第二十八話 理由をつける
放課後。
美術室には、鉛筆の走る音が響いていた。
「……ここ、ちょっと違うな」
綾乃が自分のデッサンを見つめながら、首を傾げる。
少し離れたところでは、すずが黙々と筆を動かしていた。
その隣では、広沢が何やら棚をいじっている。
「牧、これ動かしていい?」
「駄目」
「まだ何もしてないじゃん」
「何かする顔してる」
「どんな顔だよ、それ」
「広沢が何か企んでる顔」
「失礼だな」
広沢が棚から手を離す。
「ちょっと見るだけだって」
「見るだけならいいけど、触らないで」
「分かったって」
「本当に?」
「本当」
「信用できない」
「ひど」
すずが小さく笑った。
「まあ、今までのこと考えたら仕方ない」
「北川まで!」
そんなやり取りをしていたとき。
美術室の扉が開いた。
「まだいた?」
「あ、恵斗先輩」
綾乃が振り返る。
恵斗が袋を手に立っていた。
「先生に頼まれてた備品、返しに来た」
「そこです」
綾乃が棚を指差す。
「分かった」
恵斗が袋を棚の横に置く。
「今日は何描いてるの?」
「静物です」
「へえ」
「先輩は?」
「俺?」
「今日は勉強ですか?」
「そう。帰ったらやる」
「頑張ってください」
「綾乃もな」
「私は課題です」
「同じようなもんだろ」
「違います」
「そう?」
「全然違います」
恵斗が少し笑った。
そのとき。
広沢が口を挟む。
「海藤先輩」
「何」
「先輩って、牧にだけ甘くないですか?」
「は?」
恵斗が振り返る。
「だって、名前で呼んでるし」
「……」
綾乃の手も止まった。
「俺なんてずっと広沢ですよ」
「お前は広沢だろ」
「ほら!」
「何がほらなんだよ」
「名前で呼んでくださいよ」
「嫌だよ」
「何でですか!」
「お前だから」
「それ理由になってない!」
すずが吹き出す。
「さっき牧が言ってたこと、そのまま返されてる」
「北川まで!」
恵斗も笑った。
「じゃあな」
「逃げた!」
「うるさい」
恵斗が美術室を出ていく。
扉が閉まった。
「……」
綾乃は何となく、その扉を見ていた。
「何?」
すずが言う。
「え?」
「今、先輩見てた」
「見てないよ」
「見てた」
「……ちょっとだけ」
「ふーん」
すずはそれ以上何も言わなかった。
綾乃も、何事もなかったようにデッサンへ視線を戻す。
けれど。
さっき広沢が言ったことが、少しだけ頭に残っていた。
――牧にだけ甘くないですか?
そんなこと。
考えたこともなかった。
*
廊下を歩いていると、後ろから声がした。
「恵斗」
恵斗が振り返る。
「……遥翔」
遥翔が追いついてきた。
「美術室行ってた?」
「ああ。先生に頼まれてた備品返してきた」
「そっか」
二人で並んで歩く。
しばらく、特に会話はなかった。
廊下の向こうから、部活へ向かう生徒たちの声が聞こえる。
恵斗は何となく、その声を聞きながら歩いていた。
ふと。
「なあ、遥翔」
「ん?」
「俺って、そんなに分かりやすい?」
遥翔が横を見る。
「何が?」
「……いや」
「何だよ」
「何でもない」
「恵斗が自分から聞いといて?」
「……」
「変なの」
「何だよ」
「別に」
「お前もそれ使うのかよ」
「便利だから」
「……お前な」
遥翔が少し笑った。
恵斗はため息をつく。
けれど。
自分から「分かりやすいか」と聞いたことだけが、妙に引っかかっていた。
*
その日の帰り。
恵斗は一人で駅へ向かっていた。
イヤホンはつけていない。
何となく、今日は音楽を聴く気分ではなかった。
歩きながら、さっきの美術室でのことを思い出す。
綾乃が笑っていた。
広沢と言い合っていた。
すずがそれを見て笑っていた。
いつもの美術室。
いつもの時間。
何も特別なことはない。
なのに。
恵斗は、ふと足を緩めた。
さっき綾乃が言った。
――「全然違います」
課題と受験勉強の話。
たったそれだけの会話。
なのに、妙に鮮明に覚えている。
「……」
自分でもおかしいと思う。
こんなことを覚えている必要なんてない。
それなのに。
綾乃の声や表情が、やけに残っている。
そして。
広沢に言われた言葉も。
――牧にだけ甘くないですか?
「……甘い?」
恵斗は小さく呟いた。
自分では、そんなつもりはない。
ただ。
綾乃とは話しやすい。
何を言っても変に気を遣わなくていい。
だから自然と話すことが増えた。
それだけ。
……のはずだった。
恵斗はそう考えながら、また歩き出した。
*
翌日。
昼休み。
「綾乃」
「ん?」
優太が机の横に立っている。
「今日、部活?」
「うん」
「そっか」
「松寺くんは?」
「陸上」
「頑張って」
「綾乃も」
「うん」
それだけの短いやり取り。
優太は自分の席へ戻っていった。
綾乃は、その背中を少しだけ目で追う。
こういう会話は、今に始まったことではない。
入学してから、何度も繰り返してきた。
課題のこと。
先生のこと。
授業のこと。
放課後の予定。
本当に、どうでもいいような話。
だから、会話そのものは何も変わっていない。
ただ。
綾乃は、優太が「綾乃」と呼ぶようになったことを、以前より少しだけ意識するようになっていた。
水族館へ行ったあの日から。
呼び方が変わった。
それだけなのに。
前より少しだけ、その声が近く感じる。
「……」
綾乃は自分でも不思議に思った。
優太といると、やっぱり楽しい。
くだらない話をして笑える。
一緒にいて気を遣わない。
またどこかへ行きたいと思う。
それは、きっと変わらない。
でも。
ふとした瞬間に恵斗のことを思い出すと。
胸の奥が、ほんの少しだけ違う揺れ方をする。
綾乃は、その違いをまだうまく説明できなかった。
「……何だろう」
小さく呟いて。
机の上のパンに視線を戻した。
*
その日の夜。
恵斗は机に向かっていた。
参考書を開いている。
けれど、さっきから同じページを眺めている。
シャーペンを持ったまま、問題文に目を落とす。
一度読んだ。
もう一度読む。
それでも頭に入ってこない。
「……」
恵斗はシャーペンを置いた。
そして、椅子の背もたれに体を預ける。
今日、綾乃とは話していない。
それなのに。
なぜか思い出した。
昨日の美術室。
笑っていた顔。
「全然違います」と言ったときの少し不満そうな顔。
広沢とくだらない言い合いをしていたこと。
どれも、どうでもいいことばかりだ。
なのに。
「……何で覚えてんだよ」
恵斗は呟いた。
答えは出ない。
ただ。
最近、綾乃のことを考えることが増えた。
それだけは、もう認めるしかなかった。
でも。
それが何なのかは、まだ分からない。
恵斗は机の上をぼんやり見つめた。
そして、ふと。
以前、綾乃に名前で呼んでいいか聞いたときのことを思い出す。
――牧って呼びにくいから。
あのときは、本当にそう思った。
……なぜ、そう思ったんだろう?
「……」
自分でも答えが分からない。
恵斗はその疑問を、いったん頭の隅へ追いやった。
参考書を引き寄せる。
「……今は勉強」
そう呟いて。
再び問題に向き合う。
けれど。
しばらくして。
また一度だけ。
「……綾乃」
無意識に、その名前を口にしていた。
恵斗自身は。
そのことに、まだ気づいていなかった。




