第三十六話 知らない声
金曜日の放課後。
綾乃が昇降口で靴を履き替えていると、後ろから声をかけられた。
「綾乃」
「ん?」
振り返る。
そこに、優太がいた。
「今帰り?」
「うん。今日は部活ないから」
「俺も」
「そっか」
綾乃が鞄を肩にかける。
優太が少しだけ考えてから言った。
「じゃあ、一緒に帰る?」
「うん」
それだけで決まった。
二人で昇降口を出る。
「今日、暇だったな」
「そう?」
「部活ないと、なんか変な感じする」
「分かる」
そんな話をしながら、駅へ向かって歩いていく。
最近は。
こうして優太と一緒にいることが、少しずつ自然になっていた。
*
駅までの道。
学校のこと。
クラスのこと。
どうでもいい話をしながら歩く。
「そういえば」
優太が言った。
「この前の映画」
「ああ」
「続編、もう公開日出てたよ」
「ほんと?」
「再来週の土曜日」
「へえ」
綾乃がスマホを取り出す。
「本当だ」
「行く?」
「……うん」
答えるのに、迷いはなかった。
「また一緒に行こう」
「うん」
優太が笑う。
「楽しみだな」
「私も」
綾乃も笑った。
「時間はまた決めよう」
「そうだね」
「前みたいに、少し早めに行く?」
「うん。いいよ」
「じゃあ決まり」
二人で笑う。
そのまま駅へ向かった。
*
改札前。
人の流れが少しずつ増えている。
「じゃあ、俺こっち」
「うん」
優太が手を上げる。
綾乃も手を振った。
「また連絡する」
「うん」
「映画のこと」
「分かった」
そこで。
綾乃が笑う。
「楽しみ」
その声は。
いつもの綾乃より、少し高かった。
明るく。
弾んでいる。
自分でも気づかないくらい、嬉しそうな声だった。
*
その少し前。
恵斗と遥翔が駅へ向かって歩いていた。
「今日、このまま帰る?」
遥翔が聞く。
「うん」
「じゃあ駅まで行くか」
「そうだな」
二人で改札の近くまで来たときだった。
「……」
恵斗が足を止める。
聞き覚えのある声がした。
「楽しみ」
恵斗が顔を上げる。
「……綾乃?」
改札前。
綾乃が松寺と向かい合っていた。
笑っている。
その声も。
表情も。
いつもの綾乃とは、少し違って見えた。
「恵斗?」
遥翔が呼ぶ。
「……」
恵斗は答えない。
綾乃がまた笑った。
「じゃあ、また連絡するね」
「うん」
「楽しみにしてる」
恵斗の眉が、わずかに動く。
――また。
映画。
しかも。
あんな声。
「恵斗」
「何」
「行くぞ?」
「ああ」
恵斗は歩き出した。
けれど。
数歩進んだところで、もう一度振り返る。
綾乃はまだ松寺と話していた。
恵斗はすぐに前を向いた。
*
駅を出てから。
しばらく二人は黙って歩いた。
「……映画」
恵斗が突然言った。
「ん?」
「また行くんだな」
「そうみたいだな」
「この前も行ってたのに」
「そうだな」
「……また行くんだ」
「うん」
遥翔は恵斗を見る。
さっきから。
同じことを何度言うんだ。
「楽しみって言ってたな」
「聞こえた」
「声、結構弾んでたな」
「……」
恵斗が黙る。
「何だよ」
「別に」
「いや、別にって感じじゃないぞ?」
「……」
恵斗は少し歩く速度を上げた。
遥翔も合わせる。
「牧って、あんな表情で笑うんだな」
「……そうだな」
「知らなかった?」
「……知らなかった」
恵斗は短く答えた。
その声が。
少しだけ不機嫌だった。
遥翔は、それを聞いて笑いそうになる。
「何笑ってんだよ」
「笑ってない」
「笑ってるだろ」
「気のせい」
「絶対笑ってる」
遥翔は前を向く。
そして。
少しだけ間を置いて言った。
「まあ、楽しそうでよかったじゃん」
「……」
恵斗は答えない。
「何か言えよ」
「別に」
「またそれ?」
「うるさい」
遥翔は、とうとう小さく笑った。
――これは。
かなり分かりやすい。
けれど。
本人は、まだ気づいていないらしい。
*
その夜。
恵斗は机に向かっていた。
参考書を開いている。
けれど。
なかなかページが進まない。
「……」
頭に浮かぶ。
綾乃の声。
楽しそうな顔。
松寺と話していたこと。
また映画に行くこと。
何度考えても。
別に、おかしくない。
綾乃が誰と映画に行こうが。
誰と帰ろうが。
自分には関係ない。
「……」
そう思う。
なのに。
胸の奥に、嫌なものが残っている。
何が嫌なのか。
恵斗には分からない。
ただ。
松寺といる綾乃が。
自分の知らない声で笑っていたことが。
妙に気に入らなかった。
「……何だよ」
恵斗はシャーペンを机に置いた。
そして。
もう一度、今日のことを思い出す。
――楽しみ。
綾乃はそう言っていた。
あんな顔で。
あんな声で。
「……」
恵斗は眉間に皺を寄せる。
別に。
嫉妬しているわけじゃない。
そんな理由はない。
綾乃は後輩で。
自分は先輩で。
それだけだ。
松寺だって、同じクラスの友達だ。
何も問題ない。
何も。
なのに。
「……面白くない」
ぽつりと出た言葉に。
恵斗自身が一番驚いた。
「……は?」
誰に言うでもなく。
恵斗はしばらく黙っていた。
そして。
自分で出した言葉を打ち消すように、参考書を開き直した。
「……勉強しよ」
そう呟く。
けれど。
しばらくの間。
問題文は、まったく頭に入ってこなかった。




