第五十二話 昨日のこと
水曜日の朝。
綾乃が教室に入ると、優太はすでに席に着いていた。
「おはよう」
「おはよう、綾乃」
いつも通りの声。
綾乃は自分の席に鞄を置いてから、優太のほうを見る。
「……足、大丈夫?」
「うん」
優太が少し足を動かす。
「昨日よりはいい」
「よかった」
綾乃はほっとした。
「昨日、あのあとどうだった?」
「昨日?」
「足」
「ああ」
優太は少し考えてから言った。
「綾乃と別れてから、病院行った」
「え?」
綾乃が目を丸くする。
「え、病院行ったの?」
「うん」
「そっか……」
「軽い捻挫だって」
「よかった……」
綾乃は小さく息を吐いた。
「ちゃんと診てもらったんだね」
「うん」
「なら安心した」
優太は少し笑った。
「昨日、綾乃が言ってくれたから」
「私?」
「ちゃんと病院行ったほうがいいって」
「ああ……」
綾乃は昨日のことを思い出した。
確かに。
心配だったから。
ちゃんと診てもらったほうがいいと思った。
それだけだった。
「言ってくれて、ありがとな」
「……ううん」
優太は少しだけ照れたように笑う。
「心配してくれてたの、嬉しかった」
「……」
綾乃は少しだけ顔を逸らした。
「だって、怪我したんだから心配するよ」
「そっか」
「うん」
「でも、嬉しかった」
「……もう」
綾乃は困ったように笑った。
「そういうこと、普通に言うよね」
「思ったから」
「そういうところが恥ずかしいの」
「なんで?」
「……なんでもない」
優太が笑う。
綾乃もつられて笑った。
*
昼休み。
綾乃はすずと一緒に昼食を食べていた。
「松寺、昨日病院行ったんだって?」
「うん。私と別れてから行ったみたい」
「軽い捻挫?」
「そう」
「よかったね」
「うん」
綾乃は頷く。
「昨日は結構痛そうだったから」
「心配だった?」
「そりゃ心配だよ」
「ふーん」
「何?」
「別に」
「その『別に』怪しい」
すずが少し笑う。
「でも」
すずは箸を置いた。
「綾乃、最近よく松寺の話するね」
「そうかな?」
「うん」
「怪我したからじゃない?」
「そうかもね」
綾乃は少し考える。
確かに。
最近。
優太と話すことが増えた。
一緒に帰ることも。
一緒に出かけることも。
それが特別だとは、まだ思っていない。
ただ。
「……元気そうでよかった」
そう言うと。
すずは少しだけ笑った。
「うん」
それ以上は何も言わなかった。
*
放課後。
綾乃が美術室で片付けをしていると、スマホが震えた。
『優太:今日、帰り一緒に帰れる?』
綾乃は画面を見る。
少しだけ笑って。
『綾乃:うん。終わったら連絡する』
送信する。
すぐに返事が来た。
『優太:分かった』
たったそれだけ。
なのに。
綾乃は少し嬉しくなった。
「……」
昨日。
優太が怪我をした。
心配した。
今日は。
また一緒に帰る。
その流れが。
いつの間にか、自然になっている気がした。
*
部活が終わる。
綾乃が美術室を出ると、昇降口の近くに優太がいた。
「あ」
優太が振り返る。
「お疲れ」
「待ってたの?」
「うん」
「遅くなったから、先に帰ってると思った」
「一緒に帰りたかったから」
「……」
綾乃は一瞬、言葉に詰まった。
「そっか」
二人で昇降口を出る。
*
校門を出てから。
二人は並んで歩いた。
「今日は足どう?」
綾乃が聞く。
「結構いい」
「本当に?」
「うん」
「じゃあよかった」
優太が笑う。
「綾乃、昨日からそればっかりだな」
「だって心配だったんだもん」
「うん」
優太は少しだけ笑った。
「それが嬉しかった」
「……また言ってる」
「だって嬉しかったから」
「もう」
綾乃も笑う。
少し歩いてから。
「でも」
優太が言った。
「昨日、綾乃と話してなかったら、たぶんそのまま帰ってたと思う」
「え?」
「病院、面倒だったし」
「やっぱり」
「だから」
優太は綾乃を見る。
「ちゃんと行ってよかった」
「……うん」
「ありがと」
「どういたしまして」
綾乃は笑った。
*
駅までの道。
学校のこと。
クラスのこと。
部活のこと。
いつものように、どうでもいい話をする。
でも。
綾乃は少しだけ思った。
昨日。
優太が怪我をして。
心配して。
今日は。
こうして一緒に帰っている。
特別なことをしているわけじゃない。
ただ。
一緒にいる。
それだけ。
なのに。
楽しい。
「松寺くん」
「ん?」
「足、早く治るといいね」
「うん」
「また部活したいでしょ?」
「したい」
「じゃあ、ちゃんと休まないと」
「分かってるって」
「ほんと?」
「ほんと」
「じゃあ信じる」
「ありがとう」
優太が笑う。
綾乃も笑った。
*
駅に着く。
「じゃあ、俺こっち」
「うん」
「また明日」
「またね」
優太が改札へ向かう。
少し進んだところで。
「綾乃」
「ん?」
振り返る。
「昨日も今日も、ありがとな」
「……何が?」
「心配してくれて」
「……うん」
綾乃は少し笑った。
「早く治してね」
「分かった」
「絶対」
「絶対」
優太も笑う。
そして改札を抜けていった。
綾乃はその背中を見送る。
「……」
昨日より。
少しだけ。
優太のことを近くに感じた。
怪我をしたから。
昨日、心配したから。
今日は一緒に帰ったから。
たぶん。
それだけだ。
そう思う。
けれど。
家へ向かう途中。
綾乃は何度も。
今日の優太の笑顔を思い出していた。
――また一緒に帰りたい。
そんなことを考えている自分に。
綾乃は、まだ気づいていなかった。
*
一方。
駅の反対側へ向かう優太は、一人で歩いていた。
足はまだ少し痛い。
でも。
今日は、それほど気にならなかった。
それより。
綾乃のことが頭に残っている。
心配してくれたこと。
一緒に帰れたこと。
そして。
「……」
もっと一緒にいたい。
もっと話したい。
そう思う。
昨日より。
その気持ちが、はっきりしている。
優太は少しだけ笑った。
――ちゃんと、伝えたい。
いつか。
綾乃に。
自分の気持ちを。




