第五十五話 いつもと同じなのに
月曜日の朝。
優太は、いつもより少し早く学校に着いた。
教室に入って。
自分の席に座る。
鞄を机の横にかける。
そこまでは、いつも通りだった。
なのに。
「……」
落ち着かない。
金曜日の放課後から。
何度も思い出している。
綾乃に自分の気持ちを伝えたこと。
返事を待っていた時間。
そして。
綾乃が、自分の気持ちを返してくれたこと。
あのときのことを思い出すたび。
胸の奥が、少し熱くなる。
土曜日も。
日曜日も。
特に何かあったわけじゃない。
家で過ごして。
勉強もして。
普通の休日だった。
なのに。
ふとした瞬間に、綾乃のことを思い出していた。
――俺、綾乃の彼氏なんだ。
そう考えると。
自分でも少し笑ってしまう。
「……何やってんだろ」
優太はスマホを取り出した。
金曜日の夜のメッセージを開く。
『優太:今日はありがとう』
『綾乃:こちらこそ』
そのあと。
特別なことは何も話していない。
それでも。
この画面を見るだけで、また嬉しくなる。
「……」
スマホを伏せる。
そのとき。
「優太」
「……!」
顔を上げる。
綾乃が立っていた。
「おはよう」
「お、おはよう」
優太は一瞬、言葉に詰まった。
綾乃はいつも通りだった。
髪も。
制服も。
表情も。
何も変わっていない。
なのに。
優太には。
少しだけ特別に見えた。
そして。
何より。
「優太」
もう一度。
綾乃が自分の名前を呼ぶ。
それだけで。
嬉しくなる。
「……」
「どうしたの?」
「いや」
優太は少し笑った。
「まだ慣れないなと思って」
「何が?」
「綾乃に名前で呼ばれるの」
「あ……」
綾乃の顔が少し赤くなる。
「私も」
「そっか」
「うん」
二人の間に、少しだけ沈黙が落ちた。
優太は綾乃を見る。
金曜日までと。
何も変わっていない。
なのに。
自分の中では。
大きく変わった。
「でも」
優太が言った。
「俺は、結構好きかも」
「……何が?」
「綾乃に名前で呼ばれるの」
「……」
綾乃が少し俯く。
「まだ慣れるまで時間かかりそう」
「じゃあ、ゆっくりでいいよ」
「え?」
「無理に変えなくても」
優太は笑う。
「呼んでくれるだけで、嬉しいから」
「……」
綾乃は少しだけ顔を上げる。
そして。
「……うん」
小さく笑った。
その笑顔を見て。
優太も笑う。
――やっぱり。
金曜日に、ちゃんと伝えてよかった。
*
昼休み。
優太は友達と昼食を食べていた。
いつも通りの昼休み。
いつも通りの教室。
なのに。
ふと。
教室の向こうに綾乃が見えた。
すずと話している。
綾乃が笑う。
優太は、何となくその姿を目で追った。
そして。
自分でも少し不思議に思う。
今までだって。
綾乃が笑っているのを見ることはあった。
でも。
今日は。
ただ「楽しそうだな」と思うだけじゃない。
――俺の彼女なんだ。
その事実が。
じわっと胸に広がる。
綾乃がこちらを見る。
目が合う。
綾乃が少し笑う。
優太も笑い返す。
それだけ。
それだけなのに。
嬉しい。
友達に気づかれないように。
優太は何でもない顔で弁当を食べ続けた。
でも。
心の中では。
少しだけ浮かれていた。
*
放課後。
優太は教室の前で綾乃を待っていた。
「優太」
「ん?」
綾乃が鞄を持って出てくる。
「待った?」
「ううん」
「部活行くんだよね」
「うん」
「じゃあ、途中まで一緒に行く」
「いいの?」
「うん」
二人で廊下を歩き始める。
学校はいつも通りだった。
廊下も。
教室も。
窓から見える景色も。
なのに。
優太には。
少しだけ違って見えた。
「今日、どうだった?」
「普通」
「普通か」
「うん」
「そっか」
いつもの会話。
それが。
今は少し嬉しい。
