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今日も、たぶん平和じゃない  作者: RieL


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第五話 少しだけ変わった距離

 九月。

 二学期が始まって、少しずつ学校の空気も戻り始めていた。

 放課後の美術室。

 窓から入ってくる風は、まだ少し暑い。

 けれど、夏休みの頃とは違う空気が混じっている。

 綾乃は机の上に広げたスケッチブックを片付けていた。

「文化祭まで、まだ結構あるね」

 すずが壁に貼られた予定表を見ながら言った。

「そうだね」

「でも、去年より余裕ある気がする」

「先輩たちがいろいろ教えてくれたからじゃない?」

「それもあるかも」

 二人で話していると。

「牧」

 廊下から声がした。

 振り返る。

「松寺くん」

 優太だった。

 肩には部活用のバッグを掛けている。

「今から部活?」

「うん。そっちは?」

「俺も」

「同じだね」

「そうだな」

 優太が笑う。

「文化祭の準備もあるんだっけ?」

「うん。今日はちょっと残るかも」

「そっか」

「松寺くんは?」

「俺も今日は遅くなると思う」

「お互い大変だね」

「まあ、部活だから」

「それ言われたら何も言えない」

 綾乃が笑う。

 優太も笑った。

「じゃ、また」

「うん。またね」

 優太はそのまま自分の部活へ向かっていった。

 綾乃も美術室へ戻る。

 特別なことは何もない。

 ただの、いつものクラスメイトとの会話だった。

 *

 しばらくして。

 美術室のドアが開いた。

「お疲れ」

「あ、先輩」

 恵斗だった。

 制服の上に鞄を掛け、片手には参考書を持っている。

「今日、資料借りてもいい?」

「資料?」

「去年の文化祭のやつ」

「ああ」

 すずが棚を指さした。

「そこにあります」

「ありがとう」

 恵斗が棚へ向かう。

 ファイルを何冊か確認して、一冊を取り出した。

「これかな」

「去年の資料なら、それです」

 綾乃が答える。

「分かるの?」

「去年のだから」

「そっか」

 恵斗がファイルを開く。

「懐かしいな」

「先輩、去年も文化祭やってたんですよね」

「一応」

「私、その頃まだ中学生でした」

「そうだったな」

「なんか不思議です」

「何が?」

「先輩が高校生活最後の文化祭なんだなって」

「そういう言い方すると急に寂しくなるな」

「受験もありますし」

「それも言うなよ」

 恵斗が笑う。

「すみません」

「まあ、そうなんだけど」

 恵斗はファイルを閉じた。

「これ、ちょっと借りる」

「はい」

「あとで返す」

「分かりました」

 恵斗はファイルを手にしたまま、少しだけその場に残った。

「……」

「どうしました?」

 綾乃が聞く。

「いや」

 恵斗は少し考えてから、

「最近、文化祭の準備忙しい?」

「そうですね。でも楽しいですよ」

「そっか」

「先輩は?」

「俺?」

「受験」

「ああ」

 恵斗が苦笑する。

「まあ、それなり」

「ちゃんと勉強してくださいね」

「してるって」

「本当ですか?」

「本当」

「怪しい」

「ひどいな」

 二人で笑う。

 すずは少し離れたところから二人を見ていた。

 けれど、何も言わなかった。

 *

 そのとき。

 廊下から、ばたばたと足音が聞こえてきた。

 勢いよくドアが開く。

「お疲れさまです!」

「広沢」

 すずが呆れたように言った。

「何でそんなに元気なの?」

「今日、いいことあったんで」

「何?」

「言いません」

「じゃあ聞かない」

「冷たいですね」

 広沢は笑いながら、美術室の中を見回した。

「今日って何やるんですか?」

「壁面の下書き」

 綾乃が答える。

「これ?」

「そう」

 広沢が紙を覗き込む。

「俺、こっちやります」

 広沢が指差したのは、すでに終わっている作業だった。

