第二十四話 別に気になるわけじゃない
美術室の扉が閉まった。
恵斗はそのまま廊下を歩き出した。
手には、返し終えた備品の袋。
もう用事は済んだ。
先生にも伝言を頼んだ。
それだけだった。
なのに。
「土曜日、松寺とちょっと出かけただけで」
さっきの綾乃の声が、なぜか頭に残っていた。
松寺。
同じ一年の、あの男子。
名前と顔くらいは知っている。
何度か挨拶をしたこともある。
それだけだ。
別に、どういうやつなのか詳しく知っているわけでもない。
綾乃がそいつと出かけていた。
二人で。
それがどうした。
恵斗は眉をひそめた。
綾乃が誰と出かけようが、自分には関係ない。
そもそも。
「……別に」
口に出してから、自分でも少し変な気がした。
誰に言い訳しているんだ。
*
「恵斗」
後ろから呼ばれて、恵斗は足を止めた。
振り返る。
「……遥翔」
佐々木遥翔が、廊下の向こうから歩いてきた。
「何」
「いや。美術室行ってた?」
「ああ」
「牧、いた?」
「いた」
遥翔は「ふうん」とだけ言った。
恵斗は歩き出す。
遥翔も隣に並んだ。
「先生いなかったけど」
「そう」
「伝言だけ頼んできた」
「へえ」
しばらく、二人とも何も話さなかった。
廊下には、部活へ向かう生徒たちの声が響いている。
その中で。
「あいつ」
恵斗が言った。
「ん?」
「綾乃」
遥翔が横を見る。
「土曜日、松寺と出かけてたらしい」
「へえ」
それだけだった。
恵斗は少し眉を寄せる。
「何だよ」
「いや」
遥翔は前を向いたまま言った。
「お前からその話するんだと思って」
「別に」
「うん」
「さっき、美術室で知っただけだし」
「そう」
「広沢がうるさかった」
「へえ」
「デートだとか何とか」
「ふうん」
「綾乃は違うって言ってたけど」
恵斗はそこまで言って、少し黙った。
何でこんな話をしているんだ。
遥翔に話すようなことでもない。
「楽しかったらしい」
「それで?」
「……別に」
遥翔は何も言わなかった。
ただ、一度だけ恵斗の顔を見る。
恵斗は気づいて、
「何」
「いや。別に」
「お前までそれ言うのかよ」
「便利だから」
「誰の真似だよ」
「さあ」
恵斗はため息をついた。
遥翔は少しだけ笑っていた。
けれど、それ以上は何も聞かなかった。
*
三年の教室に戻ると、環は自分の席にいた。
窓際の席で、ノートを開いている。
次の授業の準備をしているのか、机の上には何冊か教科書が広がっていた。
ただ、それだけ。
いつも通りの姿だった。
恵斗は少しだけ足を止める。
黒い長い髪。
伏せた目元。
友達に何か話しかけられて、環が顔を上げた。
その横顔を見た瞬間。
恵斗は、当たり前のことを思い出した。
――やっぱり、俺が好きなのは森本だ。
ずっとそうだった。
綾乃は、話しやすい後輩。
恋愛相談をする相手。
最近、よく話すようになった。
それだけだ。
だから。
松寺と出かけたことを聞いて、少し気になったくらいで。
何か変わるわけじゃない。
「恵斗」
自分の席に向かう途中、遥翔が後ろから呼んだ。
「何」
「次、移動」
「分かってる」
恵斗はそのまま自分の席へ向かった。
もう、考える必要のないことだった。
*
「牧」
「ん?」
翌日の昼休み。
綾乃は机から顔を上げた。
優太が、昼食のパンを持ったままこちらを見ている。
「今度、またどっか行く?」
「え」
綾乃は少し驚いた。
けれど、すぐに答える。
「うん。いいよ」
「即答」
「だって、土曜日楽しかったし」
「そっか」
「松寺くんは?」
「俺も」
「じゃあ、また行こう」
綾乃がそう言うと、優太は小さく笑った。
「うん」
それだけ。
約束をしたわけでもない。
日にちを決めたわけでもない。
ただ。
また二人で出かけることが、もう特別なことではないような気がした。
綾乃はパンの袋を開けながら、少しだけ考える。
優太といると楽しい。
それは間違いない。
また出かけたいとも思う。
でも。
昨日。
恵斗先輩に土曜日のことを聞かれたときのことを思い出す。
「……」
「牧?」
「ううん。何でもない」
「そう?」
「うん」
綾乃は笑った。
優太はそれ以上聞かなかった。
*
夜。
恵斗は机に向かっていた。
参考書を開いている。
問題を解いて。
丸をつけて。
次のページを開く。
いつもの受験勉強。
なのに、集中できなかった。
「……」
シャーペンを置く。
ふと。
「すごく楽しかったです」
綾乃の声が頭に浮かんだ。
あのときの顔まで思い出す。
少し笑っていて。
嬉しそうだった。
松寺と出かけて。
楽しかった。
それだけの話だ。
別に。
何もおかしくない。
綾乃が誰と仲良くしようが。
誰と出かけようが。
自分には関係ない。
恵斗はそう考えてから、もう一度参考書に目を落とした。
けれど。
さっきと同じ問題が、頭に入ってこない。
「……意味分かんねえ」
小さく呟く。
好きなのは森本だ。
そのことに変わりはない。
それなのに。
どうして。
牧が松寺と一緒にいることが。
こんなふうに頭に残るのか。
恵斗は眉をひそめた。
「……別に、気になるわけじゃねえのに」
そう言って。
もう一度、シャーペンを握った。
けれどその言葉が。
自分で思っていたほど、しっくりこなかった。




