省の経理部主任として働いている。内務省に主計部はあったけれど、経理部はなかった。マリアのためにクリスが新設した部署だ。
遠くの鐘の音が一日の始まりを告げた。執務室の机には、山積みの稟議書が置かれていた。
「今日は午後からリュシェール林業だったよね?」
扉が開くと、目を輝かせたクリスが入ってきた。ヘルマン王国の不正をただすため、クリスは今日もどこかに乗り込む。実に楽しそうである。
廊下から差し込む光が、クリスの髪をきらきらと輝かせた。
「よっこい……しょういち」
聞き覚えのあるおやじギャグを言いながら、クリスは書類の入った鞄を持ちあげた。
きっと、中身はあの人だ。マリアは頬をゆるめた。
穏やかな朝の空気の中、慌ただしい一日が始まろうとしていた。
―了―




