第四話 相談相手には、言えないこと
翌日の放課後。
美術室には、柔らかな西日が差し込んでいた。
綾乃は机の上に広げたスケッチブックを眺めながら、首を傾げていた。
「……なんか違うんだよなあ」
「何が?」
隣で絵の具を片付けていたすずが、覗き込む。
「ここ」
綾乃が指差したのは、描きかけの背景だった。
「色?」
「うん。もう少し薄くしたほうがいいかなって」
「綾乃がそんなに悩むの珍しいね」
「そう?」
「いつも適当に決めてるじゃん」
「感覚って言ってよ」
「それを適当って言うんだよ」
「ひどい」
二人で笑う。
すずはもう一度、スケッチブックを覗き込んだ。
「でも、私は今のままでもいいと思う」
「ほんと?」
「うん。綾乃っぽいし」
「私っぽいって何?」
「知らない」
「またそれ」
「便利だから」
「先輩みたい」
綾乃が笑った、その時。
美術室のドアが開いた。
「お疲れ」
「あ、先輩」
恵斗だった。
制服の上から鞄を掛け、片手にはいつもの参考書を持っている。
「図書室帰りですか?」
「うん」
「今日も勉強ですか?」
「一応」
「偉いですね」
「受験生だから」
恵斗はそう言いながら、美術室の中を見回した。
そして、綾乃の机の前で足を止める。
「何描いてるの?」
「これです」
綾乃がスケッチブックを見せる。
「今、色で悩んでて」
「どこ?」
「ここ」
恵斗が少し身をかがめる。
「……もうちょっと薄くしてもいいんじゃない?」
「なるほど……」
綾乃はスケッチブックを見つめる。
「すずは今のままでもいいって言ってたんですよね」
「じゃあ、どっちにする?」
「うーん……」
綾乃は少し考えた。
しばらくして、筆を持ち直す。
「少しだけ薄くしてみます」
「うん」
「先輩の言う通りにして、変だったら戻します」
「それでいいと思う」
綾乃が色を重ねていく。
「……あ、こっちのほうがいいかも」
「だろ?」
「でも、すずの言った今の感じも好きだったんですよね」
「じゃあ、少しだけ残せば?」
「それいいですね」
綾乃は色の濃淡を調整していく。
すずは二人のやり取りを見ながら、何も言わない。
「……何?」
綾乃が気づいた。
「別に」
「その顔」
「どの顔?」
「何か言いたそうな顔」
「言ってないよ」
「絶対言ってる」
「気のせい」
すずは筆を洗いながら、口元だけ少し上げた。
そこへ恵斗が、
「北川、最近それ多くない?」
「何がですか?」
「『別に』」
「便利なんですよ」
「誰かの真似?」
「さあ」
綾乃が吹き出す。
「ほら、やっぱり先輩とすず似てきてる」
「似てない」
「似てる」
「綾乃、うるさい」
「すみません」
また笑いが起きる。
その空気が、妙に心地よかった。
しばらくして、すずが時計を見る。
「私、今日は先帰るね」
「うん」
「先輩も」
「おう」
すずが鞄を肩に掛ける。
「綾乃、戸締まりよろしく」
「分かった」
「じゃあね」
「また明日」
ドアが閉まる。
美術室に、綾乃と恵斗だけが残った。
綾乃は再びスケッチブックに向き直る。
「先輩、ここどうですか?」
「ん?」
「さっき言ってたところ」
「いいんじゃない?」
「ほんとですか?」
「うん」
「じゃあ、これで進めます」
綾乃が筆を動かす。
恵斗は近くの椅子に座り、参考書を開いた。
しばらく、お互いに何も話さなかった。
静かな時間だった。
けれど、不思議と気まずくない。
綾乃がふと顔を上げる。
「先輩」
「ん?」
「昨日のことなんですけど」
「昨日?」
「水上先輩のこと」
恵斗の手が止まった。
「ああ」
「何か聞きたいことあります?」
「……うん」
恵斗は参考書を閉じた。
「昨日、話した?」
「はい」
「何て?」
