第三話 杏奈先輩は、まだ諦めていない
翌日の放課後。
綾乃は、美術室の窓を開けながら外を見た。
「今日、平和だね」
隣で絵の具を片付けていたすずが振り返る。
「何が?」
「広沢がまだ何もしてない」
「……確かに」
二人で顔を見合わせる。
「逆に怖いな」
「やめてよ」
「でも、あいつの場合、本当に何もない日のほうが珍しいし」
「今日は平和で終わってほしい」
「無理じゃない?」
「何で?」
「広沢だから」
「それはそう」
綾乃は苦笑した。
その時。
美術室のドアが開いた。
「お疲れ」
「あ、先輩」
恵斗だった。
制服の上に鞄を掛け、いつものように片手に参考書を持っている。
「図書室帰りですか?」
「うん」
「勉強どうですか?」
「普通」
「普通って便利な言葉ですね」
「綾乃は?」
「私は今から片付けです」
「そう」
恵斗は美術室を見回した。
「広沢は?」
綾乃とすずが同時に答える。
「まだ何もしてません」
「いるの?」
「います」
「じゃあ、何かやらかすな」
「何でですか!」
美術室の隅から声が飛んできた。
広沢だった。
「俺、今日は何もしてないですよ」
「だからだろ」
「意味分かんないです」
恵斗は呆れたように笑った。
綾乃も笑う。
「先輩、昨日のことまだ言ってます?」
「昨日?」
「広沢の一時間トイレ」
「ああ」
恵斗は思い出したように頷いた。
「面白かった」
「先輩、ほんと性格悪いです」
「何で」
「私が怒ってたの見て笑ってたじゃないですか」
「だって珍しかったから」
「もう」
綾乃は頬を膨らませる。
すずが横でニヤニヤしていた。
「何?」
「いや」
「その顔やめて」
「別に?」
すずは何も言わなかった。
ただ、二人のやり取りを面白そうに見ていた。
その日の片付けが終わる頃。
恵斗は先に美術室を出ていった。
「じゃあ、俺戻る」
「はい。勉強頑張ってください」
「うん」
ドアが閉まる。
すずが言った。
「仲いいね」
「誰と?」
「先輩」
「そう?」
「そう」
「恋バナするからじゃない?」
「それだけ?」
「それだけだよ」
綾乃は何の疑いもなく答えた。
すずは少しだけ綾乃の顔を見る。
「……まあいいけど」
「何?」
「別に」
「昨日もそれ言ってた」
「便利だから」
「先輩と一緒じゃん」
二人で笑った。
*
その日の帰り。
綾乃が昇降口で靴を履き替えていると、後ろから声を掛けられた。
「綾乃ちゃん」
振り返る。
杏奈だった。
「杏奈先輩」
「今帰る?」
「はい」
「一緒にちょっといい?」
「もちろんです」
二人は校舎の端を歩いた。
杏奈は、しばらく何も言わなかった。
そして。
「……昨日ね」
「はい」
「恵斗先輩と、少し話したの」
「そうなんですか?」
「うん」
綾乃は黙って聞く。
「普通に話してくれた」
「よかったですね」
「でも」
杏奈は小さく息を吐いた。
「やっぱり前みたいには戻れないんだなって思った」
「……」
「なんかさ」
杏奈が笑う。
「前は、もっと優しかったんだよ」
「そうなんですね」
「今は、私が何を言っても『そう』『うん』『知らない』って感じで」
「先輩、そういうところありますから」
「綾乃ちゃんにも?」
「私には普通です」
「……そっか」
杏奈がまた少し黙る。
「ねえ」
「はい?」
「恵斗先輩って」
「はい」
「最近、誰か好きな人いるのかな」
綾乃の足が一瞬だけ止まりそうになった。
けれど。
すぐに歩き出す。
「どうでしょう」
「綾乃ちゃん、知らない?」
「……何で私が知ってると思うんですか?」
「だって」
杏奈が困ったように笑う。
「恵斗先輩、綾乃ちゃんとはよく話してるじゃん」
「恋バナですよ」
「うん」
「でも、私も全部知ってるわけじゃないです」
嘘ではない。
全部ではない。
ただ。
