第三十五話 いつも通り
木曜日の放課後。
綾乃は、美術室へ向かうために廊下を歩いていた。
昨日。
先輩と少しだけメッセージをした。
忙しかったわけではなかったらしい。
それなら。
やっぱり、あの日だけ少し様子が違ったのだろうか。
「……」
考えても、理由は分からない。
綾乃は小さく息を吐いた。
そのとき。
「綾乃」
後ろから名前を呼ばれた。
振り返る。
「恵斗先輩」
恵斗が歩いてきた。
「今から部活?」
「はい」
「今日も?」
「今日もです」
「そっか」
あの日と同じ会話。
なのに。
今日は、そこで終わらなかった。
「昨日、何やってた?」
「昨日?」
「部活」
「ああ。文化祭のときの絵を片づけてました」
「まだ残ってんの?」
「少しだけです」
「大変だな」
「でも、もうすぐ終わりますよ」
「へえ」
恵斗は少し笑った。
綾乃も笑う。
昨日まで。
何となく気になっていたものが、少しずつ消えていく。
「先輩は?」
「俺?」
「はい」
「今日も帰るだけ」
「勉強ですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「帰ってから考える」
「考えることなんですか?」
「分かんない」
「ふふ」
綾乃が笑う。
恵斗も笑った。
そう。
いつも通りだ。
別に、何か特別な話をしているわけではない。
ただ。
恵斗先輩と、どうでもいい話をしている。
それだけなのに。
昨日より、ずっと自然だった。
綾乃は、それが少し嬉しかった。
いや。
嬉しいというより。
安心した。
「じゃあ、そろそろ行きます」
「ああ」
「先輩も、勉強頑張ってください」
「おう」
「じゃあ」
「綾乃」
綾乃が振り返る。
「はい?」
「今日、何時まで部活?」
「え?」
少し意外だった。
「……五時くらいですけど」
「そっか」
「どうかしました?」
「いや」
恵斗は少しだけ考えて。
「別に」
「……そうですか」
「じゃあな」
「はい。また」
恵斗は歩いていった。
綾乃はその背中を見送る。
そして。
昨日とは違う気持ちで、美術室へ向かった。
*
美術室。
すずが絵を描いていた。
綾乃が入ってくる。
「遅かったね」
「うん。廊下で先輩と話してた」
「へえ」
すずは手を止めずに言った。
「この前の先輩とは違った?」
綾乃が少し驚く。
「覚えてたの?」
「聞いたから」
「そうだけど」
すずはようやく綾乃を見る。
「で?」
「普通だった」
「普通」
「うん」
綾乃は自分の席に鞄を置く。
「この間のほうが、なんか変だった」
「今日は?」
「今日は、いつも通り」
その言い方が。
すずには少し引っかかった。
綾乃が、ほっとしているように見えたからだ。
「そっか」
「うん」
それだけ。
すずは、それ以上聞かなかった。
昨日。
綾乃は恵斗先輩がすぐ行ってしまったことを気にしていた。
今日は。
いつも通り話せたことで、安心している。
そのことを。
綾乃自身は、まだ何とも思っていないらしい。
すずは少しだけ考えてから、また絵に視線を戻した。
*
その日の帰り。
恵斗は校門の近くで遥翔と合流した。
「お待たせ」
「別に待ってない」
「待ってたじゃん」
「たまたまそこにいただけ」
「何それ」
二人で歩き始める。
「今日、牧と会った?」
遥翔が言った。
恵斗は少しだけ横を見る。
「見てた?」
「いや。見てない」
「じゃあ何で分かるんだよ」
「さっき、廊下で牧が前にいたから」
「ああ」
恵斗は前を向いた。
「普通に話しただけ」
「そう」
「何だよ」
「別に何も」
恵斗は少しだけ眉をひそめる。
「……今日は、普通に話した」
「この前も普通だっただろ」
「……そうだけど」
「じゃあ、何が違うの」
「この前みたいに、すぐ帰ったわけじゃない」
言ってから。
恵斗が少し黙る。
遥翔は横目で恵斗を見た。
「それ、気にしてたのか?」
「気にしてない」
「じゃあ、何で言ったんだよ」
「……別に」
遥翔が笑う。
恵斗は少し不満そうに息を吐いた。
「昨日、変だったって言われたから」
「誰に?」
「綾乃」
遥翔は少しだけ黙った。
「それで?」
「別に」
「いや、聞いてんだけど?」
「だから。普通に話しただけ」
「ふうん」
「何だよ」
「いや」
遥翔は前を向いたまま、少しだけ笑った。
あの日。
恵斗は、牧を避けているわけではないと言っていた。
今日は。
それを証明するように、普通に話したらしい。
ただ。
そのために。
昨日の会話を気にして。
今日の自分の話し方を意識していた。
それが。
遥翔には少し面白かった。
でも。
それ以上は何も言わなかった。
*
夜。
綾乃が自宅に戻ると、スマホにメッセージが届いていた。
『優太:この前の映画、続編やるらしい』
綾乃はすぐに返信する。
『綾乃:ほんと?』
『優太:うん。来月』
『綾乃:見たい』
送ってから。
少しして、優太から返事が来る。
『優太:じゃあ一緒に行く?』
綾乃は画面を見て笑った。
『綾乃:うん』
約束をしたわけではない。
まだ日にちも決めていない。
それでも。
また一緒に映画を見に行くことが、自然に思えた。
綾乃はスマホを置く。
今日のことを思い出す。
部活。
すずとの会話。
そして。
恵斗先輩との、どうでもいい話。
昨日まで、少し気になっていた。
でも。
今日は普通だった。
「……」
綾乃はベッドに横になる。
優太とまた出かけるのが楽しみだと思った。
それと同じくらい。
今日、先輩といつも通り話せたことに、少し安心していた。
その二つを。
綾乃は、まだ特別に比べることはなかった。