「先輩のこと、まだ気にしてるみたいです」
「……そっか」
「はい」
恵斗は少しだけ視線を落とした。
「まあ、そうだろうなとは思ってた」
「じゃあ、聞かなくてもよかったんじゃないですか?」
「いや」
恵斗は少し考える。
「本人から聞くのと、綾乃から聞くのは違うから」
「そうですか?」
「うん」
「何でですか?」
「……分かんない」
「先輩でも分からないことあるんですね」
「あるよ」
「意外です」
「俺を何だと思ってるの」
「恋愛に慣れてる人」
「全然慣れてない」
「でも元カノさんいたじゃないですか」
「一ヶ月だけ」
「一ヶ月でも元カノは元カノです」
「それで懲りた」
「また言ってる」
「本当に疲れたんだよ」
「そんなにですか?」
「そんなに」
綾乃が笑う。
恵斗も少し笑った。
「でも、水上先輩はまだ先輩のこと好きなんでしょうね」
「……」
恵斗は答えなかった。
綾乃はその沈黙を見て、少しだけ首を傾げる。
「どうしました?」
「いや」
「?」
「綾乃って、人のことよく見てるよな」
「そうですか?」
「うん」
「恋バナが好きだからじゃないですか?」
「それだけ?」
「たぶん」
「たぶんかよ」
恵斗が笑う。
綾乃も笑った。
「でも、先輩って分かりやすいですよ」
「何が?」
「嫌なことがあると、顔に出ます」
「出てる?」
「出てます」
「……気をつける」
「あと」
「まだあるの?」
「あります」
綾乃は少し考えてから言った。
「好きな人の話になると、ちょっとだけ機嫌よくなります」
「……」
恵斗が黙る。
「先輩?」
「何でもない」
「今、ちょっと機嫌悪くなりました?」
「なってない」
「なってますよ」
「なってない」
「ふふ」
綾乃は笑った。
恵斗も呆れたように笑う。
「綾乃には敵わないな」
「何ですか、それ」
「別に」
「またすずみたいなこと言ってる」
「便利だから」
「先輩まで」
二人で笑った。
*
その日の帰り。
綾乃は昇降口で靴を履き替えていた。
そこへ、杏奈がやって来る。
「綾乃ちゃん」
「あ、杏奈先輩」
「今帰る?」
「はい」
「ちょっと一緒にいい?」
「もちろんです」
二人は並んで校舎を出た。
しばらく歩いてから、杏奈が口を開く。
「ねえ、綾乃ちゃん」
「はい?」
「ちょっと変なこと聞いてもいい?」
「どうぞ」
杏奈は少しだけ迷うように黙った。
「……恵斗先輩って」
「はい」
「もしかして、綾乃ちゃんのこと好きなのかな?」
「……え?」
綾乃の足が止まった。
「私?」
「うん」
「いやいや、それはないですよ」
綾乃は思わず笑った。
「何でですか?」
「だって……」
杏奈は少し困ったように笑う。
「美術室で二人が話してるの、よく見るから」
「恋バナですよ」
「分かってる」
「じゃあ、なおさら違いますよ」
「でも」
杏奈は少しだけ視線を落とした。
「恵斗先輩、綾乃ちゃんといるときは楽しそうだから」
「……そうですか?」
「うん」
綾乃は少し考える。
確かに、恵斗とはよく話す。
杏奈のこと。
恋愛のこと。
ときどき、どうでもいいことも。
でも。
「先輩にとって私は、相談しやすい後輩なんだと思います」
「相談しやすい後輩?」
「はい」
綾乃は何でもないことのように答えた。
「恋バナできるし、私もそういう話好きだから」
「そっか……」
杏奈は少し黙った。
そして、小さく笑う。
「じゃあ、私の考えすぎかな」
「たぶん」
「うん」
杏奈は頷いた。
「ごめんね。変なこと聞いて」
「大丈夫ですよ」
「……ありがとう」
杏奈は少しだけ前を向く。
綾乃も歩きながら考えた。
恵斗が自分を好き。
そんなこと、考えたこともなかった。
だって。
自分はただの後輩だ。
