第二十九話 気づいてないのは
昼休み。
中庭のベンチに座って、綾乃とすずはお弁当を食べていた。
クラスは違うけれど、昼休みになるとこうして一緒に過ごすことが多い。
「今日、ちょっと暑くない?」
綾乃が空を見上げる。
「昨日よりはマシじゃない?」
「そう?」
「綾乃が暑がりなだけでしょ」
「そんなことないよ」
「ある」
「ないって」
二人でそんな話をしながら、お弁当を食べる。
いつも通りの昼休み。
そう思っていたところに。
「綾乃」
声がした。
綾乃が顔を上げる。
「あ、松寺くん」
優太がベンチの前に立っていた。
「今ちょっといい?」
「うん」
すずは何となく箸を止めた。
「今度の日曜って空いてる?」
「日曜?」
「うん。映画行かない?」
綾乃が少し驚いた顔をする。
「映画?」
「駅前の映画館。気になってるやつあって」
「ああ……」
綾乃は少し考えた。
そして、すぐに笑った。
「うん。いいよ」
「じゃあ、また連絡する」
「うん」
「じゃ」
優太はそう言って、自分の友達のところへ戻っていった。
綾乃はその背中を見送ってから、お弁当に視線を戻す。
「……」
すずは綾乃を見る。
「また出かけるんだね」
「うん」
「今度は映画か」
「そう」
「楽しみ?」
「うん。楽しみ」
綾乃は素直に答えた。
その顔を見て、すずは少しだけ笑う。
やっぱり。
綾乃は優太といるのが楽しいんだ。
水族館のときもそうだった。
帰ってきたあとも、楽しそうに話していた。
また一緒に出かけることにも、特に迷っていない。
それはきっと、綾乃にとって自然なことになり始めている。
「すず?」
「ん?」
「どうしたの?」
「別に」
「またそれ」
「便利だから」
「もう」
綾乃が笑う。
すずも笑った。
けれど。
すずは少しだけ考えていた。
最近の綾乃は。
何かが変わった。
まだ、その正体は分からない。
*
放課後。
美術室では、それぞれが自分の作業をしていた。
「牧」
「何?」
広沢が段ボールを抱えている。
「これどこ置く?」
「そこの棚」
「どこ?」
「右側」
「これ?」
「そう」
「最初からそう言ってよ」
「言ったよ」
「言ってない」
「言った」
「牧、最近冷たくない?」
「前からだよ」
「ひど!」
いつものやり取り。
すずは少し離れたところで、その二人を見ていた。
ここでは、綾乃はいつも通りだ。
広沢には容赦がない。
琉生にも普通に話す。
自分にもいつも通り。
だからこそ。
昼間のことが、少し気になった。
綾乃が優太と話していたとき。
あの顔。
楽しそうだった。
「……」
綾乃のスマホが震える。
「ん?」
画面を確認した綾乃が、少し笑った。
すずは何となく察する。
「松寺?」
「うん」
「映画?」
「そう。時間決まったって」
「そっか」
「日曜の午前だって」
「楽しみだね」
「うん」
綾乃はスマホを置いた。
そして、また絵に戻る。
すずは横顔を見る。
やっぱり楽しそうだ。
でも。
そのとき。
美術室の扉が開いた。
「綾乃」
恵斗だった。
「あ、先輩」
綾乃が顔を上げる。
「まだやってた?」
「はい」
「そっか」
恵斗が美術室の中に入ってくる。
「これ、先生から」
「ありがとうございます」
綾乃がプリントを受け取る。
「あと、来週の予定も」
「分かりました」
「じゃあ、俺行くわ」
「はい」
恵斗が扉のほうへ向かう。
「綾乃」
「はい?」
「また明日」
「……はい。また明日」
恵斗が出ていく。
扉が閉まる。
「……」
すずは綾乃を見る。
綾乃はしばらく扉のほうを見ていた。
ほんの数秒。
それから、何事もなかったように絵に戻る。
すずは何も言わなかった。
ただ。
――やっぱり違う。
優太といるときは、楽しそう。
恵斗と話すときは。
何かを意識しているように見える。
嬉しいだけじゃない。
少し戸惑っているような。
少し心が揺れているような。
そんな顔。
すずは小さく息を吐いた。
――綾乃は、まだ気づいてないんだろうな。
*
三年生の教室。
