第八話 知らないところで、少しずつ
翌週の月曜日。
朝から雨が降っていた。
窓の外は薄暗く、校庭には水たまりができている。
「最悪」
綾乃は教室の窓から外を眺めながら呟いた。
「何が?」
隣の席から声がする。
「体育」
「ああ」
優太だった。
「今日、外?」
「たぶん」
「雨なのに?」
「だから嫌なの」
綾乃は机の上に置いた体育の教科書を見る。
「先生、雨でもやるって言ってた」
「何やるの?」
「持久走」
「うわ」
優太が露骨に嫌そうな顔をした。
「それは俺も嫌だ」
「陸上部なのに?」
「陸上部だから嫌なんだよ」
「どういう理屈?」
「部活で走ってるのに、授業でも走るのは損した気分になる」
「贅沢」
「牧には分からないよ」
「分からない」
二人で笑う。
こういうくだらない会話をするのは、最近ではすっかり当たり前になっていた。
*
昼休み。
雨はまだ降っていた。
綾乃が弁当を食べていると、優太がいつものように机を寄せてきた。
「牧」
「何?」
「今日、購買行く?」
「行かない」
「即答」
「お弁当あるから」
「そりゃそうか」
「何買うの?」
「パン」
「また?」
「また」
「昨日もパンだったじゃん」
「昨日は焼きそばパン」
「今日は?」
「メロンパン」
「甘いもの好きだったっけ?」
「好き」
「知らなかった」
綾乃が笑う。
優太も笑った。
「じゃあ、五時間目終わったら購買行けば?」
「何で?」
「メロンパンなくなるから」
「そこまでして食べたいわけじゃない」
「じゃあ何で聞いたの」
「牧が聞くから」
「私のせい?」
「そう」
「理不尽」
二人で笑った。
それだけの昼休みだった。
*
放課後。
雨は少し弱くなっていた。
今日は美術部も陸上部も休みだった。
綾乃は帰宅するため、昇降口へ向かった。
靴を履き替えようとしていると。
「綾乃」
聞き慣れた声がした。
振り返る。
「恵斗先輩」
恵斗が立っていた。
「今帰り?」
「はい」
「そうなんだ」
恵斗は少しだけ迷うように綾乃を見る。
「ちょっといい?」
「はい」
二人は昇降口の端へ移動した。
「この前話してたことなんだけど」
「森本先輩のことですか?」
「うん」
恵斗は頷いた。
「昨日、少し話せた」
「本当ですか?」
「うん」
「よかったじゃないですか」
「まあ」
「どんな感じでした?」
「普通に話しただけ」
「でも、大きな一歩ですよ」
「そうかな」
「そうですよ」
綾乃は笑った。
「先輩、ちゃんと話せたんですね」
「まあな」
「よかったです」
恵斗も少し笑う。
「これからも、少しずつ話せたらと思ってる」
「はい」
「急に何かするつもりはないけど」
「そのほうがいいと思います」
「だよな」
恵斗は少し安心したように息を吐いた。
「じゃあ、俺もう行く」
「はい」
「また明日」
「はい。お疲れさまです」
恵斗が昇降口を出ようとした、そのとき。
「あ」
後ろから声がした。
二人が振り返る。
優太だった。
「牧」
「松寺くん?」
「まだ帰ってなかったんだ」
「うん」
優太は綾乃の隣にいる恵斗を見る。
少しだけ間を置いて。
「……こんにちは」
軽く会釈する。
「こんにちは」
恵斗も会釈を返した。
一瞬だけ。
お互いの目が合う。
それだけだった。
「じゃあ、また明日」
恵斗が綾乃に言う。
「はい」
恵斗はそのまま昇降口を出ていった。
綾乃はその背中を見送る。
優太も、少しだけその後ろ姿を見ていた。
「今の人」
「うん?」
「誰?」
「美術部の先輩」
「そっか」
「何で?」
「いや、誰か待ってるのかと思った」
「待ってないよ」
「ならよかった」
「何で?」
優太は少しだけ笑った。
「一緒に帰れるかなって」
「え?」
「駅まで」
綾乃は少し驚いた。
けれど。
「いいよ」
「じゃ、行こう」
「うん」
二人で昇降口を出る。
雨はまだ少し残っていた。
「傘ある?」
「ある」
「よかった」
「松寺くんは?」
