第二十話 文化祭まであと少し
十月。
文化祭まで、あと三日。
放課後の校内は、いつも以上に慌ただしかった。
廊下には展示物。
教室からは机を動かす音。
あちこちから、生徒たちの話し声が聞こえてくる。
美術室も、最後の仕上げに追われていた。
「これ、入口に置くんだよね?」
綾乃が案内板を持ち上げる。
「うん。でも、その前に先生に確認してもらおう」
すずが答えた。
「じゃあ、持っていくね」
「お願い」
綾乃が案内板を抱えて廊下へ出ようとした。
そのとき。
「牧」
後ろから声がした。
「松寺くん」?
振り返る。
優太が廊下に立っていた。
「まだ部活?」
「うん。文化祭の準備」
「そっか」
優太は手にしていたプリントを見せる。
「これ、クラスのやつ」
「何?」
「文化祭終わった後の片付けの時間」
「もうそこまで決まってるんだ」
「先生が決めたって」
「早いね」
「忘れそうだから、牧にも言っとこうと思って」
「ありがとう」
綾乃が笑う。
「松寺くん、最近こういうのよく教えてくれるね」
「牧が忘れそうだから」
「ひどい」
「だって忘れるじゃん」
「そんなに忘れてないよ」
「この前もプリント忘れてた」
「……あれはたまたま」
「そういうことにしとく」
「もう」
二人で笑う。
「じゃあ、俺戻るわ」
「うん。また明日」
「また明日」
優太が歩いていく。
綾乃はその背中を少しだけ見送った。
「……仲いいね」
後ろからすずが言った。
「え?」
「松寺」
「ああ」
綾乃は少し考える。
「まあ、クラスでもよく話すし」
「そうなんだ」
「話しやすいんだよね」
「ふーん」
すずはそれ以上言わなかった。
綾乃も気にせず、案内板を持ち直した。
「じゃあ、先生のところ行ってくる」
「お願い」
*
その頃。
三年生の教室では、恵斗が文化祭の準備をしていた。
「海藤、これ先生に持ってって」
クラスメイトから書類を渡される。
「分かった」
恵斗は書類を受け取り、教室を出た。
廊下を歩いていると、向こうから環が歩いてくる。
「あ、海藤」
「森本」
「先生に呼ばれてる?」
「これ届けるところ」
「そっか」
環は持っていたファイルを少し持ち上げた。
「私も展示の確認」
「美術部?」
「うん」
「忙しいな」
「海藤もでしょ」
「まあ」
恵斗は少し笑った。
「でも、あと三日だし」
「そうだね」
環も笑う。
「終わったら、少し楽になるね」
「俺は受験があるけど」
「あ……」
環が少し困ったように笑う。
「そうだった」
「忘れてた?」
「ちょっとだけ」
「ひどいな」
「ごめん」
二人で笑う。
「じゃあ、また」
「うん」
恵斗はそのまま歩いていった。
環も反対方向へ進む。
まだ。
環にとって恵斗は、少し話しやすくなったクラスメイト。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
恵斗が誰と話しているかなんて。
今まで、気にしたこともない。
*
美術室。
綾乃が戻ってくると、すずが机の上の資料を整理していた。
「どうだった?」
「先生、大丈夫だって」
「よかった」
「あと、入口の横に説明を追加するって」
「えー」
「今から?」
「うん」
「頑張ろう」
「はいはい」
二人で作業を始める。
しばらくして。
「お疲れ」
美術室の扉が開いた。
「あ、先輩」
恵斗だった。
「先生から頼まれた」
「何ですか?」
「ここの展示、少しだけ手伝ってくれって」
恵斗がファイルを机に置く。
「助かります」
「何すればいい?」
「こっちの説明文、確認してもらえます?」
「分かった」
恵斗が紙を手に取る。
「……これ、字小さくない?」
「やっぱり?」
「読みにくいかも」
「じゃあ、少し大きくします」
「うん」
綾乃が紙を持っていく。
「先輩、こういうのよく気づきますね」
「三年だから」
「関係あります?」
「経験」
「なるほど」
「納得した?」
「ちょっとだけ」
綾乃が笑う。
恵斗も笑った。
すずは少し離れたところで二人を見ていた。
最近。
この二人が話していることも、もう珍しくない。
綾乃も恵斗も、以前より自然に話している。
それが当たり前になりつつあった。
*
作業を続けていると。
「そういえば」
恵斗がふと思い出したように言った。
「綾乃」
「はい?」
「松寺って、最近よくここまで来る?」
「え?」
綾乃が顔を上げる。
「今日も来てたから」
「ああ」
綾乃は少し考えた。
「クラスが同じなので、よく話しますよ」
「そっか」
「体育祭のときも結構話してましたし」
「うん」
恵斗はそれだけ答えた。
「何かあったんですか?」
「いや」
少しだけ間を置いて。
「仲いいんだなと思って」
「そうですね」
綾乃は何でもないことのように笑った。
「松寺くんとは話しやすいです]
「そう」
「先輩も話しやすいですよ」
「俺?」
「はい」
「……そっか」
恵斗は少しだけ笑った。