環のことを知っている。
それだけは、恵斗との約束のようなものだった。
「そっか」
「はい」
「じゃあ」
杏奈が少し迷うように言う。
「もし何か聞いたら、教えてほしい」
「え?」
「恵斗先輩に好きな人がいるかどうか」
綾乃は少し考えた。
そして、慎重に答える。
「……本人が話していいって言ったことなら」
「うん」
「勝手には言えません」
「そっか」
杏奈は少し残念そうだった。
「ごめんね」
「何がですか?」
「困らせちゃった」
「大丈夫ですよ」
「綾乃ちゃんって優しいね」
「そうですか?」
「うん」
杏奈は笑った。
「だから恵斗先輩も、綾乃ちゃんには話しやすいのかも」
「そうなんですかね」
「うん」
綾乃は少し考えた。
恵斗が自分に相談してくる理由。
確かに、よく分からない。
ただ恋バナをしているだけだと思っていた。
けれど。
杏奈にそう言われると、少しだけ気になった。
*
その夜。
いつものグループトーク。
『すず:今日の広沢』
『綾乃:何?』
『すず:何もしてなかった』
『綾乃:怖い』
『杏奈:何もしてないのに怖がられる広沢くん』
『琉生:信頼されてる』
『綾乃:それは違う』
『すず:むしろ逆』
『琉生:なるほど』
綾乃は笑った。
そこへ。
『恵斗:お前ら暇だな』
『すず:先輩もいるじゃん』
『恵斗:勉強の休憩』
『綾乃:ちゃんと勉強してください』
『恵斗:してる』
『綾乃:ほんとですか?』
『恵斗:してるって』
『琉生:受験生えらい』
『恵斗:お前も勉強しろ』
『琉生:俺は明日から』
『すず:絶対やらないやつ』
『琉生:失礼』
しばらく、どうでもいい話が続いた。
そして。
『杏奈:そういえば』
綾乃の指が止まった。
『杏奈:恵斗先輩って最近忙しい?』
『恵斗:受験』
『杏奈:そっか』
『杏奈:じゃあ部活あんまり来ないよね』
『恵斗:引退してるからな』
『杏奈:そっか』
それだけだった。
けれど。
綾乃には分かっていた。
杏奈は、まだ恵斗のことを気にしている。
そして恵斗も。
杏奈が自分を気にしていることを、たぶん分かっている。
だから。
グループトークでは、二人とも余計なことを言わない。
その微妙な距離感を見ていると、綾乃は何となく面白くなってくる。
恋愛は、こういうところが面白い。
言葉にしていないことほど、分かってしまう。
しばらくして。
『琉生:眠い』
『すず:また?』
『琉生:今日は頑張った』
『綾乃:何をですか?』
『琉生:起きてた』
『綾乃:偉い』
『すず:基準が低すぎる』
『恵斗:寝ろ』
『琉生:寝る』
『杏奈:おやすみ』
『琉生:おやすみ』
数秒後。
『琉生:……』
『すず:寝た』
『綾乃:早い』
『恵斗:秒』
綾乃は吹き出した。
「中川先輩、今日も平和だなあ」
そう呟く。
すると。
『恵斗:綾乃』
個人メッセージだった。
『はい?』
『今日、水上と話した?』
綾乃は少し考える。
杏奈との約束を思い出す。
恵斗にも、杏奈にも、勝手に相手の話を伝えるつもりはない。
『話しました』
『何の話?』
『……恋愛相談です』
しばらく既読がつかなかった。
やがて。
『やっぱり』
『何ですか?』
『いや』
『?』
『水上、何か言ってた?』
綾乃はスマホを見つめた。
ここで何を言うか。
少し迷う。
杏奈の言葉。
――恵斗先輩に好きな人がいるのかな。
それを、そのまま伝えることはできない。
『先輩のこと、まだ気にしてるんだと思います』
それだけ送った。
しばらくして。
『……そっか』
『はい』
『ありがと』
『どういたしまして』
そこで終わるかと思った。
しかし。
『綾乃』
『はい?』
『俺のこと、水上に何か聞かれても』
『はい』
『適当に流して』
『分かりました』
『特に』
一度、入力中の表示が消える。
そして。
