69 喪失の恐怖
キリフは、ユリアさんの元に行ってしまった。
それはつまり……
私とレグは二人きりになるということで……
どうしよう。
普通に……
いや、恋を楽しむって決めたんだから。
その時──
「デボラ、まだ赤いからちゃんと冷そう」
そう言って、慌てたようにレグスタインが机に置いていた冷やした布を再び額に当てに来る。
「いや、冷たいし、もう大丈夫だし、何かあったらヒール使うから……」
「ダメダメ、顔なんだからね」
そういうと、私のベッド横に腰掛けて、額に再びその布を当てる。
真横にいるという近さに、ドキンとぎゅっと締め付けられる感の凝縮されたものが、胸を駆け巡る。
それなのに、顔が近くに……と思った瞬間、冷えた布の端でちょうど視界も遮り、レグの顔が見えなくなる。
せっかくそばにいるので、それががっかりしたような、ほっとしたような気持ちになり、私は、その分しっかり鼻でレグの香りを補給しようとくんくんした。
「ん?ああ、まだ風呂に入ってないんだ。臭いか?」
レグスタインは、私が鼻を鳴らす音をさせるから、自分が臭くて私が鼻を動かしていると感じたらしい、
「そ、そうじゃないの。なんだか……レグの匂いがして、仲間の元に戻ってきた気がしてうれしかったの」
嘘です。
これがレグの香りかぁ……
好きな人の香りを楽しむ。
なんとかこの匂いを閉じ込める方法はないかと、何度も嗅いで記憶に留めようとしてました。
あれ?でも、魔法が使えない人は、匂いを閉じ込められないわ。どうやって恋を楽しむんだろう?
みんなができないということは、これは一般的な恋の楽しみ方じゃないわ
私は焦り始める。
私はこの時代の普通の恋を楽しみたいのよ。
「レ、レグ……その教えて欲しいの。300年後の男女はどうやって恋を楽しむかなんだけど……」
その瞬間、冷たい布が私の膝にパサっと落ちる。そして、目の前10センチの距離感に、レグスタインが……
ち、近い……
瞬間、レグスタインがパッと離れて、「ごめん、落とした」と言いながら、私の膝に落ちた布を拾う。
「こ、恋って突然どうしたの?」
レグがどう返答しようか困っているように、とても焦っているわ。
そうよね。今までそんな話もないのに……
ええと……ええと……
「み、ミレイの絵を見て、300年前に思い合っていた二人は、自分の好きな場所で自分の好きな人の絵を描いたり、そのモデルになっていたから、今の時代はどんな風に恋を楽しんでいるのか……そう思って……」
無理があったかしら?
私は、恐る恐るレグスタインの様子を見ると、なぜだかホッとしたような顔で、息をついていた。
「なんだ、びっくりした。突然言い出すから誰か気になる人でもいるのかと思った」
そう言われて、背中がこわばり、汗がたらりと流れる。
やっぱりおかしかったわ!
無理があったわ!
私は焦り始める。
だが──
レグスタインは少し迷ったように考えて、私を見て答えた。
「俺だったら、好きな人と一緒にいたら、触れ合いたいと思うんじゃないかな。だから、外にいても手を繋いだり、好きな人と少し密着したいと思うかもしれない。例えばこんなふうにね」
レグスタインは、そういって私の頬や耳、首筋に触れる。
びくっとして、同時にとてもくすぐったい、まだ触れてほしい感覚に陥る。
だって、体温が伝わって、手の剣だこの硬い部分が、魔女には無い感覚で、これは触れてもらわないと気づかないことだもの。
ああ、瞬間魔法で静止させてしまおうかしら?
そう考えそうになったが、レグのその表情が真剣に見えて、ダメダメ、普通は静止させないからいいのよ。と、胸のドキドキが音を立てて行く。
例えば……の話なのに、息が止まりそうなほど、レグのその目に吸い込まれそう。
「あと、好きな人の好きなものを共有するかな。デボラは好きな食べ物はある?」
もう、ぼんやりし始めているのに、再びレグスタインの声に我に返る。
「好きな……ま、魔鳥の焼き鳥は美味しいと思うわ……レ、レグは何が好き?」
突然の質問、私は何が好き?
何も?
何も考えられない。
好きなもの?
食べられるものなら何でもいい!
そう言わなくてよかった。
だって、この間、アレンに作った焼き鳥は上手くいったから、もし、あれをレグと美味しいって食べられたら……
私は、頭の中で冷静に魔鳥を捌く工程を想像する。
そして、落胆する。
きっと、世の中の人は魔法が使えないんだから魔鳥をさばかない気がするわ……
「……俺は……同じものと言いたいけど魔鳥は食べたことが無いな。そうか、じゃあ好きな人に作る前に、今度、俺に作ってよ。俺は、デボラが前に食べられなかったケーキを準備する。実は甘いものが好きなんだ」
「甘いものが好き……準備じゃなくて……いつか一緒に食べに行きたい」
あのキラキラしたケーキとキラキラした女性たちを前に怯んでしまったけど、もし恋を楽しむなら今度はレグが買ってくれた服を着て、レグと一緒に並びたい。
そんな想像をすると楽しくなる。
これが──恋なんだ。
ほわーっと暖かい気持ちが流れ始める。
「あとは?触れたり、一緒に好きなものを食べたり……何するの?」
そういって他にはどんなことがあるのかと聞く私を見て、少しレグスタインは考える時間を置いた後、私の頬に触れていた手を頭に乗せて再び撫でた。
「そう話していると、触れるのも好きなものを食べるのも、意外と全部、300年前に思い合っていた人たちと一緒かもしれないよ。」
「一緒?」
「好きな景色を一緒に楽しみ、お互いの好きなことを一緒に楽しむ。そうすると、その景色や事柄は、好きな人がいるだけで2倍楽しめる」
「300年前と一緒……だからミレイとマルコスは大好きな景色で、マルコスの好きな絵を自由に描いて好きな時間を共有したのね……」
マルコスは皇帝のお抱えで、処刑の絵を描かなければならなかった。
きっと、楽しそうなミレイを、魔女を描くなんて禁じられる行為だったんじゃないかしら?
