第七話 知らないはずなのに、気になる
放課後。
美術室には、いつもより少しだけ人が少なかった。
すずは用事があるらしく、先に帰っている。
琉生も今日は部活を休んでいた。
残っているのは、綾乃と数人の部員だけだった。
綾乃は机の上に広げた画材を片付けながら、ふと時計を見る。
もうすぐ五時。
九月に入ってから、文化祭の準備も少しずつ本格的になってきている。
三年生はもう部活を引退しているため、以前より美術室にいる人数も減っていた。
恵斗も、基本的には図書室で受験勉強をしている。
それでも。
資料を取りに来たり、先生に頼まれた用事があったりすると、美術室に顔を出すことがある。
綾乃は、そんなときに少しだけ嬉しくなる。
けれど。
最近は、それを「恋バナができるから」とだけ考えることも、少し難しくなっていた。
「……」
綾乃は小さく首を振った。
考えすぎだ。
そのとき。
「綾乃」
声がして、綾乃が振り返る。
美術室の入口に恵斗が立っていた。
「お疲れさまです」
「お疲れ」
恵斗の手には参考書があった。
「どうしたんですか?」
「先生に頼まれた資料、取りに来た」
「ああ」
綾乃は棚を見る。
「この前の文化祭の資料ですか?」
「そう」
「じゃあ、たぶんこっちです」
綾乃が棚からファイルを取り出す。
「これ?」
「それ」
「どうぞ」
「ありがと」
恵斗が受け取る。
そのまま帰るのかと思ったが、恵斗は少しだけその場に残った。
「……」
「どうしました?」
「いや」
恵斗は少し考えてから言った。
「綾乃」
「はい?」
「ちょっと相談していい?」
「もちろん」
綾乃はすぐに答えた。
恵斗が少し笑う。
「即答だな」
「相談されると思ってました」
「何で」
「最近、先輩が美術室に来るときって、だいたい何かありますよね」
「そう?」
「はい」
「まあ……そうかも」
恵斗は少しだけ視線を落とした。
「……森本のことなんだけど」
「はい」
その名前を聞いて、綾乃も少しだけ表情を変えた。
「この前、遥翔にも言われたんだ」
「何をですか?」
「焦らなくていいって」
「そうですよね」
「受験もあるし」
「はい」
「だから、すぐ何かするつもりはないんだけど」
恵斗は一度言葉を切った。
「もう少し、普通に話せるようになりたいと思って」
「普通に?」
「うん」
「それなら、いいんじゃないですか?」
「そう思う?」
「はい」
綾乃は頷いた。
「いきなり何かするんじゃなくて、普通に話すところからなら、そんなに焦らなくてもいいと思います」
「……だよな」
「先輩、恋愛になると考えすぎなんですよ」
「お前に言われたくない」
「私は恋愛評論家なので」
「自称だろ」
「はい」
綾乃が笑う。
恵斗も笑った。
「じゃあ、少しずつ頑張る」
「はい」
「また相談するかも」
「いつでもどうぞ」
「頼む」
恵斗はファイルを持って、美術室を出ていった。
綾乃はその背中を見送った。
恵斗の恋が少しずつ動こうとしている。
そう思うと。
なんとなく嬉しかった。
*
翌日。
昼休み。
綾乃はすずと廊下を歩いていた。
「そういえば」
すずが言う。
「昨日、恵斗先輩来てた?」
「うん」
「何してた?」
「資料を取りに来てた」
「へえ」
すずはそれ以上聞かなかった。
綾乃も、恵斗から相談されたことを話すつもりはなかった。
特に。
環のことは。
恵斗が自分に話してくれたことだ。
わざわざ他の人に伝える必要はない。
「……あ」
廊下の先に、見覚えのある姿があった。
黒髪の長い女子生徒。
綾乃は、思わずそちらを見る。
「森本先輩だ」
すずが言った。
「うん」
綾乃も頷く。
森本環。
恵斗が好きな人。
そう知っているせいか。
ただ廊下を歩いているだけなのに、いつもより少し気になった。