『俺が誰か好きとか、そういうのは』
綾乃は画面を見つめた。
『言わないで』
その一文に。
綾乃は少しだけ目を細めた。
『分かりました』
すぐに返信する。
『約束します』
既読。
しばらくして。
『ありがと』
それだけだった。
綾乃はスマホを伏せた。
「……やっぱり」
独り言が漏れる。
恵斗は、まだ杏奈に何かを言うつもりはない。
それは分かっていた。
そして。
自分が知っていることも、まだ言わないほうがいい。
森本環。
恵斗が今好きな人。
その名前を思い浮かべる。
「……先輩も大変だな」
綾乃は小さく笑った。
自分はただ、相談に乗っているだけ。
杏奈の気持ちも。
恵斗の気持ちも。
少し離れたところから見ているだけ。
そう思っていた。
*
一方。
学校から少し離れたファストフード店。
恵斗は参考書を閉じた。
「お前さ」
向かいに座っていた遥翔が言う。
「何」
「最近、牧とよく連絡取ってる?」
「……まあ」
「へえ」
「何だよ」
「いや」
遥翔はポテトを一つ取った。
「牧って、どんな奴?」
「普通」
「普通?」
「普通」
「お前が一年の女子を『普通』って説明するの珍しいな」
「そう?」
「うん」
恵斗は少し考える。
「話しやすいだけ」
「恋バナするから?」
「それもある」
「ふーん」
遥翔は笑った。
「で?」
「何」
「水上の相談も牧にしてる?」
恵斗が一瞬だけ黙る。
「……してる」
「なるほど」
「何だよ」
「いや」
遥翔は、それ以上聞かなかった。
恵斗には、まだ分からない。
自分がなぜ綾乃に話したくなるのか。
なぜ、綾乃の反応が気になるのか。
ただ。
恋愛のことを話せる相手。
それくらいにしか思っていない。
少なくとも、今は。
*
翌日の昼休み。
「牧」
「ん?」
教室で弁当を食べていた綾乃の机の横に、優太が立った。
「今日、部活?」
「うん」
「毎日だな」
「文化祭近いからね~」
「そっか」
優太は机に手をつく。
「そういえばさ」
「何?」
「昨日、帰るの遅かった?」
「うん。ちょっと」
「広沢?」
「それもある」
「また?」
「昨日は何もしてない」
「それ一番怖いやつじゃん」
「すずにも言われた」
綾乃が笑う。
優太も笑った。
「牧って、美術部楽しそうだよな」
「楽しいよ」
「先輩とか?」
「うん。みんな面白い」
「へえ」
優太は特に深く考えずに頷いた。
「じゃ、また」
「うん」
優太が去っていく。
綾乃は弁当を食べながら思う。
学校は、普通に楽しい。
美術部も楽しい。
恋バナも楽しい。
先輩と話すのも楽しい。
だから。
この日常が、この先少しずつ変わっていくなんて。
綾乃は、まだ考えていなかった。
*
その日の夜。
グループトークには、今日も全員が揃っていた。
ただし。
広沢を除いて。
『すず:今日の広沢』
『綾乃:何』
『すず:先生に呼ばれてた』
『杏奈:何したの?』
『すず:知らない』
『琉生:何したんだろ』
『恵斗:どうせ何かした』
『綾乃:それ』
『杏奈:本人いないのに決めつけられてる』
『すず:本人がいないから決めつけ放題』
『綾乃:本人LINEできないしね』
『恵斗:明日聞けば』
『琉生:明日まで覚えてるかな』
『すず:私は忘れる』
『綾乃:私も』
そんな、どうでもいい会話。
その中に。
まだ誰も知らない小さな変化が、一つだけあった。
恵斗から綾乃への個人メッセージ。
以前より、少し増えている。
綾乃は、それを特別なことだとは思っていない。
恵斗も、たぶんまだ思っていない。
ただ。
相談する相手がいる。
話を聞いてくれる後輩がいる。
それだけ。
――今は。
そして。
その「それだけ」が。
少しずつ。
二人にとって、当たり前ではなくなっていくことを。
この時の綾乃は、まだ知らなかった。




