第五十四話 ちゃんと伝える
金曜日の放課後。
授業が終わって。
綾乃は鞄を持って、美術室へ向かおうとしていた。
そのとき。
「綾乃」
後ろから声がした。
振り返る。
「あ、松寺くん」
優太が立っていた。
「今から部活?」
「うん」
「そっか」
優太は少しだけ黙った。
「……今日、部活終わったら時間ある?」
「え?」
「少しだけ」
綾乃は首を傾げる。
「うん。あるけど」
「じゃあ」
優太は一度息を吐いた。
「終わったら、連絡して」
「分かった」
「……ありがと」
「うん」
優太はそれだけ言って、その場を離れた。
綾乃はその背中を見送る。
「……何だろう」
いつもと少し違った。
どこか緊張しているように見えた。
でも。
綾乃には、その理由が分からなかった。
*
美術室。
綾乃はいつも通り部活をしていた。
絵を描いて。
すずと話して。
片付けをする。
やっていることは、いつもと変わらない。
なのに。
今日は、何となく落ち着かなかった。
「綾乃」
「ん?」
「さっきから、何回ため息ついてるの?」
「え?」
綾乃は顔を上げる。
「そんなに?」
「うん」
「……そうかな」
「そう」
すずが綾乃を見る。
「何かあった?」
「松寺くんに、部活終わったら少し時間あるかって聞かれた」
「ああ」
「何だろう」
「さあ」
「すず、何か知ってる?」
「知らない」
「本当に?」
「うん」
すずは少しだけ考える。
「でも」
「うん?」
「わざわざ部活が終わったあとに時間あるか聞くくらいだから」
「うん」
「何か話したいことがあるんじゃない?」
「……そうかな」
「たぶん」
「何の話だろう」
「それは、本人に聞いてみないと分からないよ」
「そっか」
綾乃は少し考える。
「なんか、ちょっと緊張する」
「何で綾乃が緊張するの」
「分かんない」
すずが少し笑った。
「まあ、行ってみれば?」
「うん」
綾乃は頷いた。
*
部活が終わる。
綾乃は美術室を出て、スマホを取り出した。
『綾乃:終わったよ』
送信。
すぐに返事が来た。
『優太:中庭にいる』
「中庭?」
綾乃は少し意外に思った。
でも。
そのまま向かう。
*
夕方の中庭。
人は少なかった。
校舎の影が、少しずつ長くなっている。
綾乃が中庭に入る。
「松寺くん」
優太が振り返った。
「綾乃」
「待った?」
「ううん」
優太は笑った。
でも。
いつもより少し硬い。
「どうしたの?」
「……うん」
優太は一度、息を吐いた。
「ちょっと話したいことがあって」
「何?」
「その……」
優太が黙る。
綾乃は待った。
急かさずに。
「……綾乃」
「うん」
優太は一度だけ視線を落とした。
それから。
まっすぐ綾乃を見る。
「俺、綾乃のことが好き」
「……」
綾乃の目が、大きくなる。
「……え?」
優太は少しだけ笑った。
「驚くよな」
「だって……」
綾乃は言葉が出てこない。
頭の中が、急に真っ白になった。
「俺」
優太が続ける。
「ずっと、綾乃といるのが楽しかった」
「……うん」
「最初は、それだけだと思ってた」
綾乃は黙って聞いている。
「一緒に帰ったり」
「うん」
「映画見たり」
「……うん」
「動物園行ったり」
綾乃の胸が、少しだけ揺れる。
「そういう時間が増えて」
優太は少しだけ笑う。
「気づいたら、どこに行くかより、綾乃と一緒にいられるかのほうが大事になってた」
「……」
「怪我したときも」
優太は少しだけ視線を逸らす。
「綾乃が心配してくれたの、すごく嬉しかった」
「……」
「そのときに、たぶんもう、ちゃんと分かった」
優太は綾乃を見る。
「俺、綾乃のことが好きなんだって」
綾乃は何も言えない。
ただ。
優太の言葉を聞いていた。
「だから」
優太が少しだけ息を吸う。
「これからも、綾乃と一緒にいたい」
「……」
「今までみたいに一緒に帰ったり、遊びに行ったりするだけじゃなくて」
少しだけ。
声が緊張していた。
「俺と、付き合ってほしい」
静かになった。
中庭には、遠くから運動部の声が聞こえている。
風が少し吹いた。
綾乃は、しばらく何も言えなかった。
*
頭の中に。
今までのことが浮かんでくる。
最初に話したとき。
一緒に帰ったこと。
初めて二人で出かけたこと。
映画を見たこと。
甘いものを食べたこと。
動物園に行ったこと。
くだらない話で笑ったこと。
怪我をして。
心配したこと。
そのあと。
何度も一緒に帰ったこと。
また映画に行く約束をしたこと。
買い物をしたこと。
優太が、自分のことをよく見ていてくれたこと。
気づけば。
いつも隣にいた。
そして。
いつも。
楽しかった。
でも。
それだけじゃなかった。
最近。
優太と別れたあと。
また一緒に帰りたいと思った。
