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今日も、たぶん平和じゃない  作者: RieL


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第二十七話 名前で呼ぶ理由

 月曜日。


 昼休み。


 綾乃は、自分の席でスマホを見ていた。


 特に何かをしていたわけではない。


 ただ、昨日の水族館で撮った写真を何となく見返していた。


 クラゲ。


 大きな水槽。


 魚の形をしたパン。


 そして。


 優太から送られてきた、自分の後ろ姿。


「牧」


「はい?」


 急に呼ばれて、綾乃は顔を上げた。


 優太だった。


「今日の課題、出した?」


「あ、うん。出したよ」


「何ページまで?」


「えっと」


 綾乃は教科書を探す。


「二十七」


「助かった」


「松寺くん、忘れてたの?」


「ちょっと」


「昨日、水族館で遊んでたからじゃない?」


「綾乃もだろ」


 綾乃の手が止まった。


「……今」


「何」


「今、何て呼んだ?」


「綾乃」


「昨日も呼んでた」


「うん」


「昨日だけじゃなかったんだ」


「昨日だけって?」


「いや」


 綾乃は首を振った。


「何でもない」


「変なの」


 優太はそう言って、自分の席へ戻っていった。


 綾乃はその背中を見送る。


 昨日だけじゃなかった。


 本当に。


 呼び方が変わったんだ。


 


     *


 


 放課後。


 美術室。


「そういえば」


 すずが筆を洗いながら言った。


「松寺って、綾乃のこと名前で呼ぶんだね」


「え?」


 綾乃は顔を上げる。


「昨日から」


「昨日から?」


「うん」


「急だね」


「水族館で急に」


「ふーん」


 すずの手が止まる。


「何」


「別に」


「その『別に』、絶対何か思ってる」


「思ってない」


「怪しい」


「怪しくない」


 すずは筆を置いて、綾乃を見る。


「何で変わったの?」


「知らない」


「聞かなかったの?」


「聞いたよ」


「何て?」


「何となくって」


「何となくで名前呼び?」


「うん」


 すずは少しだけ黙った。


「……そう」


「何?」


「別に」


「またそれ」


「便利だから」


 綾乃は笑った。


 すずは、洗った筆をタオルで拭く。


「でも」


「うん?」


「これで綾乃、名前で呼ぶ人が二人になったね」


「二人?」


「恵斗先輩と松寺」


「……ああ」


 綾乃は少し考える。


 確かに。


 恵斗先輩は、ずっと綾乃のことを名前で呼んでいる。


 優太は、昨日まで「牧」だった。


 でも。


 今は。


 ――綾乃。


「そうなるね」


「同じ名前で呼ばれるのに、何か違う?」


「え?」


「恵斗先輩と松寺」


 綾乃はすぐには答えられなかった。


「……何が?」


「呼ばれ方」


「分かんない」


「そっか」


 すずはそれ以上聞かなかった。


 少しして。


「そういえば」


 すずがまた言った。


「恵斗先輩は、何で名前呼びなの?」


「ああ」


 綾乃は思い出す。


「最初に聞かれた」


「何を?」


「『下の名前で呼んでいい?』って」


 すずが綾乃を見る。


「聞いたの?」


「うん」


「海藤先輩が?」


「うん」


「へえ」


 すずは少し驚いたようだった。


「何?」


「いや」


 すずは少し考える。


「松寺は勝手に変わって」


「うん」


「海藤先輩は聞いたんだ」


「そう」


「対照的だね」


「そうかな」


「そうだと思う」


 綾乃は少し笑った。


 確かに。


 先輩は、最初に聞いた。


 あのとき。


 まだ、今ほど話すようになる前だった。


 先輩は少しだけ言いにくそうに。


『牧って呼びにくいから、下の名前で呼んでいい?』


 そう言った。


 綾乃は、そのとき。


 別に嫌じゃなかったから。


 普通に頷いた。


「でも」


 すずが言う。


「牧って、そんな呼びにくい?」


「……」


「普通に牧でよくない?」


「うん」


「私の北川とか、水上先輩の水上より短いじゃん」


「確かに」


「なのに綾乃だけ名前」


 綾乃は少し黙った。


 今まで。


 そんなふうに考えたことはなかった。


「もしかして」


 すずが言う。


「最初から気に入ってたとか」


「えっ?」


「別に恋愛的な意味じゃなくても」


「いや、でも」


 綾乃は首を振った。


「単純に呼びにくかったんじゃない?」


「ふーん」


 すずは納得していない顔をした。


「何その顔」


「別に」


「またそれ」


「便利だから」


 綾乃は小さくため息をついた。


 