「ならよかった」
「何がですか?」
「別に」
「またそれ」
綾乃が笑う。
恵斗も苦笑した。
「便利だから」
「先輩まで使わないでください」
すずが横から口を挟む。
「私の真似?」
「さあ」
三人で笑った。
けれど。
恵斗の中には。
さっき綾乃が言った、
――優太とは話しやすい。
という言葉が、なぜか少しだけ残っていた。
それが何なのか。
恵斗自身には、まだ分からなかった。
*
その日の帰り。
杏奈は一人で廊下を歩いていた。
手には文化祭の資料。
けれど、足取りはいつもより遅かった。
最近。
恵斗のことを考える時間が、少しずつ変わってきている。
前までは。
どうしたらもう一度振り向いてもらえるか。
どうしたら昔の二人に戻れるか。
そんなことばかり考えていた。
でも。
最近の恵斗を見ていると。
もう、自分が追いかけているものは、今の恵斗ではないのかもしれない。
付き合っていた頃の恵斗。
あの頃の二人。
戻れなくなった時間。
「……」
杏奈は立ち止まった。
スマホを取り出す。
恵斗の名前を見る。
メッセージを送ろうとして。
やめた。
やっぱり。
直接話したい。
文化祭が終わったら。
ちゃんと話そう。
そう決めた。
*
一方。
恵斗は図書室で参考書を閉じた。
「……今日は疲れたな」
文化祭の準備もあった。
受験勉強もある。
少しだけ息を吐く。
そのとき。
スマホが震えた。
遥翔からだった。
『まだ学校?』
『うん。今から帰る』
『文化祭の準備?』
『それもある』
『美術室?』
『違う。今日は図書室』
少しして。
『遥翔:最近忙しいな』
『恵斗:まあ』
『遥翔:あと三日だもんな』
『恵斗:うん』
そこで一度、会話が途切れた。
恵斗はスマホを伏せる。
ふと。
今日、美術室で綾乃と話したことを思い出した。
優太のこと。
文化祭のこと。
いつも通りの会話だった。
なのに。
なぜか綾乃の笑った顔が、少しだけ頭に残っている。
「……」
恵斗は首を傾げた。
最近。
自分は綾乃のことを、前より気にしている気がする。
けれど。
それが何を意味するのかまでは、考えなかった。
今は、受験のほうが大事だ。
そう思って、参考書を鞄にしまった。
*
美術室では、綾乃が最後の片付けをしていた。
「今日、結構進んだね」
すずが言う。
「うん」
「明日と明後日でほぼ終わらせないと」
「頑張らないとね」
「文化祭終わったら、少し楽になるかな」
「どうだろう」
「綾乃は?」
「何が?」
「文化祭終わったら、何かしたい?」
綾乃は少し考える。
「うーん……」
頭に浮かんだのは。
クラスの友達と遊ぶこと。
部活のみんなとどこかへ行くこと。
そして。
最近、優太と話しているときに出た、何気ない話。
「……まだ決めてない」
「そっか」
「でも、何かしたいかも」
「いいじゃん」
「うん」
綾乃は笑った。
その時。
スマホが震えた。
画面を見る。
優太からだった。
『優太:文化祭終わったら、どっか行くって言ってたの本当に行く?』
綾乃は少し考える。
そして。
『綾乃:うん、行こう』
短く返した。
すぐに返信が来る。
『優太:じゃあ、また考えよう』
『綾乃:うん』
綾乃はスマホを伏せた。
文化祭が終わったら。
優太と、どこかへ行く。
まだ具体的な予定ではない。
ただの、何気ない約束。
それでも。
少し楽しみだった。
*
その夜。
杏奈は自分の部屋で、文化祭の資料を机の上に置いた。
そして、スマホを見る。
恵斗との過去のメッセージ。
何度も読み返した言葉。
楽しかった時間。
喧嘩したこと。
別れたこと。
その全部を思い出す。
「……もう、終わりにしないと」
小さく呟いた。
まだ好きだ。
それは、認める。
でも。
好きだからといって、いつまでも追いかけていいわけじゃない。
文化祭が終わったら。
恵斗にちゃんと聞こう。
もう一度だけ。
自分の気持ちを伝えるためではなく。
自分自身が前へ進むために。
*
その頃。
恵斗は自宅で参考書を開いていた。
けれど。
今日、美術室で聞いた言葉が、ふと頭に浮かぶ。
『松寺くんとは話しやすいです』
「……」
別に。
何も変なことじゃない。
同じクラスなのだから。
仲がいいのも普通だ。
そう思う。
それでも。
なぜか、その言葉だけが残っていた。
そして。
自分でも気づかないまま。
恵斗は少しだけ眉を寄せた。
まだ、自分の中に生まれ始めた小さな違和感を、ただの気のせいだと思っていた。
*
文化祭まで、あと二日。
それぞれが、それぞれの気持ちを抱えながら。
学校は少しずつ、本番へ近づいていた。
杏奈は、終わらせるための準備を始めている。
綾乃は、自分でも気づかないまま、新しい予定を一つ増やした。
恵斗は。
まだ、自分の中に生まれ始めた小さな違和感を、ただの気のせいだと思っていた。
そして。
文化祭が終わるまで。
もう、時間はあまり残されていなかった。




