第二十六話 好きって、なんだろう
水族館の中は、思っていたより暗かった。
青い光が水槽の中から漏れて、床や壁をぼんやり照らしている。
「思ったより人いるね」
綾乃が周りを見ながら言う。
「休日だからな」
「そっか」
優太の隣を歩きながら、綾乃は大きな水槽を見上げた。
「うわ」
「何」
「大きい」
「それしか言わないの?」
「だって大きいもん」
「語彙力」
「松寺くんだって今、休日だからなって言っただけじゃん」
「俺は事実を言った」
「私も感想を言った」
「弱いな」
「何が?」
「感想」
「うるさい」
優太が笑った。
その笑い方を見て、綾乃も少し笑う。
こういう時間は楽だ。
何か特別な話をしなくても、普通に会話が続く。
無言になっても気まずくない。
綾乃は水槽の前で立ち止まった。
「これ、何の魚?」
小さな魚が何匹も泳いでいる。
「知らない」
「調べてよ」
「自分で調べろ」
「スマホ出すの面倒」
「俺も」
「じゃあ何で聞いたの」
「何となく」
「松寺くん、適当だよね」
「牧も」
「私はちゃんとしてる」
「どこが」
「全部」
「へえ」
「そのへえ、絶対信じてない」
「うん」
「認めるんだ」
綾乃は少し笑いながら、また歩き出した。
次の水槽の前には、子どもたちが集まっていた。
何かいるのだろうと思って近づくと、ゆっくりと大きなエイが泳いできた。
「わ」
綾乃が思わず前に出る。
「近い」
水槽のガラスに近づくと、エイが目の前を横切った。
「すごい」
「牧、子どもみたい」
「何で」
「さっきからずっと楽しそう」
「楽しいから」
「そう」
綾乃は振り返った。
「松寺くんは楽しくないの?」
「楽しいよ」
「本当に?」
「何で疑うんだよ」
「何か、普通だから」
「普通に楽しんでる」
「私は?」
「牧は分かりやすい」
「どういう意味?」
「そのまま」
「説明になってない」
優太は答えず、先へ歩いていく。
「ちょっと」
綾乃も後を追った。
しばらく歩いたところで、優太がふと足を止めた。
「……綾乃」
「ん?」
綾乃は何気なく振り返った。
少ししてから。
「……今、何て呼んだ?」
優太がこちらを見る。
「綾乃」
「いや、それは分かるけど」
「何」
「今まで牧って呼んでたじゃん」
「ああ」
優太は少しだけ考えた。
「何となく」
「何となく?」
「うん」
「変えたくなったの?」
「そうかも」
「へえ」
綾乃は少し考える。
「別に嫌じゃないけど」
「嫌ならやめる」
「いや、嫌じゃないよ」
「じゃあいい?」
「うん」
それだけだった。
優太が、
「じゃ、行こ」
と言って歩き出す。
綾乃も、その隣に並んだ。
「綾乃」
「ん?」
「クラゲ見に行くんだろ」
「あ」
さっき言っていた。
「行く」
「じゃあこっち」
「分かってるよ」
「本当に?」
「分かってる」
「さっきから全然分かってない」
「うるさいなあ」
綾乃は笑った。
呼び方が変わったことも。
そのまま、会話の中に溶けていった。
*
クラゲの水槽の前で、綾乃はしばらく立ち止まっていた。
薄暗い空間の中を、白く透けたクラゲがゆっくり泳いでいる。
「これ、ずっと見てられる」
綾乃が言った。
「さっきからずっと見てる」
「だってきれいだもん」
「もう十分見たろ」
「まだ」
「あとどれくらい?」
「分かんない」
「永遠?」
「うん」
「帰れなくなるぞ」
「松寺くん、先に帰っていいよ」
「一人で?」
「大丈夫」
「何が」
「わたし、水族館好きだから」
「意味分かんない」
綾乃は水槽を見たまま笑った。
その横で、優太がスマホを取り出す。
「……あ」
「何?」
「写真」
「撮ってたの?」
「うん」
「見せて」
優太のスマホを覗き込む。
そこには、水槽を見ている綾乃の後ろ姿が写っていた。
「え」
「何」
「いつ撮ったの?」
「さっき」
「勝手に?」
「嫌だった?」
「嫌じゃないけど」
綾乃はもう一度画面を見る。
青い光の中で、自分がクラゲを見ている。
「なんか、きれいに撮れてる」
「そう?」
「うん」
「よかった」
優太はそう言って、スマホをしまった。
綾乃は少しだけ、その横顔を見た。
そして。
ふと思う。
優太と付き合ったら。
こんな感じなのかな。
一緒に出かけて。
くだらない話をして。
写真を撮って。
帰りに何か食べて。
また次の予定を決める。
「……楽しそう」
思わず、小さく呟いた。
「何が?」
「え?」
