第二十一話 終わらせるために
文化祭が終わって、数日。
学校には、少しずついつもの空気が戻っていた。
廊下から文化祭のポスターがなくなり。
美術室に積まれていた段ボールも、ほとんど片付いている。
忙しかった日々が終わって。
生徒たちは、それぞれの日常へ戻っていった。
けれど。
杏奈の中には、まだ終わっていないものがあった。
*
放課後。
杏奈は廊下を歩いていた。
向かっているのは図書室。
そこに恵斗がいることは知っている。
何度も迷った。
わざわざ話さなくてもいいんじゃないか。
もう、このままでいいんじゃないか。
そう思った。
でも。
このままでは、自分の中で終われない気がした。
「……」
杏奈は小さく息を吐く。
そして、図書室の扉を開けた。
*
窓際の席に、恵斗がいた。
参考書を開いている。
「恵斗先輩」
恵斗が顔を上げた。
「水上?」
「少しだけ、いいですか?」
恵斗は杏奈の表情を見る。
少しだけ考えてから、参考書を閉じた。
「うん」
二人は図書室を出た。
人の少ない廊下まで歩く。
「話って?」
恵斗が聞く。
「……先輩」
「ん?」
「やっぱり、好きな人いるんでしょ?」
恵斗が少し黙った。
「……いる」
短い答え。
杏奈は小さく息を吐いた。
「やっぱり」
「うん」
「誰?」
恵斗は答えなかった。
「……言えない」
「どうして?」
「まだ、言うつもりないから」
「そっか」
杏奈は少しだけ笑った。
「じゃあ、聞かない」
「水上?」
「うん」
恵斗が少し意外そうに杏奈を見る。
「前なら、もっと聞いてたと思う」
「……そうだな」
「でも」
杏奈は前を向いた。
「もう、いいかなって」
「……」
「先輩が誰を好きなのか知ったところで」
一度、言葉を止める。
「私の気持ちが変わるわけじゃないし」
恵斗は何も言わなかった。
「だから」
杏奈は少し笑った。
「恵斗先輩の恋、うまくいくといいね」
「……」
恵斗が杏奈を見る。
杏奈は笑っていた。
少しだけ寂しそうな笑顔だった。
「応援するって言うのも変だけど」
「……ありがとう」
「ううん」
杏奈は首を振る。
「私も、ちゃんと終わらせたいから」
「……そっか」
「先輩のこと、嫌いになったわけじゃないよ」
「うん」
「たぶん、これからも好きだったことは忘れないと思う」
杏奈は少しだけ笑う。
「でも、それと追いかけるのは違うから」
恵斗は静かに頷いた。
「水上」
「はい?」
「今まで、ごめん」
「何で先輩が謝るんですか?」
「いろいろ」
「……」
杏奈は少し考えた。
「じゃあ、お互い様ってことで」
「お互い様?」
「うん」
杏奈が笑う。
「私もいっぱい困らせたから」
「……そうだな」
「そこは否定してよ」
「ごめん」
「もう」
杏奈が小さく笑った。
少しだけ。
昔の二人に戻ったような気がした。
*
「じゃあ」
杏奈が言う。
「これからは、普通に先輩と後輩でいようね」
「もちろん」
「よかった」
杏奈は頷いた。
「文化祭も終わったし、先輩は受験ですね」
「うん」
「ちゃんと勉強してくださいね」
「してるよ」
「ほんとですか?」
「本当」
「怪しい」
「ひどいな」
二人で笑う。
それが。
最後だった。
杏奈はもう、恵斗を追いかけない。
誰が好きなのかも。
その人とどうなるのかも。
聞かない。
ただ。
恵斗の恋がうまくいけばいい。
そう思えるところまで。
自分の気持ちを持っていけたことが。
杏奈にとっては、一番大きな変化だった。
*
廊下を歩きながら。
杏奈は一人になった。
さっきまで笑っていたのに。
少しだけ目が熱くなる。