マルコスは、もしかしたらミレイを裏切っていたかもしれないけど、ミレイが好きだった。
そう思えると、その行く末を知っても、片想いじゃなくて良かったと思える。
だけど……それを、レグが他の人とするのかと思うと……
一気に苦しくなるわ。
それを考えちゃダメなのね。
キリフは楽しめって言ったんだから。
ぐっとその気持ちを抑えようとすると、泣き出したくなる。
今まですごい楽しくて幸せな気持ちだったのに。
「レグ……好きな人と……いつかは、それ、するの?触れ合ったり、一緒に美味しいもの食べたり、ええと……好きな景色見て、相手の好きなことをして……」
聞いちゃいけない。
ここで抑えておかないと……
幸せな気持ちで終わらない。
それどころか、今まで好きだった人ともそんな日々を送っていたのねと、わけがわからない感情が、湧き上がって……
はっ!
自分の中の魔力が沸騰し、血液が逆流しそうになる。
「レグ!離れて!おかしい。魔力がおかしい!」
息をして……ゆっくり……
魔力が弾けて、コントロールできなくなりそう……
この感覚は、捕えられたという師匠を探すために、荒れ果てた集落を彷徨った時の感覚に似ている。
「ぐはっ……」
息が苦しい。
でも息を吐いたら、間違えて魔法が暴発しそうで怖い。
300年前のあの日のことが脳裏に浮かぶ。
ミレイと左右に分かれ、箒で森に落下してしまった後のことだ。
師匠が捕まった
師匠はどこに?
身体中から、コントロールできない不安と怒りが湧き上がった。
箒で飛ぼうとしても、まっすぐ飛べない。
師匠の力と年齢から考えると、処刑なら、ダンジョンに放り込まれているのではないかと、残った魔女たちから聞いて、力が抜けてしまったのだ。
あの感覚……
行かないで、師匠──
行かないで、レグ!!
「デボラ……何が起きた?ゆっくり、ゆっくり息を吸って。アレンとグレンを呼ぼうか?」
レグの声が聞こえる。
違う。
これは私の心の問題だ。
私は首を横に振った。
私は怖い。
愛する人が私の前から去ることが……
レグが私のそばにいなくなることが……
師匠みたいにいつかいなくなることが……
そして、優しい言葉も、その触れる手も違う人のところに行くことに私は恐怖を感じている。
恐怖を感じたら……
私は魔力がコントロール出来なくなる。
喪失の恐怖だ。
急激に、温かく触れた部分が、氷のように冷たく感じ、私はその温もりを逃したくなくてレグに追い縋る。
「レグ……行っちゃやだ!お願いだから!どこにも行かないで!」
私は、必死にレグスタインにしがみつく。
お願いだから、好きな人のところに行かないで!
私のそばにいて!
だって、私はいろんな人を失った。
仲間も……
師匠も……
人だけじゃない。
集落も……
文字だって……
使っていた素材すら違う
初めての恋した人も消えて行く。
「いるよ。しっかり呼吸して。魔力がおかしいのは初めて?気分が悪いかい?横になる?」
レグスタインが、私のベッドの布団を剥いで、私を横たわらせようとするので、私はレグにしがみつく。
「お願い……落ち着くから、絶対。離れたら嫌。そばにいて。抱きしめて!お願い。他に行ったら嫌」
行かないで!
お願い、好きな人のところに行かないで!
「大丈夫。ここにいるよ。俺がここにいるのは見える?ここにいるでしょ」
レグが私の手を取り自分の顔を触れさせながら、ぎゅっと抱きしめて背中をさすり続ける。
レグの香りが再び香ってきて、急激に安心感が生まれる。
「レグ!レグ!行かないで」
「行かないよ。しっかり呼吸して。」
再び、香りと同時に触れ合っている体温が自分にうつり、安堵感で体から力が抜けていく。
楽しむはずだったのに……
恋は苦しい。
自分の魔力の糸を掴み上げ、何とかコントロール出来そうなところで、ほっと力が抜ける。
遠くで、キリフの声が聞こえる。
「うおっ!すまん!邪魔だったか!」
「邪魔じゃない!デボラが大変なんだ」
レグとキリフの声が遠くで響く。
キリフが帰ってきたら、もうレグは離れてしまう。
だから私は、もう一度レグのシャツにしがみついた。




