第五十話 先輩だから
月曜日の放課後。
美術室では、大きな一枚の絵を囲んでいた。
生徒玄関に飾る予定の作品だ。
横幅は二メートル近くある。
美術部の全員で、少しずつ描き進めている。
「ここ、もう少し明るくしたほうがいいかな」
すずが筆を持ったまま言った。
「どこ?」
綾乃が近づく。
「この辺」
「ああ……確かに」
二人で絵を眺める。
「でも、私たちだけだと分かんないね」
「先生に聞く?」
「今日はもう帰った」
「そっか」
そのとき。
「何が分かんないの?」
後ろから声がした。
「あ」
綾乃が振り返る。
「恵斗先輩」
「おう」
恵斗が美術室に入ってくる。
「まだやってたんだ」
「はい。玄関に飾る絵です」
「これ?」
「そうです」
恵斗が作品の前に立つ。
しばらく黙って絵を見る。
「ここ」
恵斗が指を差した。
「もう少し暗くしたほうが、手前が浮く」
「なるほど」
すずが絵を見る。
「確かに」
「あと、こっち」
恵斗が反対側を指す。
「ここは明るくしすぎると、全体がぼやける」
「じゃあ、少し抑えます」
「うん」
すずが筆を持ち直す。
「先輩、ちょっと見てもらっていいですか?」
「いいよ」
恵斗は自然に絵の前へ戻った。
「この色なら、もう少し水足したほうがいい」
「分かりました」
すずが絵の具を調整する。
綾乃はその様子を見ていた。
やっぱり。
恵斗先輩は、こういうところでは頼りになる。
普段はぶっきらぼうに見えるのに。
聞けばちゃんと教えてくれる。
「綾乃」
「はい?」
「そこ、塗るなら先に輪郭取ったほうがいい」
「あ、はい」
恵斗が筆先を見る。
「その筆じゃ細すぎる」
「そうですか?」
「うん。こっち使えば」
恵斗が別の筆を渡す。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
綾乃が筆を受け取る。
その横で。
すずが少し笑った。
「綾乃だけじゃなくて、私にもちゃんと教えてくれるんですね」
「当たり前だろ、北川」
「なんか、先輩らしいですね」
「今さら?」
「まあ、改めて」
「……そうかよ」
恵斗が少し呆れたように笑う。
綾乃も思わず笑った。
「ほら、二人とも、手止まってる」
「あ」
「すみません」
二人が同時に絵へ向き直る。
恵斗は小さく息を吐いた。
でも。
口元は少し笑っていた。
*
しばらくして。
絵の一部分が完成した。
「どう?」
綾乃が聞く。
「いいと思う」
「ほんとですか?」
「うん」
「じゃあ、次ここですね」
「そう」
恵斗が頷く。
「でも、無理に今日全部終わらせなくていいから」
「でも、早く完成させたいです」
「焦ると雑になる」
「……はい」
「明日もあるだろ」
「そうですね」
「だったら今日はここまででいい」
「分かりました」
すずも筆を置いた。
「じゃあ、今日は終わりにしよう」
「うん」
三人で道具を片付ける。
大きな絵は壁に立てかけた。
「これ、明日また出すの大変そうですね」
綾乃が言う。
「俺がやる」
「え?」
「これ重いから」
「でも」
「大丈夫」
恵斗は絵を持ち上げる。
「北川、そっち押さえて」
「はい」
「綾乃は道具片付けて」
「分かりました」
恵斗は絵を運ぶ。
すずがその後ろからついていく。
「先輩」
「ん?」
「これ、結構重いですよね」
「まあ」
「よく一人で持てますね」
「慣れてるから」
「なるほど」
すずが笑う。
「でも、綾乃には持たせないんですね」
「当たり前だろ」
「私には?」
「お前も無理そうなら持つな」
「分かりました」
すずが少し笑った。
「ちゃんと平等ですね」
「何が」
「綾乃だけ特別扱いしてるわけじゃないんだなって」
「当たり前だろ」
恵斗は何でもないことのように言った。
「部員なんだから」
その言葉を聞いて。
綾乃は少しだけ笑った。
やっぱり。
恵斗先輩は優しい。
自分だけじゃない。
ちゃんと、みんなを見ている。
*
片付けが終わるころ。
美術室の扉が開いた。
「お疲れ様」
「あ」
綾乃が顔を上げる。
「森本先輩」
環が入ってきた。
「まだやってたんだね」
「はい」
環が作品を見る。
「だいぶ進んだね」
「はい。先輩が見てくれました」
「そうなんだ」
環が恵斗を見る。
「海藤、こういうの得意だもんね」
「別に」
「そう?」
「普通だろ」
「ふふ」
環が笑う。
綾乃もつられて笑った。
「先輩、こういうところでは本当に頼りになりますよ」
「そう?」
「はい」
環が少し考えるように恵斗を見る。
「確かに」
「何が」
「面倒見いいなって」
「……そうか?」
「うん」
環はそれだけ言って、綾乃を見る。
「牧さんも楽しそう」
「え?」
「海藤と話してるとき」
綾乃は少し驚いた。
「そうですか?」
「うん」
「普通ですよ」
「そうなんだ」
環は小さく笑った。
恵斗は、そのやり取りを見ていた。
環と綾乃が話している。
普通に。
楽しそうに。
それを見て。
なぜか少しだけ。
胸の奥が引っかかった。
「海藤」
「ん?」
「牧さん、いい子だね」
「……そうだな」
「なんか、海藤が気にするのも分かる」
「……何で」
恵斗が反応する。
「え?」
「何で俺が気にするんだよ」
環が少し目を丸くする。
「いや」
少し考えて。
「そういう意味じゃないよ」
「……」
「面倒見てあげたくなるっていうか」
「ああ」
恵斗は短く答える。
けれど。
自分でも。
なぜか少し焦っていることに気づいた。
*
そのとき。
廊下から声がした。
「綾乃」
綾乃が振り返る。
「あ」
優太が立っていた。
「松寺くん」
「まだ部活?」
「うん」
「もう終わった?」
「今終わったところ」
「じゃあ、一緒に帰ろう」
「うん」
綾乃が鞄を持つ。
「すず、帰る?」
「私はもう少し残る」
「そっか」
綾乃が恵斗を見る。
「先輩、今日はありがとうございました」
「おう」
「絵、また明日やります」
「無理すんなよ」
「はい」
綾乃が優太のところへ向かう。
「じゃあ、また」
「またな、綾乃」
綾乃は笑って、優太と一緒に歩いていった。
恵斗は。
その背中を少しだけ見ていた。
「……」
環が隣に立つ。
「優しいね」
「何が」
「牧さんに」
「普通だろ」
「そう?」
「うん」
恵斗は前を見る。
綾乃と優太の姿が。
廊下の向こうへ消えていく。
少しだけ。
胸の奥がざわついた。
けれど。
今は。
その理由を考えないことにした。
*
美術室に残ったすずが。
ぽつりと言った。
「先輩」
「ん?」
「さっき」
「何」
「ちょっとだけ、寂しそうでしたよね」
「……」
恵斗が振り返る。
「気のせい」
「そうですか」
「うん」
「じゃあ、そういうことにしておきます」
すずはそれ以上何も言わなかった。
恵斗も。
何も言わなかった。
ただ。
さっき。
綾乃が優太と一緒に帰っていくのを見たとき。
なぜか。
もう少しだけ。
ここにいてほしいと思った。
それが。
どういう意味なのか。
恵斗には、まだ分からなかった。