「折り畳み」
「準備いいね」
「朝、天気悪かったから」
「私も持ってきた」
「じゃあ安心だな」
「何が?」
「帰れる」
「当たり前でしょ」
「まあそうだけど」
二人で笑った。
少し歩いたところで、優太が口を開く。
「そういえば」
「ん?」
「さっきの先輩、何ていう人?」
「海藤先輩」
「海藤先輩」
「うん」
「へえ」
優太はそれ以上聞かなかった。
綾乃も、それ以上は気にしなかった。
「今日、体育きつかったね」
「持久走?」
「そう」
「陸上部なのに?」
「それ朝も言っただろ」
「だって本当だし」
「牧、厳しいな」
「松寺くんが弱音吐くから」
「弱音じゃない。感想」
「同じじゃん」
「違う」
二人で笑う。
それは。
いつもと変わらない帰り道だった。
*
その夜。
綾乃は自分の部屋で、机の上に教科書を広げていた。
スマホを見る。
グループトークには、すずや琉生たちの何気ない会話が少しだけ続いていた。
今日は珍しく、杏奈から恵斗についての話題も出なかった。
綾乃は少しだけ安心する。
スマホを伏せようとした、そのとき。
昼間のことを思い出した。
昇降口で恵斗と話したこと。
環と少し話せたと聞いたこと。
そして。
そこへ来た優太。
恵斗と優太が直接話したのは、今日が初めてだった。
綾乃にとっては、それだけの出来事だった。
「……」
綾乃は教科書に視線を戻す。
恵斗の恋は、少しずつ進んでいる。
自分は、その相談を聞いているだけ。
優太とは、いつものように話して、一緒に帰っただけ。
どちらも、今の綾乃にとっては特別なことではなかった。
*
一方。
恵斗は帰宅後、机に向かっていた。
参考書を開いている。
けれど。
ふと、今日のことを思い出した。
昇降口で会った一年生。
綾乃と話していたところに来た男子。
名前までは聞かなかった。
ただ。
綾乃が「松寺くん」と呼んでいたことだけは覚えている。
「……松寺」
小さく呟く。
それ以上、考えることはなかった。
綾乃のクラスメイト。
ただ、それだけだ。
恵斗は参考書へ視線を戻した。
今は受験のほうが大事だ。
そして。
環のことも。
*
翌朝。
教室に入った綾乃は、自分の席に鞄を置いた。
「牧、おはよ」
優太が声をかける。
「おはよ」
「昨日、雨すごかったな」
「うん」
「帰るとき、ちょっと止んでよかった」
「そうだね」
「牧、傘忘れてたら大変だったな」
「昨日はちゃんと持ってたよ」
「珍しい」
「何それ」
「いつも何か忘れてそうだから」
「失礼」
二人で笑う。
それから優太は自分の席へ戻っていった。
綾乃も鞄から教科書を取り出す。
昨日のことを、特に深く考えることはなかった。
*
放課後。
美術室では、すずが画材を並べていた。
「綾乃」
「ん?」
「昨日、一緒に帰ってたの松寺?」
「うん」
「珍しいね」
「駅まで一緒だっただけだよ」
「へえ」
すずはそれ以上聞かなかった。
綾乃も、特に気にしていない。
優太は同じクラスの友達。
恵斗は美術部の先輩。
環は恵斗が好きな人。
それぞれとの関係は、今のところ何も変わっていない。
少なくとも。
綾乃自身は、そう思っていた。
*
その日の帰り。
恵斗は図書室から出たところで、遥翔と合流した。
「今日、美術室行かなかったな」
「うん」
「珍しい」
「昨日行ったから」
「そういうもん?」
「そういうもん」
遥翔が笑う。
「そういえば、昨日一年生と話してたな」
「ああ」
「牧のクラスメイト?」
「たぶん」
「名前は?」
「松寺って言ってた」
「へえ」
遥翔はそれ以上聞かなかった。
恵斗も特に気にしていない。
ただの後輩。
綾乃のクラスメイト。
それだけだった。
まだ。
*
そして。
綾乃も。
優太も。
恵斗も。
まだ知らない。
昨日の短い会話が。
これから少しずつ変わっていく人間関係の、ほんの小さなきっかけになっていたことを。
誰も。
まだ、その意味には気づいていなかった。




