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今日も、たぶん平和じゃない  作者: RieL


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第三十二話 知らなかったこと

 水曜日。


 放課後。


 美術室では、綾乃が一人で画用紙に向かっていた。


 筆を置いて、少し離れたところから自分の絵を見る。


「……うーん」


 もう少しだけ直したい。


 そう思って筆を持ち直したとき。


 扉が開いた。


「綾乃」


「あ、先輩」


 恵斗だった。


「一人?」


「はい。今日はまだ誰も来てなくて」


「そう」


 恵斗は室内に入ると、壁際の椅子に腰を下ろした。


「何してんの?」


「描いてます」


「それは見れば分かる」


「じゃあ、聞かないでください」


「何となく」


「先輩、最近それ多くないですか?」


「そう?」


「はい」


 綾乃が笑う。


 恵斗も少し笑った。


「この前の映画、どうだった?」


 ふいに聞かれて。


「ああ」


 綾乃はすぐに思い出した。


「面白かったですよ」


「そう」


「杏奈先輩がおすすめしてくれた映画だったんですけど、すごくよかったです」


「へえ」


「途中、ちょっと泣きました」


「やっぱり」


「何で『やっぱり』なんですか」


「何となく」


「またそれ」


 綾乃が笑う。


「先輩は映画とか見ないんですか?」


「最近はあんまり。受験あるし」


「そっか」


「でも、終わったら何か見たいな」


「じゃあ、そのときおすすめします」


「綾乃が?」


「はい」


「じゃあ、期待しとく」


「任せてください」


 二人で笑う。


 それから少しだけ、映画の内容について話した。


 どの場面がよかったか。


 最後はどう思ったか。


 そんな話をしているうちに。


「そういえば」


 恵斗が言った。


「誰と行ったの?」


 綾乃が顔を上げる。


「映画ですか?」


「ああ」


「松寺くんです」


「……松寺」


「はい」


 恵斗の声が、一瞬だけ低くなった。


「二人で?」


「はい」


「へえ」


 それ以上、恵斗は聞かなかった。


 綾乃は少しだけ首を傾げる。


「楽しかったですよ」


「そう」


「松寺くんも楽しそうでした」


「……そうなんだ」


 恵斗はそれだけ答えた。


 綾乃は特に気にせず、再び絵に向き直る。


「また映画行くかもしれないです」


「……また?」


「はい。次、何見るかって話もしたので」


「そう」


 恵斗はそれ以上何も言わなかった。


「じゃあ、俺そろそろ行く」


「はい」


「頑張って」


「先輩も」


「うん」


 恵斗は立ち上がる。


「またな、綾乃」


「はい。また」


 扉が閉まる。


 綾乃は、何となくその方向を見る。


 今日はいつもより少しだけ、先輩が静かだったような気がした。


 でも。


 理由までは分からなかった。


 *


 廊下に出た恵斗は、そのまま歩き始めた。


 頭の中には。


 さっきの会話が残っていた。


 ――松寺くんです。


 ――二人で?


 自分がそう聞いたことを思い出す。


「……」


 何で聞いたんだ。


 綾乃が誰と映画に行ったかなんて。


 別に、知らなくてもよかった。


 グループトークで「クラスの友達と行く」と言っていた。


 だから。


 誰かと行くんだろうとは思っていた。


 それだけだった。


 なのに。


 実際に「松寺」と聞いた瞬間。


 なぜか、少し引っかかった。


 しかも。


 また映画に行くかもしれない。


 その言葉まで、妙に耳に残っている。


「……何なんだよ」


 小さく呟いたところで。


「恵斗」


 後ろから声がした。


 振り返る。


「遥翔」


「今、帰るとこ?」


「ああ」


「じゃあ一緒に行く?」


「うん」


 二人で並んで歩き始める。


 しばらくして。


「恵斗、さっきどこ行ってた?」


「美術室」


「へえ」


「綾乃いた」


「そう」


 遥翔は、それ以上聞かなかった。


 けれど。


 少し歩いたところで、恵斗が口を開いた。


「……綾乃」


「ん?」


「この前、映画行ったらしい」


 遥翔が横を見る。


「そうなんだ」


「松寺と」


「へえ」


「二人で」


 遥翔は、ほんの少しだけ黙った。


「……情報が細かいな」


「何が?」


「いや」


「何だよ」


「映画行ったってことだけなら、今の話で分かったけど」


「……」


「松寺と二人って、そこまで言うんだなと思って」


 恵斗が少し眉を寄せる。


「聞いたから」


「誰に?」


「綾乃に」


「ふーん」


 遥翔は前を向いた。


「楽しかったらしい」


「そっか」


「また行くかもしれないって」


 言ったあと。


 恵斗自身が少しだけ黙った。


 遥翔も黙る。


 そして。


「恵斗」


「何」


「お前、牧の話するときだけ、妙に詳しいな」


「そうか?」


「うん」


「たまたまだろ」


「そうかもな」


 遥翔は、それ以上何も言わなかった。


 ただ。


 隣を歩く恵斗の横顔を、もう一度だけ見る。


 恵斗は、本当に気づいていない顔をしていた。


 だからこそ。


 遥翔は何も言えなかった。


 *


 遥翔は、恵斗のことを昔から知っている。


 森本のことを話すときの恵斗は、分かりやすい。


 少し照れたり。


 何気なく名前を出したり。


 どう見ても、気になっている。


 だから。


 恵斗が森本を好きだということに、疑問を持ったことはなかった。


 でも。


 牧の話になると。


 少し違う。


 自分から話しかける。


 誰といたのかを気にする。


 そして。


 本人は、その理由を説明できない。


「……」


 遥翔は、隣の恵斗を見る。


 本人が気づくまでは。


 たぶん、誰が何を言っても意味がない。


 だから。


 今は何も言わない。


 ただ。


 少しだけ気になった。


 ――恵斗は、いつからこんなふうになったんだろう。


 *


 その夜。


 恵斗は自分の部屋で参考書を開いていた。


 問題を解く。


 丸をつける。


 次のページへ進む。


 いつも通りの勉強。


 なのに。


 集中できない。


「……」


 シャーペンを置く。


 頭に浮かぶのは。


 今日の綾乃だった。


 映画が楽しかったこと。


 松寺と二人で行ったこと。


 また行くかもしれないこと。


「……別に」


 今度は、自分に言い聞かせるように呟く。


 綾乃が誰と映画に行こうが。


 誰と仲良くしようが。


 自分には関係ない。


 好きなのは森本だ。


 そのことは変わらない。


 それなのに。


 どうして。


 松寺と二人で映画に行ったと聞いたことが。


 こんなに頭に残っているのか。


 恵斗には分からなかった。


 ふと。


 今日、綾乃が言った言葉を思い出す。


 ――また映画行くかもしれないです。


 恵斗は眉をひそめる。


「……何で気になるんだよ」


 答えは出ない。


 参考書に目を戻す。


 けれど。


 しばらくしても。


 ページの文字は、ほとんど頭に入ってこなかった。


 知らなかった。


 綾乃が誰と映画に行くのか。


 誰と休日を過ごすのか。


 今まで、そんなことを知る必要なんてなかった。


 それなのに。


 一度知ってしまったら。


 知らなかった頃には戻れないような。


 そんな妙な感覚だけが残っていた。

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