第四話 眼鏡のほう
「朝だよ、オルド」
リオが呼びかけても、寝台の上から返事はなかった。
窓の外では既に通りを行き交う荷車の音が響いている。宿の一階にある食堂から漂っていた焼きたてのパンの匂いも、とうに薄くなっていた。
リオは着替えを済ませ、髪まで整えている。
一方のオルドは、毛布を頭まで被ったまま、起きる気配すら見せなかった。
「もう朝食の時間が終わるよ」
「……」
「今日から宿代が倍になるらしいよ」
毛布が僅かに動いた。
「何だと」
低く掠れた声が返ってくる。
オルドはゆっくりと毛布から顔を出した。寝癖のついた黒髪があちこちへ跳ねている。
双眸を細めているのは、寝起きだからなのか、眼鏡を掛けていないからなのか分からない。
「嘘だよ」
リオが笑うと、オルドはほぼ見えていない目で睨んだ。
「失せろ」
「また寝るの?」
「うるさい」
再び毛布へ顔を埋める。
リオは窓辺へ歩き、閉じられていたカーテンを一気に開いた。
差し込んだ朝日が寝台を容赦なく照らす。
オルドが眉間へ深い皺を寄せた。
「閉めろ」
「朝っていうより、もう昼に近いよ」
「俺が起きるまでは朝だ」
「君以外はそう思ってないよ、多分」
オルドは眩しそうに目を細めながら、枕元へ手を伸ばした。
緩慢に動く指が何度か布団の上を探るが、眼鏡は見つからない。
リオはその指より少し上に置かれている眼鏡へと手を伸ばした。
「眼鏡に触るな」
眠そうな声が、すかさずいつもの制止を掛ける。
「見えてないのに、よく分かったね」
「お前が余計なことをしようとする気配は分かる」
リオの指は眼鏡ではなく、代わりにオルドの手首を掴み、力なく垂れる指先を眼鏡へと導いた。
「ほら、こっちだよ」
「……触るな」
オルドは不機嫌そうに眼鏡を掛けるなり、真っ先にリオを睨んだ。
鋭い視線に怯むこともなく、いつもの笑みを浮かべている。
いつ外に出ても恥ずかしくない、きっちりと整えられた姿がそこにあった。
「朝から顔を見る相手を選ばせろ」
「僕より見栄えのいい相手は、なかなかいないよ?」
「自分で言うな」
*
宿の一階にある食堂を兼ねた酒場へと二人が降りた頃には、朝食の時間はほとんど終わっていた。
店内には昼前から酒を飲んでいる客と、遅い食事を取る旅人が数人残っている。
オルドは窓から最も遠い席を選び、湯気の立つスープへ口をつけた。
寝起きの機嫌はまだ直っていない。だが、それも毎朝のことだった。
向かいに座るリオは、少しも気にしていない様子で給仕の女性へ笑顔を向けながら、追加のパンを頼んでいた。
「今日は随分遅いんですね」
「相棒が朝に弱くてね」
「余計なことを言うな」
「でも本当だろ?」
給仕の女性が笑顔で立ち去る。
オルドはスープへ視線を戻した。
「お前一人で先に食べればいい」
「一人じゃつまらないよ」
「起こされずに済むなら、俺は助かる」
「君は素直じゃないね」
リオは笑いながらパンを千切った。
その時、少し離れた席から小さな囁き声が聞こえた。
若い女性が三人、時折こちらを見ながら何かを話している。
リオはすぐに気付き、さりげなく姿勢を正した。
「ねえ、僕達の話をしてるみたいだよ」
「放っておけ」
「どっちが好みかって話してる」
「興味がない」
「僕はあるよ」
リオがその女性達へと微笑みかけると、向こうの席が俄かに騒がしくなった。
「やっぱり銀髪の人じゃない?」
「顔が綺麗だよね」
「でも私、眼鏡のほうが好きかも」
最後の声だけは、思ったよりもはっきり聞こえた。
リオは向かいのオルドへ顔を向ける。
「だってさ。良かったね」
オルドは、指先で静かにテーブルを叩いた。
それが機嫌の悪い時に出る癖の一つだと、リオは知っている。