「……」
杏奈は立ち止まった。
涙が一粒だけ落ちる。
慌てて拭う。
「……好きだったな」
小さく呟く。
今も完全になくなったわけじゃない。
でも。
もういい。
これ以上、追いかけなくても。
恵斗が好きな人と笑っていられるなら。
それでいい。
そして杏奈は、さっきの会話を思い出す。
恵斗は好きな人の名前を言わなかった。
けれど。
杏奈の中には、なんとなく思い浮かぶ人がいた。
綾乃。
最近、恵斗がよく話している後輩。
自分には見せないような柔らかい表情で話していることもある。
今日も。
自分が好きな人を聞いたとき。
恵斗は何も言わなかった。
だから。
きっと。
「……綾乃ちゃん、なのかな」
杏奈は小さく呟いた。
確信はない。
でも。
それ以上、知ろうとは思わなかった。
*
校門へ向かって歩いていると。
「水上」
後ろから声がした。
振り返る。
「中川くん」
琉生だった。
「今帰る?」
「うん」
「俺も」
琉生が杏奈の顔を見る。
「……泣いた?」
「え?」
「目」
「あ……」
杏奈は慌てて目元を押さえた。
「ちょっとだけ」
「そっか」
琉生は、それ以上聞かなかった。
しばらく歩いてから。
「コンビニ寄るけど」
「うん?」
「何かいる?」
「急だね」
「なんとなく」
杏奈は少し考える。
「……プリン」
「了解」
「本当に買ってくれるの?」
「自分の買うついで」
「やっぱり」
「何?」
「優しくないと思った」
「ひどい」
琉生が笑う。
杏奈も笑った。
さっきまで胸の奥にあった痛みが、ほんの少しだけ軽くなる。
「中川くん」
「ん?」
「ありがとう」
「何が?」
「……なんとなく」
「そっか」
琉生はそれ以上聞かなかった。
ただ。
杏奈の歩く速度に合わせて歩いた。
*
一方。
その頃、美術室では。
「杏奈先輩、今日早かったね」
すずが言った。
「うん」
綾乃は顔を上げる。
「何かあったのかな?」
「さあ」
すずは少し考える。
「でも、今日はいつもと違ったかも」
「そう?」
「うん」
綾乃はスマホを見る。
杏奈からメッセージは来ていない。
いつもなら。
何かあればグループトークで話すこともある。
でも。
今日は何もない。
「……」
綾乃は少し気になった。
けれど。
本人が何も言っていないのに、こちらから聞くのも違う気がした。
「明日、様子見てみようかな」
「そうだね」
すずが頷く。
*
その夜。
綾乃のスマホにメッセージが届いた。
『恵斗:今日は水上と話した』
綾乃は画面を見る。
『綾乃:そうなんですか』
『恵斗:うん』
『綾乃:何かありました?』
少し間が空いた。
『恵斗:もう大丈夫』
綾乃はその言葉を見つめた。
何が大丈夫なのか。
聞かなくても、なんとなく分かる。
でも。
詳しく聞くことはしなかった。
『綾乃:よかったです』
そう送って、スマホを伏せる。
胸の奥に、少しだけ不思議な感覚が残った。
杏奈と恵斗。
二人の間で、何かが終わったのだろう。
それはきっと。
杏奈にとって、簡単なことではなかったはずだ。
それでも。
自分には、何もできない。
綾乃はそう思った。
*
駅へ向かう道。
杏奈と琉生は、並んで歩いていた。
「プリン、どれにする?」
「普通の」
「普通ってどれ?」
「知らない」
「じゃあ俺が決める」
「任せて大丈夫?」
「たぶん」
「不安」
「大丈夫だって」
杏奈が笑う。
琉生も笑った。
まだ。
二人とも、この時間を恋とは呼ばない。
けれど。
恵斗との恋を終わらせたその日に。
杏奈の隣には、別の誰かがいた。
それはまだ。
ほんの小さな変化だった。




