第三十四話 考えないようにする
火曜日の放課後。
授業を終えた綾乃は、美術室へ向かうために廊下を歩いていた。
窓の外は、少しずつ夕方の色になり始めている。
前のほうから、恵斗が歩いてきた。
「……綾乃」
顔を上げる。
「先輩」
「今から部活?」
「はい」
「そっか」
恵斗は、それだけ言った。
少しだけ間があって。
「じゃあ、頑張れ」
「……はい」
綾乃が答える。
「先輩は、もう帰るんですか?」
「うん」
「そうですか」
「じゃあな」
「はい。また」
恵斗はそのまま歩き出した。
少し離れた場所で待っていた遥翔のところへ向かう。
綾乃は、二人の背中を見送った。
「……」
いつもなら。
もう少し話していたような気がした。
別に、長い会話をしていたわけではない。
今日のこと。
部活のこと。
どうでもいい話をすることもある。
それなのに。
今日は、あまりにも早かった。
「忙しかったのかな」
綾乃は小さく呟いた。
それ以上考えず、美術室へ向かった。
*
遥翔は、恵斗の隣を歩き始めた。
「随分早かったな」
「何が」
「牧と話すの」
恵斗が遥翔を見る。
「部活行くんだろ」
「うん」
「じゃあ、邪魔しないほうがいいと思っただけ」
「へえ」
遥翔はそれだけ言った。
恵斗は少し眉をひそめる。
「何だよ」
「何でもない」
「何か言いたそうだけど」
「別に」
遥翔は前を向く。
さっきの恵斗の様子を思い出していた。
牧と会えば。
今までは、もう少し自然に話していた。
部活へ向かう途中だろうと、関係ない。
だから。
今日の恵斗は、明らかに早かった。
急いでいるようにも見えた。
でも。
実際には、急ぐ理由なんてない。
駅伝大会の日から。
恵斗は、牧のことを少し気にするようになった。
そして今度は。
気にしないようにしている。
――たぶん。
遥翔はそう思った。
*
翌日の昼休み。
綾乃は中庭のベンチで、すずと一緒に昼食を食べていた。
「そういえば昨日さ」
綾乃が言う。
「うん?」
「先輩と廊下で会ったんだけど」
すずは箸を止める。
「うん」
「なんか、すぐ行っちゃった」
「用事あったんじゃない?」
「うん。そうだと思うんだけど」
綾乃は少し首を傾げた。
「でも、いつもより早かった気がする」
「そう?」
「うん」
すずは綾乃を見る。
最近。
綾乃の話題には、優太の名前がよく出ていた。
映画のこと。
駅伝のこと。
次はどこへ行こうか、という話。
先輩とは、以前から普通に仲がいい。
だからこそ。
昨日、少し話しただけのことを。
今日になって綾乃が話題にするのが、すずには少し意外だった。
内容自体は大したことではない。
先輩が、いつもより少し早くその場を離れた。
それだけだ。
けれど。
綾乃は、少し気にしているようだった。
すずはおにぎりを一口食べながら考える。
――それとも、綾乃は前から、こんなふうに恵斗先輩のことを気にしていたっけ。
「すず?」
「ん?」
「どうしたの?」
「何でもない」
「そう?」
「うん」
綾乃はそれ以上聞かなかった。
すずも、今はまだ答えを出す必要はないと思った。
*
その日の夜。
恵斗は机に向かっていた。
参考書を開く。
問題を解く。
ページをめくる。
昨日よりは、集中できている。
それでいい。
余計なことを考えない。
綾乃が誰と仲良くしているとか。
松寺とどうしているとか。
そんなことは、自分には関係ない。
「……」
ふと。
昨日、廊下で会ったときのことを思い出す。
綾乃は。
何か話したそうにしていただろうか。
自分がすぐ行ってしまったから。
少し変に思っただろうか。
恵斗はシャーペンを止めた。
「……」
だから。
こういうことを考えるから駄目なんだ。
普通にすればいい。
変に気にしなければいい。
そう思って、もう一度参考書に目を向けた。
そのとき。
スマホが震えた。
画面を見る。
『綾乃:先輩、昨日忙しかったですか?』
恵斗の指が止まった。
昨日。
廊下で会ったときのことだ。
自分では。
別に普通だったつもりだった。
なのに。
綾乃にも、何か違って見えたらしい。
『恵斗:別に。何で?』
すぐに返信が来る。
『綾乃:なんとなくです』
なんとなく。
恵斗はその文字を見つめる。
『恵斗:別に、忙しくなかった』
送ってから。
少しだけ考える。
すると。
『綾乃:そうなんですね』
それだけだった。
恵斗はスマホを置く。
別に。
何でもない会話だ。
それなのに。
「……」
綾乃が自分のことを気にしていた。
その事実が。
なぜか、少しだけ頭に残った。
恵斗は参考書に視線を戻す。
そして。
さっきよりも少し長い時間。
同じページを眺めていた。
*
その少し後。
スマホがもう一度震えた。
『遥翔:今日、勉強進んだ?』
恵斗は画面を見る。
『恵斗:一応』
『遥翔:一応ってなんだよ』
恵斗は少しだけ笑った。
『恵斗:そっちは?』
『遥翔:俺も一応』
短いやり取りを終えて、スマホを置く。
また参考書に目を向ける。
でも。
さっきより、さらに集中できなくなっていた。
「……」
恵斗は小さく息を吐く。
そして。
昨日までより少しだけ。
綾乃のことを考えないようにすることを意識した。
それが。
余計に頭から離れなくなることにも、まだ気づいていなかった。