放課後のざわめきが少しずつ落ち着いていく中、恵斗は机に向かっていた。
参考書を開いている。
遥翔は少し離れた席から、そんな恵斗を見ていた。
「恵斗」
「ん?」
「そこ、もう三回くらい見てない?」
「……そうか?」
「うん」
恵斗が参考書を見直す。
「……ほんとだ」
「疲れてる?」
「ちょっとな」
「そっか」
遥翔はそれ以上言わなかった。
恵斗はページをめくる。
そのまましばらく勉強を続ける。
けれど。
少しして、恵斗がふいに口を開いた。
「そういえば」
「ん?」
「昨日、部活のグループトーク動いてた」
「へえ」
遥翔は顔を上げる。
「綾乃が、映画行くって」
「牧が?」
「うん」
恵斗は参考書に目を落としたまま答える。
「……クラスの友達と行くらしい」
「へえ」
遥翔は一瞬だけ黙った。
それから、恵斗を見る。
「誰と?」
「知らない」
恵斗はすぐに答えた。
「クラスの友達って書いてあったから」
「そうなんだ」
「うん」
会話はそこで終わった。
恵斗はまた参考書に目を落とす。
遥翔も、自分の机に視線を戻した。
けれど。
さっきの恵斗の声が、妙に耳に残っていた。
低かった。
ほんの少しだけ。
怒っているわけではない。
不機嫌というほどでもない。
ただ。
――クラスの友達と。
その部分だけ、妙に引っかかる言い方だった。
遥翔はもう一度、恵斗を見る。
恵斗は何事もなかったように問題を解いている。
けれど。
ペンを持つ手が、一度だけ止まった。
「……」
遥翔は何も言わなかった。
ただ。
さっきの会話を頭の中で繰り返す。
綾乃が映画に行く。
それを恵斗が覚えている。
誰と行くのかは知らない。
なのに。
「クラスの友達と行くらしい」
と、わざわざ付け加えた。
――気になってるんだ。
遥翔は、そう思った。
けれど。
それを口にすることはしなかった。
*
しばらくして。
恵斗が参考書を閉じた。
「今日はもう帰る」
「珍しい」
「集中できない」
「さっきからそうだったもんな」
「うるさい」
恵斗が鞄を持つ。
遥翔も立ち上がった。
二人で教室を出る。
廊下を歩いていると、遥翔が横目で恵斗を見る。
いつも通りの顔。
特に何も考えていないように見える。
でも。
遥翔には分かっていた。
恵斗は、綾乃が誰と映画に行くのか気になっている。
たぶん。
それだけじゃない。
綾乃が誰かと二人で出かけることそのものが。
少しだけ面白くない。
けれど。
恵斗自身は、それを「嫉妬」とは思っていない。
そもそも。
そんな感情が自分にあることすら、考えていない。
遥翔は少しだけ苦笑した。
――まだ、分かってないんだな。
でも。
今は、それでいい。
無理に気づかせる必要はない。
*
その日の夜。
綾乃はベッドの上でスマホを見ていた。
優太から届いたメッセージ。
映画の時間。
待ち合わせ場所。
そんな簡単なやり取りを確認する。
日曜日。
楽しみだ。
そう思う。
本当に楽しみ。
水族館のときと同じように、きっと楽しい時間になる。
綾乃はスマホを置く。
そして。
ふと、昼間のことを思い出した。
「綾乃」
恵斗の声。
いつもの呼び方。
いつものこと。
なのに。
今日は少しだけ、胸の奥がざわついた。
「……何だろ」
綾乃は首を傾げる。
優太といると楽しい。
また出かけたい。
映画も楽しみ。
それは全部、本当だ。
なのに。
恵斗のことを考えると。
何かが少し違う。
その違いが何なのか。
まだ分からない。
*
同じ頃。
すずも自分の部屋でスマホを眺めていた。
昼間の綾乃を思い出す。
優太と話していたとき。
恵斗と話していたとき。
やっぱり、違った。
「……」
すずは小さく息を吐く。
綾乃はまだ気づいていない。
自分の中で。
二つの「楽しい」が、少しずつ違うものになっていることに。
そして。
恵斗のほうも。
きっと、まだ気づいていない。
自分が綾乃のことを。
以前よりずっと、気にしていることに。
今はまだ。
本人たちだけが知らない。
その「普通」が。
少しずつ変わり始めていることを。