優太がこちらを見る。
「何でもない」
「今、何か言った」
「言ってない」
「言った」
「気のせい」
「絶対言った」
「クラゲきれいだね」
「話変えた」
「変えてないよ」
「変えた」
「別に」
「北川の真似?」
「違う」
松寺くんが笑った。
綾乃も笑う。
付き合ったら。
たぶん。
楽しい。
そう思った。
*
昼を過ぎた頃。
二人は水族館の中にあるカフェで休憩していた。
綾乃の前には、魚の形をしたパン。
松寺くんの前には、普通のサンドイッチ。
「松寺くん、それ、つまんなくない?」
「何が」
「普通」
「パンだぞ」
「私の方がかわいい」
「食べるのは俺じゃないから」
「それでも」
「綾乃が勝手に選んだんだろ」
綾乃はパンを持ったまま止まった。
「……今、また綾乃って呼んだ」
「呼んだ」
「慣れるの早くない?」
「俺?」
「うん」
「そりゃ呼んでるから」
「さっきまで牧だったのに」
「別に」
「それ、今すずの真似?」
「違う」
松寺くんが笑う。
「もういいだろ」
「いいけど」
綾乃はパンを一口食べた。
別に嫌ではない。
それどころか。
不思議なくらい、すぐに慣れそうだった。
*
帰る前。
二人はお土産売り場を見ていた。
「これかわいい」
綾乃が小さなキーホルダーを手に取る。
「何それ」
「チンアナゴ」
「知ってる」
「これ、松寺くんっぽい」
「どこが」
「何となく」
「説明になってない」
「じゃあ松寺くんが、さっきの私みたいに説明して」
「嫌」
「ほら」
「何が」
「何となくって便利だよね」
「便利だな」
「認めるんだ」
綾乃は笑いながら、棚を見て回る。
少し奥に、変わったぬいぐるみがあった。
大きな口。
妙に鋭い歯。
深海魚らしい。
「何これ」
綾乃は思わず手に取った。
少し怖い。
でも。
何となく面白い。
「……恵斗先輩、こういうの好きそう」
口に出してから、綾乃は止まった。
「え?」
優太がこちらを見る。
「いや」
綾乃はぬいぐるみを見つめる。
何で今。
恵斗先輩?
今日は。
優太と一緒にいる。
今日だって楽しい。
ずっと楽しかった。
なのに。
「綾乃?」
「……何でもない」
「そのぬいぐるみ買うの?」
「買わない」
「じゃあ戻しなよ」
「そうする」
綾乃は元の場所に戻した。
でも。
さっきから。
胸の奥に、小さな違和感が残っていた。
*
水族館を出ると、外は少し夕方の色になっていた。
「楽しかったね」
綾乃が言う。
「うん」
「水族館、また来たい」
「また来る?」
「え」
優太を見る。
「誰と?」
「俺と」
「……いいの?」
「何で」
「だって今日来たのに」
「また来たくなったんだろ」
「うん」
「じゃあまた来ればいい」
優太は当たり前のように言った。
「綾乃」
「ん?」
「また行こう」
綾乃は少し笑った。
「うん」
答えるのに、迷わなかった。
*
夜。
綾乃はベッドの上で、今日撮った写真を見ていた。
水槽。
クラゲ。
カフェのパン。
そして。
優太が撮ったらしい写真。
いつの間にか、送られてきていた。
青い水槽の前に立つ、自分の後ろ姿。
「……きれいに撮れてる」
綾乃はもう一度呟いた。
今日も楽しかった。
優太といる時間は好きだ。
また一緒に出かけたい。
そう思う。
でも。
優太のことが好きかと聞かれると。
まだ、分からない。
スマホを置く。
そして。
ふと、今日のことを思い返した。
「……そういえば」
綾乃は顔を上げる。
「綾乃って呼ばれてた」
そのときは、そこまで気にしなかった。
水族館の中で。
何度も自然に呼ばれて。
気づけば普通になっていた。
「いつ変わったんだろう」
少し考える。
でも。
「……まあ、いっか」
綾乃は枕に顔を埋めた。
それより。
気になることがある。
お土産売り場で。
恵斗先輩を思い出した。
今日一日。
優太と一緒にいて。
楽しくて。
また一緒に来たいと思った。
なのに。
あのとき。
どうして。
恵斗先輩のことを思い出したんだろう。
「……好きな人と一緒にいたら」
綾乃は小さく呟く。
「別の人のこと、思い出したりしないんじゃないのかな」
答えは出ない。
優太といると楽しい。
また会いたい。
恵斗先輩のことを考えると。
胸の奥が、少し落ち着かない。
どちらが好きなのか。
それとも。
そもそも。
好きって、どういうことなんだろう。
綾乃は目を閉じた。
考えても。
やっぱり、よく分からなかった。