恋愛の相談を聞いているだけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
――そう思っていた。
*
その夜。
いつものグループトーク。
『すず:今日、静かだったね』
『綾乃:何が?』
『すず:美術室』
『琉生:平和だった?』
『綾乃:うん』
『杏奈:広沢くんは?』
『綾乃:今日も静かだったよ』
『すず:珍しい』
『琉生:明日は何か起きそう』
『綾乃:やめて』
『杏奈:予言しないで』
『琉生:じゃあ明後日』
『すず:伸ばしただけじゃん』
綾乃は笑った。
そこへ。
『恵斗:何の話』
『すず:明日の広沢』
『恵斗:何かあるの?』
『綾乃:中川先輩が勝手に予言してます』
『琉生:明日、何か起こる』
『恵斗:じゃあ俺は関わらない』
『すず:正解』
『綾乃:逃げた』
『恵斗:受験生なので』
『琉生:強い』
どうでもいい会話が続いていく。
その中で、杏奈は何も言わなかった。
綾乃は昼間の会話を思い出す。
杏奈は、本当に恵斗が自分を好きだと思ったのだろうか。
そんなことを考えると、少しだけ変な気分になる。
もちろん、ありえない。
恵斗にとって自分は、ただの相談相手。
そう思っていた。
*
翌日の昼休み。
「牧」
綾乃が弁当を食べていると、優太が机の横に立った。
「ん?」
「これ、昨日のプリント」
優太が一枚の紙を差し出す。
「ありがとう」
「先生が配ってたやつ」
「私、もらったっけ?」
「知らない」
「知らないのに持ってきたの?」
「牧、忘れてそうだったから」
「……よく分かったね」
「いつも机の中ぐちゃぐちゃじゃん」
「そんなことないよ」
「ある」
「ない」
「ある」
「松寺くん、失礼」
「事実」
綾乃がプリントを受け取る。
「でも、ありがとう」
「どういたしまして」
優太はそのまま自分の席へ戻ろうとした。
「あ」
綾乃が呼び止める。
「何?」
「今日、帰り寄り道する?」
「しない」
「即答」
「何で?」
「いや、コンビニ行こうかなって」
「一人で行けば?」
「冷たい」
「松寺くんが先に冷たいこと言った」
「じゃあ一緒に行く?」
「……今日は部活」
「ああ、そうだった」
「ごめんね」
「別に」
優太は笑った。
「じゃ、また今度」
「うん」
優太が戻っていく。
綾乃は受け取ったプリントに目を落とした。
何でもない会話だった。
いつもの友達とのやり取り。
それだけだった。
*
その日の放課後。
綾乃が美術室に入ると、恵斗が先に来ていた。
「お疲れ」
「あ、先輩」
「今日、ちょっと聞きたいことある」
「何ですか?」
恵斗は一瞬だけ言葉を止めた。
「……いや」
「?」
「あとでいい」
「何それ」
「何でもない」
「またですか?」
「また」
「先輩まで、すずみたいになってきましたね」
「知らない」
「ほら」
綾乃が笑う。
恵斗も笑った。
そのあと、少しだけ沈黙が流れる。
「綾乃」
「はい?」
「昨日、水上と話しただろ」
「はい」
「……何か言ってた?」
綾乃は少し考える。
「先輩のことを、まだ気にしてるんだと思います」
「……そっか」
「はい」
「ありがとな」
「何がですか?」
「話してくれて」
「いえいえ」
綾乃は笑った。
恵斗も少しだけ笑う。
綾乃にとっては、それだけだった。
自分はただ、二人の間にいる相談相手。
杏奈の気持ちを聞いて。
恵斗の気持ちを聞いて。
必要なときに話を聞くだけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
少なくとも、今は。
けれど。
その「ただの相談相手」という関係を、杏奈が少しだけ気にし始めていることを。
綾乃は、まだ知らなかった。




