第九話 その人のこと
放課後。
綾乃とすずは、美術室で文化祭用のポスターを描いていた。
「綾乃、これ見て」
「ん?」
すずが紙を差し出す。
「タイトル、こっちのほうがいいと思う?」
綾乃は少し考える。
「うん。今のほうがまとまってる」
「やっぱり?」
「うん」
「じゃあ、これでいこう」
すずは満足そうに頷いた。
そのとき。
「ねえ、綾乃」
「何?」
「これ、恵斗先輩に聞こう」
「え?」
「ちょっとだけ手伝ってほしい」
「何を?」
「ポスターの配置」
「自分で決めればいいじゃん」
「決めたけど、先輩ならちゃんと見てくれるでしょ」
「……まあ」
すずはもうスマホを取り出していた。
「送るね」
「今から?」
「うん」
綾乃が止める間もなく、すずはメッセージを打つ。
『先輩、今日美術室来れます?』
しばらくして。
『何かあった?』
『ポスター見てほしい』
『俺でいいの?』
『先輩ならいいでしょ』
綾乃が画面を覗き込む。
「すず、強い……」
「だって先輩だし」
「そういう問題?」
「そういう問題」
それから少しして。
『分かった。あとで行く』
「ほら」
「本当に来るんだ……」
「でしょ?」
すずは満足そうにスマホをしまった。
*
しばらくして。
美術室の扉が開いた。
「お疲れ」
「あ、先輩」
「来たよ」
「ありがとうございます」
恵斗が入ってくる。
「どれ?」
「これ」
すずがポスターを見せる。
「タイトルの位置、どっちがいいと思います?」
「どっちでもいいんじゃない?」
「ちゃんと見てください」
「見てるって」
恵斗は紙を覗き込む。
「……こっち」
「やっぱり?」
「うん。上のほうが見やすい」
「じゃあ、そうします」
すずはあっさり頷いた。
「ありがとうございます」
「これだけ?」
「これだけ」
「わざわざ呼んだのかよ」
「先輩なら来てくれると思ったので」
「……まあ、いいけど」
恵斗は苦笑した。
その様子を見て、綾乃も笑う。
「先輩、すずには弱いですね」
「別に弱くない」
「でも来てくれましたよ」
「……」
「ほら」
「綾乃まで言うな」
三人で笑った。
そのとき。
美術室の扉が、もう一度開いた。
「お疲れさま」
「あ」
綾乃が振り返る。
「森本先輩」
環だった。
「何してるの?」
「文化祭のポスターです」
すずが答える。
「恵斗先輩に見てもらってたんです」
「そうなんだ」
環がポスターを見る。
「ちょっと見てもいい?」
「もちろん」
すずが紙を広げる。
環が恵斗の隣に立った。
「ここ?」
「うん」
恵斗が指を差す。
「タイトル、上のほうが見やすいと思う」
「私もそう思った」
環が頷く。
すずが少し驚いた顔をした。
「じゃあ、こっちで決まりですね」
「うん」
綾乃も紙を覗き込む。
「でも、ここにもう少し余白があったほうがいいかも」
「どこ?」
環が聞く。
「この辺です」
綾乃が指を差す。
「確かに」
恵斗も頷いた。
「じゃあ、少しずらす?」
「そうですね」
環が鉛筆を手に取る。
「このくらい?」
「うん」
「どう?」
「いいと思います」
すずが答える。
「綾乃は?」
「私もいいと思います」
「じゃあ、これでいこう」
すずが笑った。
恵斗と環。
二人が同じ紙を見ながら話している。
それは、本当に何気ない光景だった。
けれど。
綾乃には、少しだけ新鮮に見えた。
恵斗が環と話している。
環も、恵斗と自然に話している。
どちらも、特別なことをしているわけではない。
ただ。
ちゃんと会話をしている。
「……」
綾乃は、二人の様子を見ながら少し笑った。
よかった。
先輩、ちゃんと話せてる。
*
ポスターの修正を終えると、環が少し離れたところに置いてあった絵を見た。
「これ、牧さんが描いたの?」