環は友達らしい女子と話しながら歩いている。
落ち着いた雰囲気。
姿勢もきれいで、どこか大人っぽい。
「綺麗だよね」
綾乃が何気なく言った。
「誰?」
「森本先輩」
「ああ」
すずも環を見る。
「確かに」
「恵斗先輩が好きになるのも分かるなあ」
「……ん?」
すずが綾乃を見る。
綾乃は一瞬、言葉に詰まった。
「……いや」
「何?」
「何でもない」
危なかった。
うっかり余計なことを言うところだった。
すずは少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
「まあ、確かに綺麗だけど」
「うん」
「綾乃、ああいう人好きだっけ?」
「別に、好きとかじゃなくて」
綾乃は少し慌てて答える。
「普通に素敵だなって思っただけ」
「そっか」
すずはそれ以上何も言わなかった。
二人はそのまま歩いていった。
*
放課後。
綾乃が美術室に入ると、環がいた。
一人で窓際の机に座っている。
綾乃の足が、ほんの少し止まった。
今まで。
ちゃんと話したことはほとんどない。
同じ美術部なのだから、挨拶くらいはしたことがある。
でも、それだけだった。
恵斗が好きな人だと知ってから見ると。
何となく、いつもと違って見える。
環が顔を上げた。
「あ」
目が合う。
「一年生だよね」
「はい」
綾乃は少し緊張しながら答えた。
「牧さん?」
「はい。牧綾乃です」
「私は森本」
「知ってます」
「そっか」
環は少し笑った。
綾乃は思っていたより話しやすい人なのかもしれないと思った。
「いつもいるよね」
「はい」
「絵、好き?」
「好きです」
「そっか」
短い会話だった。
それでも。
綾乃にとっては、少しだけ不思議な時間だった。
恵斗が好きな人。
その人と、今、自分が普通に話している。
「じゃあ、またね」
「はい」
環が美術室を出ていく。
綾乃はその背中を見送った。
「……普通にいい人だった」
ぽつりと呟く。
もっと近寄りがたい人かと思っていた。
けれど、そんなことはなかった。
落ち着いていて、話し方も優しい。
恵斗が好きになるのも分かる。
綾乃はそう思った。
そして。
それ以上は考えなかった。
*
その日の夜。
グループトークでは、いつものような会話が続いていた。
『すず:今日疲れた』
『綾乃:分かる』
『杏奈:何かあったの?』
『すず:授業』
『琉生:俺は眠い』
『綾乃:早い』
『琉生:今日はもう寝る』
『杏奈:まだ八時だよ』
『琉生:眠いものは眠い』
綾乃は笑った。
しばらくして。
『恵斗:お前らまだ起きてる?』
『すず:起きてる』
『綾乃:起きてます』
『杏奈:起きてます』
『琉生:寝てる』
『すず:どっち』
『琉生:半分』
『綾乃:器用ですね』
いつものような会話。
その中で、恵斗から個人メッセージが届いた。
『今日、森本と話した』
綾乃は目を見開いた。
『え、本当ですか?』
『うん』
『どうでした?』
『普通に話せた』
『よかったじゃないですか!』
『まあ』
『何話したんですか?』
『部活のこととか』
『それでも大進歩ですよ』
『大げさ』
『大げさじゃないです』
綾乃はスマホを握りながら笑った。
そして。
昼間に環と話したことを思い出した。
普通に話せた。
優しかった。
綺麗だった。
そんなことを考えているうちに。
恵斗と環が話している場面を想像した。
――先輩、ちゃんと話せたんだ。
それだけなのに。
何となく嬉しかった。
『よかったですね』
そう送る。
すぐに返信が来た。
『うん』
少し間が空いて。
『でも、まだ全然』
『これからですよ』
『そうだな』
『応援してます』
『ありがと』
そこで会話は終わった。
綾乃はスマホを胸元に置いた。
昼間の環のことを思い出す。
黒髪。