「それ、もう終わってるよ」

「あ」

「ちゃんと見て」

「じゃあ、俺は監督します」

「何で?」

「全体を見る人も必要じゃないですか」

「必要ない」

 綾乃が即答する。

「じゃあ、何すればいいんですか」

「そこに書いてあるでしょ」

「細かい作業……」

「うん」

「俺、こういう細かいの苦手なんですよね」

「みんな得意じゃないよ」

「じゃあ、俺だけやらなくても」

「だめ」

「厳しい」

 広沢は渋々椅子に座った。

 しかし、数分後。

「広沢」

「はい?」

「手止まってる」

「考えてます」

「何を?」

「どうやったら早く終わるか」

「ちゃんとやれば早く終わるよ」

「なるほど」

「分かったなら手動かして」

「はい」

 広沢は筆を動かし始めた。

 けれど、今度は妙に大胆な線を引いていく。

「ちょっと待って!」

「何ですか?」

「そこ違う!」

「あ」

「もう!」

「すみません」

 綾乃が慌てて紙を確認する。

 広沢は悪びれた様子もなく笑っていた。

「まあ、これも味ってことで」

「ならないから!」

「厳しいなあ」

 恵斗が横で笑う。

「広沢、お前は相変わらずだな」

「先輩まで」

「でも、今日は来たじゃん」

「ちゃんと来ましたよ」

「遅刻したけど」

「それは……」

 広沢が少し黙る。

「まあ、結果的には来てます」

「開き直った」

 すずが笑った。

 美術室に笑い声が広がる。

 *

 しばらくして、恵斗はファイルを鞄に入れた。

「じゃあ、俺は図書室戻る」

「あ、はい」

「文化祭、頑張って」

「先輩も勉強頑張ってください」

「おう」

 恵斗は美術室を出ていった。

 綾乃はその背中を少しだけ見送った。

「……」

 すずが隣に来る。

「何?」

「別に」

「また?」

「便利だから」

「それ、先輩の真似?」

「さあ」

 二人で笑った。

 *

 その頃。

 廊下を歩いていた恵斗は、階段のところで声をかけられた。

「恵斗」

 振り返る。

「遥翔」

 佐々木遥翔だった。

「今から図書室?」

「うん」

「文化祭の資料?」

「そう。去年のやつ借りてきた」

「まだ学校の文化祭に関わってるんだな」

「資料を借りただけだよ」

「ふーん」

 遥翔が少し笑う。

「何だよ」

「別に」

「その顔、絶対何かあるだろ」

「じゃあ聞くけど」

「何」

「最近、美術室に行くこと多くない?」

「そう?」

「うん」

「文化祭の資料が必要だったから」

「今日は?」

「今日も資料」

「毎回それ?」

「何が言いたいんだよ」

「別に」

 遥翔は笑った。

「牧と話してるとき、楽しそうだなと思って」

 恵斗が少し黙る。

「……普通だろ」

「そう?」

「うん」

「まあ、いいけど」

 遥翔はそれ以上追及しなかった。

 しばらく歩いてから、恵斗が口を開く。

「綾乃ってさ」

「うん」

「話しやすいんだよ」

「へえ」

「恋愛の話もできるし」

「なるほど」

「変に気を遣わなくていいっていうか」

「分かる気がする」

「だろ?」

「俺に同意を求めるなよ」

 二人で笑う。

 けれど、遥翔はふと恵斗の横顔を見た。

 恵斗が綾乃の話をするとき。

 少しだけ表情が柔らかくなる。

 そのことに。

 遥翔は気づいていた。

 ただ、それを口にすることはなかった。

 *

 帰り支度をしていると、杏奈が美術室に戻ってきた。

「綾乃ちゃん、まだいたんだ」

「はい。片付けしてました」

「私も少し残ってた」

 杏奈も美術部員として、文化祭の準備をしていた。

「今日、結構進んだね」

「うん」

「明日も頑張ろう」

「はい」

 すずと広沢が先に帰り、しばらくすると美術室には綾乃と杏奈だけが残った。

 杏奈が鞄を持ち上げる。

「綾乃ちゃん」

「はい?」

「ちょっと聞いてもいい?」

「もちろんです」

 二人は廊下へ出た。

 しばらく歩いてから、杏奈が言った。

「最近、恵斗先輩とよく話してるね」