「はい」
「上手だね」
「え?」
「色の組み合わせ、好き」
「ありがとうございます」
綾乃は少し照れた。
「森本先輩も絵、上手ですよね」
「そう?」
「はい。前に見たことあります」
「ありがとう」
環が笑う。
その笑顔は、思っていたよりずっと柔らかかった。
綾乃は少しだけ意外に思った。
廊下ですれ違うときは、もっと近寄りがたい人だと思っていた。
黒髪が長くて、落ち着いていて。
大人っぽく見える。
けれど。
こうして話してみると、普通に笑うし、普通に話す。
「牧さんって、いつも美術室にいるよね」
「はい」
「絵、好きなんだ?」
「好きです」
「そっか」
環は少し考えるようにポスターを見る。
「文化祭、楽しみだね」
「はい」
「今年で最後だから」
「……あ」
綾乃は少しだけ黙った。
「そうですよね。三年生は最後なんですよね」
「うん」
「寂しくないですか?」
「ちょっとだけ」
環が笑った。
「でも、まだ終わってないから」
「そうですね」
綾乃も笑う。
「じゃあ、いいポスターにしないとですね」
「うん」
環は頷いた。
「楽しみにしてる」
「頑張ります」
*
しばらくして。
環が鞄を持ち上げた。
「じゃあ、私そろそろ帰るね」
「はい」
「また明日」
「お疲れさまです」
「お疲れ」
恵斗も声をかける。
環が美術室を出ていく。
扉が閉まる。
綾乃は、その背中を見送った。
「……」
「どうした?」
恵斗が言った。
「いえ」
「何?」
「森本先輩って、思ってたより話しやすい人だなって」
「そう?」
「はい」
綾乃は少し笑う。
「もっとクールな人かと思ってました」
「まあ、普段はそんな感じだな」
「でも、優しかったです」
「うん」
恵斗が小さく頷く。
その表情を見て。
綾乃は思った。
やっぱり。
先輩は森本先輩のことが好きなんだ。
その人のことを話すときだけ。
ほんの少しだけ、表情が柔らかくなる。
綾乃はそれを見て、なぜか嬉しくなった。
*
帰る準備をしながら、すずが口を開いた。
「今日、先輩来てもらってよかったね」
「うん」
「ポスターも決まったし」
「そうだね」
「森本先輩も一緒に見てくれたし」
「うん」
綾乃は鞄に画材をしまう。
「森本先輩って、いい人だった」
「そう?」
「うん」
「ふーん」
すずが綾乃を見る。
「何?」
「別に」
「またそれ」
「何でもない」
「絶対何かある」
「ないって」
すずは笑った。
「帰ろ」
「うん」
二人で美術室を出る。
綾乃は廊下を歩きながら、さっきのことを思い出していた。
恵斗と環が並んでポスターを見ていたこと。
二人で同じ案を考えていたこと。
環が笑っていたこと。
そして。
恵斗が、少し嬉しそうにしていたこと。
全部、何気ないことだった。
でも。
綾乃の中には、いつもより強く残っていた。
恵斗の好きな人。
森本環。
名前だけしか知らなかった人を。
今日、少しだけ知ることができた。
綾乃は、それを嬉しいと思った。
それ以上の意味はない。
少なくとも。
今は、そう思っていた。
*
その夜。
綾乃はベッドに横になりながら、今日のことを思い返していた。
環と話したこと。
恵斗と環が一緒にポスターを見ていたこと。
「……いい人だったな」
小さく呟く。
恵斗が好きになるのも分かる。
そう思う。
そして。
自分もいつか、あんなふうに誰かを好きになるのだろうか。
ふと、そんなことを考えた。
けれど。
誰の顔も浮かばなかった。
「……」
綾乃は少し笑った。
まだ、自分には恋愛なんて遠い話だ。
今は。
先輩の恋を応援していればいい。
そう思って、目を閉じた。
けれど。
今日知った「その人」のことが。
なぜか、いつまでも頭の片隅に残っていた。