     *


 


 その日の夕方。


 美術室の片付けが終わった頃。


 扉が開いた。


「まだいる?」


 恵斗だった。


「先輩」


 綾乃が振り返る。


「もう帰るところです」


「そっか」


 恵斗は室内を見回した。


「今日、何やってたの?」


「デッサンです」


「へえ」


「先輩は?」


「俺は帰り」


「受験勉強ですか?」


「……まあ」


「頑張ってください」


「綾乃もな」


「私は普通に学校なので」


「知ってる」


「じゃあ言わないでください」


 恵斗が少し笑う。


「じゃあ、帰るわ」


「はい」


 恵斗は扉の方へ向かった。


 そのとき。


「綾乃」


「はい?」


「また明日」


「……はい。また明日」


 扉が閉まる。


 少しだけ。


 美術室が静かになった。


「……ほら」


 すずが小さく言った。


「何」


「自然すぎる」


「先輩がずっとそう呼んでるから」


「まあね」


 すずは笑った。


「でも、やっぱり名前呼び」


「もういいって」


「......」


「それ、今絶対何か言おうとしてた」


「言ってない」


「怪しい」


「怪しくない」


 綾乃は作業道具を片付けながら、さっきの声を思い出していた。


 ――綾乃。


 昨日。


 優太も同じように呼んだ。


 同じ名前。


 なのに。


 何となく。


 少し違って聞こえた。


 


     *


 


 その頃。


 校舎の廊下。


 恵斗の隣を、遥翔が歩いていた。


「恵斗」


「ん?」


「そういえばさ」


「何」


「恵斗って、牧のことだけ名前で呼ぶよな」


 恵斗が少しだけ足を緩めた。


「……そうだっけ?」


「そうだよ」


「気にしたことなかった」


「森本のことは森本なのに」


「……」


 恵斗は少し黙る。


「確かに」


「なんで?」


「牧って呼びにくいから」


 遥翔が恵斗を見る。


「牧って呼びにくい?」


「俺はそう思った」


「今でも?」


「……」


 恵斗はすぐに答えなかった。


「いや」


「ほら」


「何が」


「今、ちょっと考えた」


「考えてない」


「考えた」


「……うるさい」


 遥翔が笑う。


「でも、恵斗が女子を名前で呼ぶの珍しいなと思って」


「そう?」


「そう」


「別に深い意味ない」


「そういうことにしとく」


「何だよ、それ」


「別に」


「お前もそれ言うのかよ」


 遥翔は笑った。


 恵斗は少しだけ顔をしかめる。


 ――牧って呼びにくい。


 あのときは、本当にそう思った。


 ……なぜ、そう思ったんだろう。


 だから。


 綾乃に聞いた。


 名前で呼んでいいかって。


 それだけ。


 ……それだけのはずだった。


 


     *


 


 夜。


 綾乃が部屋でスマホを見ていると、通知が入った。


 優太からだった。


『今日、先生また怒ってたな』


 綾乃は少し笑う。


『怒ってたね』


『あれ毎回長い』


『松寺くんが寝そうだったからじゃない?』


『寝てない』


『半分寝てた』


『綾乃に言われたくない』


『私はちゃんと起きてたよ』


『さっき舟こいでた』


『こいでない』


『見てた』


『松寺くんの見間違い』


『はいはい』


 それだけの。


 どうでもいい会話。


 綾乃はスマホを置いた。


 そして。


 ふと、昼間のことを思い出す。


 今日。


 松寺くんは何度も綾乃のことを「綾乃」と呼んだ。


 昨日だけではなかった。


 あの水族館で、何となく変わっただけ。


 今まで「牧」だった呼び方が。


 いつの間にか。


 「綾乃」になっていた。


 恵斗先輩は。


 最初に聞いてくれた。


 ――下の名前で呼んでいい?


 優太は。


 気づけば変わっていた。


 同じ名前なのに。


 一人は、ちゃんと聞いて。


 一人は、いつの間にか変わっていた。


「……全然違う」


 綾乃は小さく呟いた。


 何が違うのかは。


 まだ、うまく言えない。


 ただ。


 昨日から。


 優太に「綾乃」と呼ばれることが増えた。


 そして。


 恵斗先輩に「綾乃」と呼ばれる声も。


 今日は、いつもより少しだけ意識してしまった。


「同じ名前なのに」


 どうして。


 こんなに違って聞こえるんだろう。


 綾乃はスマホを伏せた。


 考えても。


 答えは、まだ分からなかった。

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