「今、俺を眼鏡のほうと呼んだか?」
「そっちが気になるの?」
「当然だろう」
「好かれてることは気にならない?」
「それが利益になるか?」
「夢がないね」
女性達の一人が、小さく手を振った。
リオも笑顔で振り返す。盛り上がった女性の一人がリオを手招いた。
組んでいた脚を下ろし、リオは椅子から腰を浮かせる。
「僕、呼ばれてるみたい」
「行くな」
すぐに引き止めたオルドの声に、リオが少し意外そうに目を瞬いた。
「珍しいね。寂しいの?」
「会計を置いていけ」
「あ、そっちか」
リオは自分の食事代を机へ置き、女性達の席へ向かった。
それから間もなく、先ほど「眼鏡のほうが好き」と言っていた女性が、一人でオルドの向かいの席へやってきた。
「あの、向かいに座ってもいいですか?」
「どうぞ」
断る理由もなかったため、オルドは淡々と答えた。スプーンを音も立てずに置く。
女性は少し緊張した様子で椅子へ腰を下ろす。
「お二人は冒険者なんですか?」
「そうです」
「いつも一緒に旅を?」
「ええ」
「組んでから長いんですか?」
「それなりに」
「……」
「……」
会話はすぐに途切れた。
オルドは目も合わせずにテーブルの下で足を組む。
女性は困ったように笑い、少し離れた席のリオへと視線を向けた。
リオも残った二人の女性と楽しそうに話しながら、こちらの様子をしっかり見ていた。
「彼、寝起きだから」
椅子の背もたれに肘を乗せて、助け舟を出すように言う。
「普段はもう少し愛想がないよ」
「今よりないんですか?」
「そうだよ」
「聞こえているぞ」
オルドの声に、女性達が笑った。
しばらくすると、オルドの向かいにいた女性もリオの席へ戻っていった。
一人になったオルドは、ようやく静かになった食卓で残りのスープを飲み干した。
*
酒場を出て間もなく、後ろから軽い足音が近づいてきた。
「待ってよ、オルド」
振り返らなくても、誰なのかは分かっている。
リオは意気投合した女性と、街に消えることが度々あった。
どちらかといえば、こうして追ってくる方が珍しいことだった。
「今日は戻らないのかと思った」
「魅力的なお誘いはあったけどね。君を一人にすると、夕食まで寝てそうだから」
「余計な心配だ」
「ねえ、面白い話を聞いたよ」
リオが一枚の紙を差し出す。
街の商業区にある競売場の招待状だった。
三日後、古代遺跡から発掘された魔道具を集めた競売が開かれるらしい。
「さっきの女性のが競売場で働いてるんだって。一般の冒険者は入れないんだけど……」
オルドは足を止め、招待状を受け取った。
「これがあれば、同伴者を一人連れて入れるらしいよ」
「出品物は?」
「目玉は、霧の中でも動く……かもしれない方位魔道具」
「本当なら価値がある」
「でしょ?」
「開始時刻は」
「三日後の正午」
「資金を用意する」
オルドは招待状を丁寧にコートの内側へしまった。
「たまには使えるな」
「僕が?」
「お前の顔が」
「もう少し僕自身を評価してくれてもいいんじゃない?」
「顔もお前の一部だろう」
リオは一瞬だけ黙った後、楽しそうに笑った。
「それ、褒めてる?」
「ただの事実だ」
*
翌朝。
まだ部屋が薄暗いうちに目を覚まして身支度を終えたリオは、隣の寝台へ顔を向けた。
オルドは昨日と同じように、毛布を頭まで被って眠っている。
リオは少し考え、口元へ笑みを浮かべ、毛布に顔を寄せて囁いた。
「朝だよ、眼鏡のほう」
返事の代わりに、枕が飛んできた。
「殺すぞ」
寝起きとは思えないほど正確に顔へ当たった枕を受け止め、リオは声を上げて笑った。
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