「そうですか?」

「うん」

「恋バナしてることが多いからですよ」

「そっか」

 杏奈は少しだけ笑った。

「……なんか、前より距離が近くなった気がする」

「距離?」

「うん。でも、私の気のせいかもしれない」

「そうですかね」

「うん」

 杏奈は少し黙った。

「二人で話してるところを見ると、なんとなく自然だなって思って」

「自然?」

「うん」

 綾乃は少し考える。

 自分では特別なことをしているつもりはない。

 ただ、恵斗と話しているだけ。

「私、普通に先輩と話してるだけですよ」

「うん。分かってる」

 杏奈は小さく笑った。

「だからこそ、ちょっと不思議なのかも」

「……?」

「ごめん。変なこと言ったね」

「大丈夫ですよ」

「うん」

 二人は昇降口まで歩いた。

「じゃあ、また明日」

「はい。杏奈先輩も気をつけて」

「綾乃ちゃんもね」

 杏奈が先に帰っていく。

 綾乃はその背中を見送った。

 杏奈が何を思っているのか。

 全部は分からない。

 けれど。

 自分と恵斗のことを、少し気にしている。

 そのことだけは、なんとなく感じていた。

 *

 その日の夜。

 グループトークには、いつものメンバーが揃っていた。

『すず:明日の文化祭準備、何時からだっけ?』

『杏奈:放課後からだよ』

『綾乃:先生がそう言ってた』

『琉生:俺、何するんだっけ』

『すず:自分で聞いて』

『琉生:冷たい』

『杏奈:中川くん、前も聞いてたよね』

『琉生:そうだっけ』

『綾乃:覚えてないんですか?』

『琉生:覚えてない』

『すず:堂々と言うな』

『琉生:じゃあ明日また聞く』

『杏奈:先生に怒られるよ』

『琉生:それは困る』

 綾乃は笑った。

 しばらくして。

『恵斗:お前ら、まだ起きてるの』

『すず:先輩こそ』

『恵斗:勉強の休憩』

『綾乃:ちゃんと勉強してください』

『恵斗:してる』

『琉生:受験生えらい』

『恵斗:お前もやれ』

『琉生:明日から』

『すず:絶対やらない』

『綾乃:私もそう思います』

『琉生:信用ないなあ』

 いつものようなやり取り。

 杏奈も、ときどき会話に加わっている。

 綾乃はスマホを見ながら、いつもの夜だと思った。

 *

 恵斗は自分の部屋で参考書を開いていた。

 机の横には、今日借りてきた去年の文化祭資料が置かれている。

 遥翔との会話を思い出す。

 ――牧と話してるとき、楽しそうだなと思って。

「……」

 恵斗は参考書に視線を落とす。

 別に。

 綾乃と話すことが特別なわけではない。

 ただ。

 話しやすい。

 それだけだ。

 杏奈のことも。

 環のことも。

 綾乃なら余計なことを言わずに聞いてくれる。

 だから話す。

 それだけ。

 そう考えて、参考書をめくった。

 けれど。

 しばらくすると、ふと美術室で笑っていた綾乃の顔が浮かんだ。

「……何なんだろうな」

 小さく呟く。

 答えは出ない。

 今はまだ。

 *

 一方。

 綾乃はベッドに横になりながら、今日一日のことを思い返していた。

 文化祭の準備。

 すずとの会話。

 広沢が久しぶりにちゃんと部活にいたこと。

 優太との短いやり取り。

 そして。

 恵斗との会話。

 最近。

 恵斗と話すことが少し増えた。

 でも。

 それが何を意味するのかは、まだ分からない。

 綾乃にとって恵斗は、今も変わらない。

 恋愛の話ができる先輩。

 少し頼りないところもあるけれど、話していて楽しい先輩。

 そして。

 自分だけが知っていることを、預けてくる先輩。

 その関係が。

 少しずつ変わっているような気がする。

 けれど。

 綾乃はまだ、それを恋愛とは結びつけなかった。

 ただ。

 以前より少しだけ。

 恵斗との距離が近くなった。

 それだけのことだと思っていた。


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