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今日も、たぶん平和じゃない  作者: RieL


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第十六話 残った言葉

 翌日。

 放課後の美術室には、いつもより少し静かな空気が流れていた。

 綾乃は机の上に広げた資料を眺めながら、何度も同じところを見ていた。

「綾乃」

「ん?」

 すずが隣から覗き込む。

「さっきから同じページ見てる」

「……そう?」

「うん」

 綾乃は資料を閉じた。

「別に」

「昨日のこと?」

「……」

 すずはそれ以上すぐには聞かなかった。

 昨日。

 美術室の近くの廊下で起きた、恵斗と杏奈の言い争い。

 そして。

『恵斗先輩の好きな人って、綾乃ちゃんなんでしょ?』

 あの言葉。

 綾乃は思わず顔をしかめた。

「違うんだけどなあ」

「何が?」

 すずが聞く。

「……昨日のこと」

「うん」

「杏奈先輩、何であんなこと思ったんだろ」

「綾乃と海藤先輩が仲いいからじゃない?」

「仲いいかな?」

「普通の先輩後輩よりは」

「そう?」

「うん」

 綾乃は少し考える。

 恵斗とはよく話す。

 恋愛の話もする。

 相談されることもある。

 けれど。

「でも、先輩には好きな人いるし」

「……そうなんだよね」

 すずが小さく呟いた。

 綾乃は気づかない。

「だから違うのに」

「うん」

「それなのに、先輩すごく怒ってた」

 綾乃は昨日のことを思い出す。

『綾乃を巻き込むな』

 あの声。

 今まで聞いたことがないくらい、恵斗は怒っていた。

「……」

「綾乃?」

「何でもない」

 綾乃は資料を開き直した。

「作業しよ」

「うん」

 すずは小さく頷いた。

 けれど。

 昨日の恵斗の表情は、すずの中にも残っていた。

 *

 しばらくして。

 美術室の扉が開いた。

「お疲れ」

 二人が振り返る。

「恵斗先輩」

 入口に立っていたのは、恵斗だった。

「お疲れさまです」

「……」

 綾乃が一瞬だけ言葉に詰まる。

 恵斗も、いつもより少しだけ静かだった。

「昨日」

 先に口を開いたのは恵斗だった。

「ごめん」

「え?」

「嫌な思いさせただろ」

 綾乃は少し驚いた。

「先輩が謝ることじゃないですよ」

「でも」

「杏奈先輩が勝手に言ったことですし」

「それでも」

 恵斗は少しだけ視線を逸らした。

「綾乃、関係ないのに巻き込まれただろ」

 その言葉に。

 昨日の声がまた頭に浮かぶ。

『綾乃を巻き込むな』

「……先輩」

「ん?」

「昨日、すごく怒ってましたね」

 恵斗が少し黙る。

「そうだった?」

「そうでしたよ」

 すずも後ろから言う。

「かなり」

「……」

 恵斗は少し困ったように息を吐いた。

「水上がしつこかったから」

「それだけですか?」

 綾乃が聞く。

「え?」

「私のこと、巻き込むなって怒ってましたよね」

「……」

 一瞬。

 恵斗の表情が止まった。

「関係ないのに巻き込まれたから」

「ですよね」

 綾乃は納得したように頷いた。

「先輩の恋愛に、私まで入るの変ですもんね」

「……そう」

「それに、先輩が好きなのは――」

「綾乃」

 恵斗が少し慌てたように止める。

「言わなくていい」

「あ」

 綾乃は口を閉じた。

「すみません」

「いや」

 恵斗は小さく笑った。

「別に綾乃が悪いわけじゃない」

 その時。

 美術室の外から声がした。

「海藤」

 恵斗が振り返る。

「遥翔」

 扉のところに、遥翔が立っていた。

「先生探してる」

「俺を?」

「うん」

「分かった」

 恵斗は鞄を持つ。

「じゃあ、行くわ」

「あ、はい」

 綾乃が答える。

 恵斗は一度だけ綾乃を見る。

「昨日のこと、気にしなくていいから」

「分かりました」

「じゃあな」

「お疲れさまです」

 恵斗と遥翔が美術室を出ていった。

 扉が閉まる。

 綾乃はしばらくその方を見ていた。

「……」

「綾乃」

「ん?」

「本当に気にしてない?」

「気にしてないよ」

「そう?」

「うん」

 少しだけ間があった。

「……たぶん」

「ほら」

「だって」

 綾乃は苦笑した。

「昨日、あんなこと言われたら少しくらい気になるでしょ」

「まあね」

