第五話 霧の中の夜
晴域を出て、四日目の夕方だった。
もっとも、霧の中では夕方という感覚も曖昧になる。空を見上げても白い靄が重く垂れ込め、太陽の位置は分からない。
薄暗くなった気はするが、それが日暮れのせいなのか、単に霧が濃くなっただけなのかも判別できなかった。
オルドは、ベルトに結んだ細い縄を一度引いた。
リオがいるはずの後方から、同じように一度だけ引き返される。問題無し、の合図だ。
振り返っても、ぼやけた人影しか見えない距離だった。霧は視界を奪うだけではない。
音を吸い、匂いを散らし、皮膚で感じる距離まで狂わせる。足元で石が転がっても遠く聞こえ、逆に遠くの唸り声が耳元から響いたように感じることもある。
幾度となく霧の中へ入ってきたが、今でも慣れることはなかった。
少し前には、自分の足音が突然聞こえなくなった。靴底が地面へ触れている感触はあるのに、音だけが消えたのだ。代わりに左側から、誰かが並んで歩くような足音が続いた。
オルドはそちらを見なかった。
霧の中では、見えないものを確かめようとする行為そのものが危険になる。足元から意識を逸らせば、すぐに穴や崖へ踏み込む。聞こえた音を追えば、いつの間にか進路を外れる。
腰の縄を引けば、リオがすぐに返した。
それで十分だった。
オルドは足元の傾斜と、左手の岩壁を確かめながら進んだ。現代の方位魔道具は、晴域を離れて半日も経たずに役目を失っている。一方で競売場で購入した古代の方位魔道具は、迷わず一つの方向だけを指し続けた。
少なくとも、深い霧へ入った途端に役目を失うような物ではなさそうだった。
縄が二度引かれた。
停止の合図だ。
オルドが足を止めると、数秒後に追い付いたリオの手が背に触れた。
「何かいる」
すぐ背後で、リオはそう言った。
霧の中で声を張り上げると、不要なものを引きつける。正しい方向から聞こえているとも限らない。
だが、手の届く位置でなら聞き間違えることはない。
何も見えない霧の先に目を凝らすと、少し遅れてどこからか地面を踏む音が微かに聞こえた。
オルドは胸元へ手を伸ばした。
銀色のネクタイピンを外し、指先で起動する。
小さな金属片が淡い光を帯び、瞬く間に細長く展開した。伸びた柄を掴むと、銀の長槍が霧を切って現れる。
背後でも、金属が擦れ合う音がした。
リオが腕へ巻いていた細い留め具を外し、新しく買った弓を展開したらしい。
「それは撃てるのか」
「買った後で三回は試したよ」
「三回しか試していないのか」
「前の銃よりは信用出来るだろ?」
否定は出来なかった。
オルドは槍を低く構え、リオと背中を合わせるように立った。
音は一度途切れた。
静まり返った霧の中で、自分達の呼吸だけが妙に近く聞こえる。
やがて、右手から砂利を踏む音がした。
オルドが槍先を向ける。
次の瞬間には、同じ音が左後方から聞こえた。
「移動してる?」
「分からない」
音そのものが狂っているのか、相手が素早く動いているのか、霧の中では判断出来ない。
遠くから聞こえたはずの足音が、突然耳元へ近づく。かと思えば、すぐに霧の奥へ引いていった。
視界は役に立たない。
匂いも湿った土と霧の匂いに散らされている。
頼れるものは聴覚しかなかったが、それさえ正しい情報を寄越すとは限らない。
一方で、霧の中に棲む魔物にとっては違う。
濃霧の中で獲物を狩る魔物は、音や匂いを頼りに生きている。
人間には混乱しかもたらさない環境でも、奴らは獲物の位置を正確に把握する。
「近い」
リオが小声で告げる。
勘ならオルドよりもリオの方が鋭い。その声を疑う必要はなかった。
「どこだ」
「分からない。でも、見られている気がする」
霧の奥で、低い唸り声が響いた。
穂先を向けた白い霧の中を、黒い影が一瞬だけ横切る。
狼に似た四足の魔物だった。
前脚に比べて後ろ脚が異様に太く、関節が大きく盛り上がっている。
地面へ伏せるように身を沈めたかと思うと、影は再び霧へ消えた。
「あの脚、跳ぶぞ」
「さすがにこの霧の濃さじゃ見えないな」
リオは弓へ矢を番えたが、狙いを定められるほど魔物は姿を見せない。
本来なら、リオは距離を取って射線を確保する。
だが今は、数歩離れれば互いの姿を完全に見失う。腰を繋いだ縄も、急に引かれれば足を取られかねない。