落ち着いた話し方。
優しい笑い方。
恵斗が好きになるのも分かる。
ただ。
それ以上の意味はない。
「……先輩のペースだよね」
小さく呟いて、綾乃はスマホを伏せた。
恵斗の恋がうまくいけばいい。
本当に、それだけだった。
*
翌日の放課後。
美術室。
綾乃が一人で絵の具を片付けていると、すずが入ってきた。
「綾乃、まだいた」
「うん」
「帰ろ」
「ちょっと待って」
すずは机に寄りかかる。
「そういえばさ」
「うん」
「昨日、森本先輩と話してたよね」
「見てたの?」
「廊下から」
「ああ」
「何話したの?」
「普通の話」
「へえ」
すずは綾乃を見る。
「なんか意外」
「何が?」
「森本先輩って、あんまり一年と話してるイメージなかったから」
「ああ」
綾乃は少し笑う。
「私も最初、ちょっと緊張した」
「やっぱり?」
「うん。でも、普通に話してくれた」
「そっか」
「優しい人だったよ」
「へえ」
すずはそれだけ言って、机の上の筆を一本手に取った。
「綾乃、帰るんじゃなかったの?」
「そうだった」
「じゃあ早く」
「待ってよ」
二人で片付けを終える。
すずは、それ以上環のことを聞かなかった。
綾乃自身も。
なぜ環のことが少し気になるのか、まだ深く考えていなかった。
恵斗の好きな人だから。
それだけで十分説明できると思っていた。
*
一方。
その頃、図書室では。
恵斗が参考書を閉じていた。
向かいには遥翔がいる。
「なあ」
「何」
「昨日、森本と話した」
「へえ」
遥翔は少し笑った。
「どうだった?」
「普通」
「それなら、まずは上出来じゃん」
「まあ」
「何話した?」
「部活のこととか」
「ちゃんと会話になったんだな」
「なったよ」
恵斗は少し照れたように笑う。
「よかったじゃん」
「うん」
「焦んなよ」
「分かってる」
遥翔はそこで話を終えた。
綾乃のことは、あえて口にしない。
恵斗が環を好きなことを知っている。
そして。
そのことを綾乃にも話していることも知っている。
だからこそ。
今は、余計なことを言う必要はないと思っていた。
恵斗はまだ環を好きだ。
その気持ちは変わっていない。
そして綾乃も。
恵斗の恋を応援している。
少なくとも、今のところは。
*
その夜。
グループトークでは、またくだらない話が続いていた。
『杏奈:明日って部活ある?』
『綾乃:ありますよ』
『すず:ある』
『琉生:たぶん』
『恵斗:俺は行かない』
『綾乃:受験勉強?』
『恵斗:うん』
『すず:えらい』
『恵斗:普通』
『琉生:俺も勉強する』
『綾乃:本当ですか~?』
『琉生:寝る』
『すず:知ってた』
綾乃は笑った。
いつもの夜。
いつものグループトーク。
恵斗が環を好きなことを知っている。
そのことを、恵斗から直接聞いている。
杏奈は、まだ恵斗への気持ちを完全には整理できていない。
遥翔は、恵斗の気持ちを誰より近くで見ている。
すずは、いつものように周りの会話を楽しんでいる。
そして綾乃は。
自分はただ、その恋愛模様を少し離れたところから見ているだけだと思っていた。
恵斗の恋を応援する。
それだけ。
森本環は、恵斗の好きな人。
自分は相談相手。
その関係は、何も変わっていない。
……そう思っていた。
ただ。
その日から。
綾乃は廊下で環を見かけると、ほんの少しだけ目で追うようになった。
環が誰かと話している。
美術室で絵を描いている。
友達と笑っている。
そんな何気ない姿が、なぜか記憶に残る。
でも綾乃は、それを不思議には思わなかった。
恵斗の好きな人だから。
自分が気にするのも当然なのだろう。
そう思えば、それで説明がつく。
だから。
それ以上、考えなかった。
まだ。
自分の気持ちに名前をつける理由なんて、どこにもなかった。




