第五十六話 まだ、いつも通り
火曜日の朝。
綾乃が教室に入ると、優太はすでに席に座っていた。
目が合う。
「おはよう」
「おはよう、綾乃」
いつも通りの挨拶。
それなのに。
綾乃は、なぜかその場で一瞬立ち止まった。
昨日までなら、普通に返していた。
今だって。
何も変わったことはないはずなのに。
「……どうした?」
「え?」
「いや、立ったままだから」
「あ、うん」
綾乃は慌てて自分の席に向かった。
鞄を机の横にかける。
椅子を引く。
教科書を出す。
いつもやっていることなのに、妙に手元が落ち着かなかった。
「綾乃」
「なに?」
「今日、数学の小テストあるって」
「えっ」
綾乃が顔を上げる。
「聞いてない」
「昨日、先生言ってたよ」
「本当に?」
「うん」
「どうしよう。全然見てない」
「朝、少し見る?」
「見る」
優太が自分のノートを開く。
綾乃も机を寄せた。
いつもなら、もっと自然にできていた。
けれど今日は。
肩が近い。
机が近い。
ノートを覗き込む距離も近い。
そのことに気づいてしまう。
「……綾乃?」
「え?」
「ここ、分かる?」
「あ、うん。分かる」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんか」
優太が笑う。
綾乃も笑った。
その瞬間。
少しだけ、いつもの調子に戻れた気がした。
「優太」
「ん?」
呼んでから。
綾乃は自分で少し驚いた。
もう一度。
今度は、さっきより自然に。
「優太、ここ教えて」
「いいよ」
優太がノートを指差す。
綾乃はその隣に身を寄せた。
付き合い始めたからといって。
急に何かが変わるわけではない。
それでも。
今までなら気にしなかった距離や呼び方が。
今日は少しだけ特別に感じられた。
*
朝のホームルームが終わると、教室の空気が少しずつ騒がしくなった。
綾乃が筆箱をしまっていると、前の席の女子が振り返る。
「牧、数学どうだった?」
「ぎりぎり」
「松寺に教えてもらってたじゃん」
「うん。助かった」
「へえ。松寺って教えるの上手なんだ」
「そうかな」
優太が横から口を挟む。
「牧がちゃんと聞いてただけだろ」
「何それ」
綾乃が笑う。
女子も笑った。
「二人って、最近よく一緒にいるよね」
何気なく言われた言葉に。
綾乃の手が止まった。
「そう?」
「うん。朝も話してるし、帰りも一緒だし」
「まあ、席近いから」
綾乃は咄嗟に答えた。
優太は何も言わなかった。
ただ、机の上のノートを閉じている。
「ふーん」
女子はそれ以上追及せず、前を向いた。
綾乃は小さく息を吐いた。
隣を見る。
優太と目が合った。
「……ごめん」
綾乃が小声で言う。
「何が?」
「今の」
「席近いからってやつ?」
「うん」
「別にいいよ」
優太は、少しだけ笑った。
「まだ、言いたくないんだろ?」
「……うん」
「じゃあ、いい」
責めるような声ではなかった。
だからこそ。
綾乃は少し申し訳なくなる。
「嫌じゃない?」
「何が?」
「付き合ってること、隠してるみたいで」
優太は少し考えた。
「隠してるっていうより」
「うん」
「綾乃が恥ずかしいなら、無理に言わなくていいと思う」
「……」
「俺は、綾乃と付き合ってるって分かってるし」
優太は、当たり前のように言った。
「それで十分」
綾乃は返事ができなかった。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「……優太って、たまにすごいこと言うよね」
「そう?」
「そうだよ」
「普通のことしか言ってないけど」
「それがすごいの」
綾乃が笑う。
優太も笑った。
*
昼休み。
綾乃は、すずに話したいことがあって、美術室へ向かった。
すずは窓際の机で、昼食を広げていた。
「すず」
「何」
「一緒に食べていい?」
「うん」
綾乃は隣の椅子に座った。
しばらく、二人で昼食を食べる。
けれど。
綾乃はなかなか口を開けなかった。
「……何?」
すずが先に聞いた。
「え?」
「話したいことがある顔」
「そんな顔してる?」
「してる」
綾乃は箸を置いた。
「えっと……」
「うん」
「私、優太と付き合うことになった」
すずの手が止まった。
「……そっか」
「うん」
「いつ?」
「金曜日」
「そうなんだ」
すずは少しだけ目を見開いた。
「おめでとう」
「ありがとう」
綾乃は照れたように笑う。
