第五話 霧を指す針(2)
視界は一瞬で白く染まった。
伸ばした自分の手さえ、指先が霞んでいる。
誰かが出口を求めて叫んだ。
だが、声は近くで反響したかと思えば、不自然に遠ざかる。別の方角から聞こえた悲鳴と重なり、どこに人がいるのか判別できない。
霧の中では、音も方角も当てにならない。
「リオ、動くな」
隣へ手を伸ばすと、すぐに白い服の袖へ触れた。
まだ席を離れていない。
「僕はここだよ」
「あの箱だ。箱の宝石を壊す」
「見えないけど?」
「場所は覚えている。舞台右の階段を二段上がった先、右へ三歩」
「そこまで行くにしても、人が多いね」
座席の間へ、逃げようとする客達が押し寄せていた。
誰かが椅子へ躓き、別の誰かがその上へ倒れる。
出口へ向かう流れはすぐに崩れ、互いに押し合うだけの塊へ変わっていく。
「俺が近くまで行く。お前はここで待て」
「武器は預けてるよ」
「必要ない」
オルドは座席の背へ手を添え、通路へ出た。
舞台までは真っ直ぐ進めばいい。
だが一歩も進まないうちに、正面から人がぶつかってきた。
「出口はこっちか!?」
「向こうです。壁沿いに左へ進んでください」
肩を掴み、正しい方向へ向ける。
その間にも横から別の客が押し寄せた。
オルドは椅子を跨いで前へ進もうとしたが、結局は舞台側から逃げてくる人の流れに押し戻された。
これでは箱へ辿り着く前に、誰かが踏み潰される。
オルドは舌打ちし、来た方向へ戻った。
座席の背を辿り、手を伸ばす。
指先がリオの肩へ触れた。
「戻ってきたの?」
「無理だ、進めない。何かあるか?」
「ある」
金属が展開する微かな音がした。
リオは競売場へ入る際、武器を預けている。
だが、見たことのない何かを中指に嵌めていた。
遠目には太い銀の指輪のように見える。表面を指でなぞると細い弦が現れた。
「それは何だ」
「指先で撃つ小型弓。武器じゃなくて、おかしな指輪として通ったよ」
「また下らないものを」
「今は役に立つだろ?」
「矢は?」
「ないよ、そんなもの」
オルドの眉間に皺が寄る。
リオは小言が飛ぶ前に硬貨を一枚取り出し、細い弦に掛けた。
「座席の背へ上がれ。舞台上なら射線は人の頭より高い」
リオが椅子へ足を掛ける。
重心は床に立っている時と変わらないくらい安定していた。
「もし狙いを外したら、いくらくらい?」
「箱と周囲の落札品を合わせて、最悪六万レルは超える」
「撃つ直前にする話じゃなかったな」
「外すな」
「簡単に言うね」
弦を引く小さな音が、すぐ近くで聞こえる。
霧の向こうで、青い光が強く瞬いた。
箱に嵌められている宝石と同じ色だった。
位置は記憶とずれていない。
「見えた」
「今の光だ。青い石だけを撃て」
何かを弾く音がした。
銀の硬貨が白い霧へ消える。
一拍遅れて、硬い物が砕ける甲高い音が響いた。
青い光が消える。
箱から溢れていた霧が止まり、競売場を満たしていた白さがゆっくりと薄れ始めた。
「当たった?」
「ああ」
「六万レルは無事?」
「恐らくな」
「良かった。今の僕には払えないからね」
「俺も払う気はない」
周囲の輪郭が戻り始める。
倒れた椅子。床へ座り込む客。壁際で互いに支え合う係員。
舞台脇の黒い箱は蓋を開いたまま沈黙し、宝石だけが綺麗に失われていた。
その中で、一人だけ出口とは逆へ動く影があった。
灰色の口髭を蓄えた、収集家の男だった。
男は舞台上の展示台へ近づき、方位魔道具を上着の内側へ滑り込ませる。
オルドは座席の背を足場にして、観客の頭上を駆けた。
まだ薄く残る霧の中を、人の向きに逆らって進む。
着地した舞台の上には、その男以外誰もいなかった。
「それを戻してください」
オルドに肩を掴まれ、男が振り返った。
驚いた顔は一瞬で歪み、握っていた杖から小さな刃物を抜く。
「近寄るな!」
横薙ぎに振られた刃を、オルドは半歩下がって避けた。刃の先が前髪を掠めた。