「でも、違うって分かってるから」

 すずは何も言わなかった。

 ただ。

 綾乃の「違う」という言葉が、少しだけ引っかかった。

 *

 美術室を出たあと。

 恵斗と遥翔は並んで廊下を歩いていた。

「昨日のこと?」

 遥翔が聞く。

「うん」

「謝ったの?」

「一応」

「牧に?」

「そう」

 遥翔は少しだけ笑った。

「ちゃんと謝れるんだ」

「俺を何だと思ってる」

「短気」

「ひどいな」

「昨日見た人は、みんなそう思うだろ」

 恵斗は何も言わなかった。

 昨日。

 杏奈に対して、かなりきついことを言った。

『もう関係ないだろ』

 言いすぎたと思っている。

 けれど。

 綾乃の名前が出た瞬間。

 なぜか、余計に腹が立った。

「……」

「どうした?」

 遥翔が聞く。

「いや」

「昨日のこと、まだ考えてる?」

「別に」

「またそれ?」

「何だよ」

 遥翔は笑った。

「牧のこと、巻き込むなって怒ってたよな」

「……」

「珍しいなと思って」

「関係ないのに巻き込まれたから」

「うん」

「それだけ」

「そう?」

「そう」

 遥翔は恵斗を見る。

 けれど。

 それ以上は何も言わなかった。

 恵斗自身が、まだ分かっていない。

 そのことが、遥翔にはなんとなく分かった。

「まあ」

 遥翔が前を向く。

「そういうことにしとく」

「何だよ、それ」

「別に」

「お前まで」

 二人で少し笑った。

 *

 その日の放課後。

 杏奈は一人で教室に残っていた。

 昨日のことが、まだ頭から離れない。

『もう関係ないだろ』

 その言葉。

 そして。

『これ以上聞かれるのは嫌だ』

 分かっていた。

 自分がしつこかったことも。

 恵斗を困らせていたことも。

 それでも。

 知りたかった。

 恵斗が好きな人は誰なのか。

 もしそれが綾乃なら。

 自分がまだ知らない間に。

 二人の距離が近くなっていたのなら。

 ――嫌だった。

「……」

 杏奈は机に視線を落とす。

 昨日。

 恵斗は綾乃のことを庇った。

 あんなに怒るほど。

 ただの後輩だから。

 関係ないのに巻き込まれたから。

 きっと、それだけだ。

 そう思いたい。

 けれど。

「……」

 自分は、何をしているのだろう。

 元彼なのに。

 別れているのに。

 まだ恵斗が誰を好きなのか気にしている。

 誰と話しているのか気にしている。

 綾乃にまで聞いて。

 恵斗を怒らせて。

「……最低」

 小さく呟く。

 まだ。

 諦めることはできない。

 けれど。

 昨日までのようには、もうできない気がしていた。

 *

 翌日の昼休み。

 綾乃が教室で弁当を食べていると。

「牧」

 優太が机の横に立った。

「ん?」

「昨日、何かあった?」

 綾乃の手が止まる。

「何で?」

「なんとなく」

「何それ」

「昨日、放課後ちょっと変だった」

「変だった?」

「うん」

 綾乃は少し考えた。

「……別に」

「その『別に』、信用できない」

「ひどい」

「何かあった?」

「大したことじゃないよ」

「ふーん」

 優太は少しだけ綾乃を見る。

 けれど。

「まあ、言いたくないならいいけど」

「……」

「何かあったら言えば?」

「……うん」

「じゃ」

 優太はそれだけ言って、自分の席へ戻っていった。

 綾乃はその背中を見送る。

 何も聞かない。

 無理に聞こうともしない。

 それが、少しだけありがたかった。

 *

 その夜。

 綾乃はベッドに横になりながら、昨日のことを思い返していた。

 杏奈の言葉。

『恵斗先輩の好きな人って、綾乃ちゃんなんでしょ?』

「……ないない」

 小さく呟く。

 恵斗には、ちゃんと好きな人がいる。

 それを知っている。

 だから。

 自分ではない。

 絶対に。

 そう思う。

 それなのに。

 昨日の恵斗の怒った声が、なぜか頭から離れない。

『綾乃を巻き込むな』

 ただの後輩だから。

 相談相手だから。

 関係ないのに巻き込まれたから。

 きっと、それだけ。

「……変なの」

 綾乃はスマホを伏せた。

 答えは、まだ出ない。

 ただ。

 昨日から残っている言葉だけが。

 何度も。

 頭の中で繰り返されていた。



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