「まだ、誰にも言ってないんだけど」
「うん」
「すずには、ちゃんと伝えておこうと思って」
「分かった」
すずは頷いた。
「私に最初に言ってくれたんだね」
「うん」
「そっか」
すずは少しだけ笑った。
「よかったね」
「……うん」
綾乃は頷く。
それから、少しだけ声を落とした。
「でも、まだ学校では普通にしてたい」
「いいんじゃない?」
「広沢に知られたら面倒だし」
「それは確かに」
二人で笑った。
「松寺には言ったの?」
「うん。無理に言わなくてもいいって」
「そう」
すずは少し考えてから言った。
「松寺、綾乃のこと大事にしてるね」
「……そうかな」
「うん」
綾乃は返事をしなかった。
けれど。
その言葉が、胸の中に残った。
*
放課後。
綾乃が美術室での作業を終えるころには、外は少し暗くなっていた。
荷物をまとめていると、廊下から声がする。
「綾乃」
振り返る。
「優太」
扉のところに、優太が立っていた。
「終わった?」
「うん。今行く」
綾乃は鞄を持ち、すずを見る。
「じゃあ、帰るね」
「うん。また明日」
「また明日」
美術室を出る。
廊下を歩きながら、優太が言った。
「今日、どうだった?」
「何が?」
「学校」
「ああ」
綾乃は少し考える。
「普通だったよ」
「普通か」
「うん」
「じゃあ、よかった」
「何で?」
「いつも通りってことだろ」
綾乃は優太を見る。
その言い方が、朝からずっと気になっていたことと重なった。
「……ねえ」
「ん?」
「優太は、いつも通りでいいの?」
優太が少しだけ足を緩める。
「何が?」
「私たち」
綾乃は前を向いたまま言った。
「付き合ったけど……学校では、今までと同じで」
「うん」
「それでいい?」
優太は少し考えた。
「俺は、いいと思う」
「本当に?」
「うん」
「もっと、何か変えたいとか思わない?」
「例えば?」
「えっと……」
綾乃は困った。
手をつなぐとか。
名前で呼び合うとか。
そういうことが頭に浮かんだ。
けれど、自分から言うのは恥ずかしい。
「……分かんない」
優太が笑った。
「じゃあ、今は今まで通りでいいじゃん」
「うん」
「そのうち、自然に変わっていくかもしれないし」
「……そうだね」
「無理に変える必要ないだろ」
優太はそう言ってから、少しだけ綾乃を見た。
「ただ」
「ん?」
「俺は、今までより綾乃のこと近くに感じてるけど」
綾乃の足が止まった。
「……」
優太は少し照れたように笑う。
「付き合ってるから」
「……そういうこと、急に言わないでよ」
「ごめん」
「……恥ずかしい」
綾乃は顔を伏せた。
優太は笑った。
「でも、ほんとのことだし」
「もう!」
綾乃が優太の腕を軽く叩く。
優太は楽しそうに笑った。
*
駅に着く。
改札前で、二人は立ち止まった。
「じゃあ、また明日」
「うん」
綾乃が手を振る。
優太も手を上げた。
けれど。
綾乃は、少しだけ迷ってから言った。
「……優太」
「ん?」
「明日も、一緒に帰ろうね」
優太が笑う。
「うん」
「待ってて」
「分かった」
綾乃は頷いた。
それから。
少しだけ考えて。
「……私も、待ってるから」
優太が目を丸くする。
「何を?」
「優太が来るの」
優太は一瞬、黙った。
それから。
「……それ、結構嬉しい」
「朝も聞いた気がする」
「何が?」
「嬉しいって」
「じゃあ、今日二回目だな」
「数えてるの?」
「数えるだろ」
綾乃は笑った。
優太も笑った。
それだけの会話。
それだけの帰り道。
なのに。
綾乃には、少しずつ二人の間に新しいものが増えているように感じられた。
*
その夜。
綾乃はベッドの上で、スマホを眺めていた。
優太とのメッセージ画面。
『優太:今日はありがとう』
『綾乃:こちらこそ』
『優太:明日も一緒に帰ろう』
『綾乃:うん』
そこまで見て。
綾乃は少し笑った。
以前から。
優太と一緒に帰ることはあった。
映画にも行った。
買い物もした。
何度も話して。
何度も笑った。
それなのに。
今は。
同じ「一緒に帰る」という約束が、少し違って見える。
「……付き合ってるんだ」
声に出すと、やっぱり恥ずかしかった。
けれど。
嫌ではない。
むしろ。
明日も優太に会えることが、楽しみだった。
綾乃はスマホを置く。
学校も。
教室も。
帰り道も。
今までと変わらない。
ただ。
その中に。
二人だけが知っている、小さな変化がある。
それが今は、心地よかった。