近距離に入り込まれれば、弓は不利だった。
魔物もそれを理解しているのか、聞こえてくる足音はリオの側へ偏っていた。
足音が背後から聞こえる。
続いて右。今度は遥か前方。
だが、縄を通して伝わるリオの動きは落ち着いていた。
「オルド」
「何だ」
「僕が呼ぶ」
返事を待たず、リオが大きく一歩離れた。互いの背中に大きな隙が出来る。
リオの靴底が、地面の砂利を強く擦る。
ざり、と乾いた音が響いた。
続けてもう一度。今度は足を踏み鳴らし、より大きな音を立てた。
魔物の唸り声が途切れる。
リオが三度目の音を鳴らした。
直後、左後方で地面が爆ぜた。
発達した後ろ脚が地面を蹴り、魔物が一息に距離を詰めた。
霧を突き破る黒い影が、リオの死角から高く跳び上がる。
「伏せろ」
リオが振り返るより先に身を沈める。
その頭上を越えてきた魔物へ、オルドは槍を突き出した。
穂先が胸元を捉える。
だが勢いは殺し切れなかった。魔物の身体が槍の柄へ激突し、オルドの靴底が地面を滑る。
牙が目の前で鳴り、獣の唾液が散った。
オルドは柄を両手で押し上げ、喉元へ食い込ませる。
魔物は前脚で槍を掻き、身体を捻って逃れようとした。
「今だ」
リオが後ろへ下がった。
縄が張る寸前で足を止め、弓を引く。
魔物はオルドへ噛みつこうと頭を振り続けている。
狙えるのは一瞬だった。
放たれた矢が霧を裂き、魔物の右目へ突き刺さった。
魔物が甲高い声を上げて仰け反る。
槍へ掛かっていた力が緩んだ。
オルドは一歩踏み込み、穂先を胸の奥へ押し込んだ。
硬い骨へ触れた感触の後、刃がさらに深く沈む。
魔物の四肢が激しく震えた。
やがて力を失い、濡れた地面へ倒れ込む。
オルドはすぐには槍を抜かなかった。
動かなくなったことを念入りに確かめて、ようやく穂先を引き抜く。
霧の中に、再び静けさが戻った。
「一匹だけかな」
リオは次の矢を番えたまま、手の届く距離で周囲へ耳を澄ませている。
「今のところはな」
「新しい弓、ちゃんと当たっただろ?」
「まだ、この近距離でだけだ」
「素直に褒めればいいのに」
オルドは魔物の死骸から視線を上げた。
白い霧の向こうでは、何も動いていない。
「進むぞ」
その声に返答はなかった。
リオは霧の向こうに視線を向けていた。
「何だろう」
小さな呟き。そしてリオは瞼を落とす。
数秒の間の後、再び瞼を開いてリオは霧の向こうを指差した。
「風が吹いてる」
*
風を辿った先は細い洞窟だった。
人一人分の幅の道を抜けた先で、少し大きな空洞が広がる。
壁に空いた割れ目から風が吹き、霧を押し返していた。
「今日はここで野宿だな」
オルドは荷物を下ろすと、乾いた枝と着火道具を取り出した。
洞窟の中央へ小さく薪を組み、手早く火を起こす。
その間に、リオは弓を手にしたまま空洞の外周を一周した。
壁の割れ目はどれも狭く、風が通るだけで、魔物が入り込めそうな隙間はない。
「奥にも何もなかったよ。今夜は静かに眠れそうだね」
「お前は騒がしい場所でも眠れるだろ」
「まあね」
二人は焚き火の前へ座り、携帯食料と干し肉だけの簡単な食事を取った。
温めた湯を飲み終える頃には、外の霧はさらに暗さを増していた。
「先に寝ろ」
オルドが槍を傍らへ置き、洞窟の入口へ視線を向ける。
「分かった。交代の時間になったら起こして」
「ああ」
「そう言って、朝が近くなるまで起こさないことあるでしょ」
「ない」
「都合のいい記憶だね」
リオはそう笑って外套を敷き、壁際へ横になった。
ほどなくして、静かな寝息が聞こえ始める。
オルドは焚き火へ小枝を一本足した。
割れ目を抜ける風の音に混じり、洞窟の外から遠い獣の声が聞こえたが、近付いてくる気配はない。
定めた時間を過ぎた頃、オルドはリオの肩を軽く蹴った。
「交代だ」
「起こし方に優しさがないね」
「起きたなら問題ない」
眠そうに目を擦りながらも、リオはすぐに身体を起こした。
弓を手元へ置き、入口側へ座る。
「おやすみ、オルド」
「ああ」
オルドは眼鏡を外して、手を伸ばさなくても届く距離に置いた。
焚き火の向こうにぼやけたリオの姿を確認してから、静かに目を閉じた。
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