しばらく歩いてから。
「綾乃」
「ん?」
「この前さ」
「うん」
優太は少しだけ考えた。
「俺の彼女になってくれて、ありがとう」
「……」
綾乃の足が、少し止まる。
「……え」
「ちゃんと言っとこうと思って」
「……そういうこと、言われると思ってなかった」
「そう?」
「うん」
綾乃は少しだけ視線を落とす。
それから。
「……なんか、嬉しい」
「そっか」
優太が笑う。
綾乃も小さく笑った。
「私も……」
「ん?」
「優太と付き合えて、よかった」
「……」
今度は優太が黙った。
さっきまで笑っていた顔が、少しだけ赤くなる。
「……それ、反則じゃない?」
「え?」
「いや」
優太は照れたように笑った。
「何でもない」
「ふふ」
綾乃が笑う。
「お互い様だね」
「だな」
二人で少し笑った。
昨日までと同じ学校の廊下。
同じ帰り道。
それなのに。
今までとは、少し違う。
恋人になったから。
たったそれだけなのに。
優太は。
この時間を大事にしたいと思った。
*
美術室の前。
「じゃあ、私ここだから」
「うん」
「またね」
「また」
綾乃が扉を開ける。
そして。
一度だけ振り返った。
「……優太」
「ん?」
「……また帰ろうね」
「うん」
綾乃が笑う。
「じゃあ、また」
「またな」
綾乃が美術室へ入っていく。
扉が閉まる。
優太は、その場に少しだけ立っていた。
「……」
また。
名前を呼ばれた。
それだけなのに。
やっぱり嬉しい。
優太は小さく笑って、そのまま歩き出した。
――ちゃんと大事にしよう。
金曜日に交わした言葉より。
これから。
綾乃が自分と一緒にいる時間を、心地いいと思ってくれることのほうが大切だ。
だから。
焦らなくていい。
無理に何かを変えなくてもいい。
今までみたいに。
一緒に帰って。
一緒に笑って。
くだらない話をして。
その中に。
少しずつ。
二人だけの時間が増えていけばいい。
*
その日の夜。
綾乃は、自分の部屋でベッドに座っていた。
スマホを見る。
『優太:今日はありがとう』
『綾乃:こちらこそ』
『優太:明日も一緒に帰ろう』
綾乃は、その文字を見て小さく笑った。
『綾乃:うん』
送信する。
スマホを置く。
「……」
今日一日を思い返す。
朝。
優太に会った。
「おはよう」と言われた。
そして。
自分も。
「優太」と呼んだ。
まだ少し慣れない。
名前を呼ぶたびに。
ほんの少しだけ意識してしまう。
でも。
嫌じゃない。
むしろ。
嬉しい。
綾乃は枕を抱える。
金曜日のことを思い出す。
優太が、自分の気持ちを伝えてくれた。
自分も。
ちゃんと答えた。
あのときは。
それだけで精いっぱいだった。
土曜日。
日曜日。
休日を過ごして。
月曜日になって。
ようやく。
少しずつ実感が湧いてきた。
「……私、優太の彼女なんだ」
口にすると。
少し照れる。
でも。
その言葉は。
思っていたより、すんなり心に入ってきた。
今日。
優太が笑っていた。
名前を呼んでくれた。
自分も名前で呼んだ。
放課後。
「俺の彼女になってくれて、ありがとう」と言われた。
思い出すと。
また胸の奥があたたかくなる。
「……私も」
綾乃は小さく呟く。
「優太と一緒にいられて、よかった」
それは。
金曜日に返した言葉とは、少し違う。
今日一日。
恋人として過ごしてみて。
改めて思ったことだった。
明日も。
優太と話せる。
明日も。
一緒に帰れる。
そう思うと。
明日が少し楽しみになった。
綾乃はスマホを手に取る。
画面に残っている。
優太とのメッセージを見る。
そして。
小さく笑った。
昨日までと。
同じ学校。
同じ毎日。
なのに。
今日から。
少しだけ。
違う毎日が始まった気がした。