メッセージが来ると嬉しかった。
次に会うのが楽しみだった。
優太が笑っていると。
自分も嬉しくなった。
そして。
今日。
「付き合ってほしい」と言われて。
綾乃は。
嫌だと思わなかった。
驚いた。
緊張した。
どう答えればいいのか分からなかった。
でも。
一つだけ。
はっきりしていた。
――もっと一緒にいたい。
友達だからじゃなく。
今までみたいに、ただ一緒に帰るだけじゃなく。
もっと。
優太の近くにいたい。
「……」
綾乃は顔を上げる。
優太が、黙って待っている。
急かさない。
ただ。
答えを待っている。
「……松寺くん」
「うん」
綾乃は少しだけ息を吸った。
「私」
声が震えそうになる。
「松寺くんと一緒にいるの、すごく楽しい」
「……うん」
「だから」
少しだけ笑う。
「これからも一緒にいたい」
優太の目が、少しだけ見開かれる。
「……それって」
「うん」
綾乃は頷いた。
「私も、松寺くんのこと好きなんだと思う」
「……」
優太は何も言わなかった。
ただ。
少しだけ俯いた。
「……そっか」
その声が。
ほんの少し震えていた。
「うん」
「……よかった」
優太が小さく笑う。
綾乃も笑った。
「じゃあ」
優太が顔を上げる。
「付き合ってくれる?」
「……うん」
綾乃は頷いた。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
二人とも。
少し照れたように笑った。
*
しばらく。
二人はその場に立っていた。
付き合うことになった。
その実感が。
まだあまりなかった。
「……なんか」
綾乃が言う。
「変な感じ」
「俺も」
「今までと何が違うんだろう」
「分かんない」
「だよね」
二人で笑う。
「でも」
優太が言った。
「これからは、今までより堂々と一緒にいられる」
「……そうだね」
「嫌?」
「ううん」
綾乃は首を振った。
「嬉しい」
「そっか」
優太が笑う。
「俺も」
少し間があって。
「じゃあ、帰ろうか」
「うん」
二人は並んで歩き始めた。
校舎を出る。
いつもの帰り道。
いつもの駅。
いつもの道。
なのに。
今日は。
少しだけ違って見えた。
*
駅へ向かう途中。
綾乃は隣を歩く優太を見る。
「ねえ」
「ん?」
「今日から、松寺くんじゃなくて」
少しだけ迷って。
「……優太って呼んでもいい?」
優太が足を止める。
「……え」
「嫌?」
「いや」
優太はすぐに首を振る。
「嫌じゃない」
「じゃあ」
綾乃は少し照れながら。
「……優太」
「……うん」
その一言だけで。
優太は、少しだけ嬉しそうに笑った。
「もう一回」
「え?」
「いや」
優太が照れたように笑う。
「なんでもない」
「ふふ」
綾乃も笑った。
「じゃあ、帰ろう」
「うん」
二人はまた歩き始めた。
今まで何度も歩いた道。
けれど。
今日からは。
少しだけ違う。
綾乃は。
隣を歩く優太を見ながら。
小さく笑った。
「……優太」
「ん?」
「今日、嬉しい」
「俺も」
二人はまた笑った。
*
その少し前。
中庭へ向かう廊下を、恵斗が歩いていた。
忘れ物を取りに戻ってきたところだった。
その途中。
ふと。
中庭から声が聞こえた。
「……綾乃」
恵斗は足を止める。
聞き覚えのある声。
優太だった。
何となく。
そのまま通り過ぎようとした。
でも。
「俺、綾乃のことが好き」
その言葉が聞こえた。
「……」
恵斗の足が止まる。
中庭を見る。
綾乃と。
松寺がいる。
少し離れた場所から。
二人の姿が見えた。
「……」
恵斗は何も言わない。
戻ろうとした。
そのとき。
「私も、松寺くんのこと好きなんだと思う」
綾乃の声が聞こえた。
恵斗は。
一瞬だけ。
立ち止まった。
胸の奥が。
少しだけ重くなる。
でも。
その場には。
もういられなかった。
恵斗は静かに背を向けた。
そのまま。
誰にも気づかれないように。
廊下を戻っていった。
*
中庭では。
綾乃と優太が、まだ並んで歩いていた。
綾乃が笑っている。
優太も笑っている。
その声が。
少しずつ遠ざかっていく。
恵斗は一人。
廊下を歩いていた。
「……」
何も考えたくなかった。
でも。
頭の中には。
さっきの言葉が残っている。
――私も、松寺くんのこと好きなんだと思う。
「……」
恵斗は目を伏せる。
そうか。
綾乃は。
松寺が好きなんだ。
自分が。
何となく。
気にして。
映画を見て。
話をして。
「俺と行く?」なんて言って。
それでも。
全部。
遅かった。
「……」
恵斗は一度だけ、深く息を吐いた。
そして。
いつものように。
何もなかった顔をして。
帰るために歩き出した。
ただ。
胸の奥に残った痛みだけは。
なかなか消えなかった。