二度目が来る前に間合いへ入り、男の手首を掴む。
そのまま腕を捻ると、刃物が床へ落ちた。
男が空いた手で殴り掛かる。
オルドは身を沈めて拳を躱し、体勢を崩した男の脚を払い、床へ倒す。
背中へ膝を押し当て、両腕を後ろでまとめた。
「離せ! これは私が落札するはずだった物だ!」
「落札は成立していません。成立していたとしても、支払う前に懐へ入れれば窃盗です」
「たかが二万五千も払えない男が、私に説教するな!」
「説教ではありません」
オルドは男の腕をさらに捻った。
「ただ、事実を説明しています」
ようやく駆けつけた係員達が、収集家を取り押さえた。
男の懐から方位魔道具が回収される。
舞台の反対側では、いつの間にか追い掛けてきたリオが壊れた宝石を覗き込んでいた。
「本当に宝石だけ壊れてる。僕、上手いね」
「自分で言うな」
「君も武器なしで取り押さえたんだろ? お互い、上手くやった方だよね」
「ああ」
結局、競売は中断された。
起動した箱は係員によって隔離され、残された客達には一人ずつ事情の確認が行われた。
やがて、競売場の支配人が二人の前へやってきた。
「お二人のおかげで、大きな被害を出さずに済みました。破損したのも、箱の外側にあった宝石だけです」
「弁償は必要ですか」
オルドが尋ねる。
「とんでもない。むしろ謝礼をお支払いします」
「現金でお願いします」
「迷いがないね」
リオが横から口を挟む。
「もちろん謝礼も用意します。そのうえで、先ほどの方位魔道具をお二人へ一万二千レルでお譲りしたいのですが、いかがでしょう」
収集家が付けた金額の半分以下だった。
オルドは即座に答えた。
「一万レル」
「あ、はじまった」
リオが小さく呟く。
「危険な古代魔道具に対する管理が不足していました。あれを壊さなければ、今もここは霧の中です」
責めるでもなく、淡々と、事実だけを連ねる。
「あの騒ぎで、人が死んでいてもおかしくなかった」
支配人はしばらく黙り、やがて少し困ったように笑った。
「……分かりました。一万一千レル。それ以下には出来ません」
「買いましょう」
オルドは方位魔道具を受け取った。
隣でリオが財布を開き、中を確認する。
「僕の分、五千五百レルだよね」
「そうだ」
「三千五百しかない」
オルドは無言でリオを見た。
仕事をするために必要な道具は、必要経費として半分ずつ払う決まりだった。
リオは財布を閉じ、笑う。
「貸してくれる?」
「次の取り分から差し引く」
「利息は?」
「付けてもいいのか?」
「なしでお願いします」
競売場を出た後、オルドは方位魔道具を掌へ載せた。
だが、銀色の針は本来指すべき北ではなく、東寄りの方角を指している。
「あれ、壊れてる?」
リオが覗き込む。
オルドはそのまま通りを南へ、そして一度角を曲がり西へと歩いた。
進むにつれ、針の向きが僅かにずれていく。
「北を示しているわけではない。だが、決まった方角でもない。どこか、一つの場所を指している」
器具を裏返す。
針の根元で脈打つ白い光は、先日破壊した霧核の内部を巡っていた光とよく似ていた。
「これ、霧核の反応とよく似てる」
「当たりと呼ぶべきか」
針の先は、晴域の外に広がる東の霧の向こうを指している。
どれほど遠くにあるのかは分からない。
その先に何があるのかも、まだ誰も知らない。
一万一千レルの価値があるかどうかは、断言出来なかった。
「また旅になりそうだね」
「一万一千レルを回収する必要がある」
「僕の借金もね」
「当然だ」
リオは方位魔道具の針を見つめ、楽しそうに笑った。
「何を指してるんだろうね」
オルドは小さな針が指し示す方向へと目を向けた。
「金になる場所だ」
「最高」
二人はその足で、ギルドへ向かった。
未知の領域へ踏み込むための申請と、次の旅に必要な物資を揃えるために。
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