第十五話 好きなの...?
体育祭が終わって、数日。
学校は少しずつ、いつもの空気に戻り始めていた。
廊下に貼られていた競技の一覧表も外され、応援旗も片づけられている。
次の行事は、文化祭。
二学期は、まだまだ忙しい。
*
放課後の美術室。
綾乃とすずは、文化祭の展示について話し合っていた。
「去年の展示、結構よかったよね」
「うん。でも、今年も同じだとちょっとつまらないかも」
「じゃあ、何か変える?」
「変えたい」
綾乃が資料をめくる。
「みんなの作品を並べるだけじゃなくて、テーマを決めるとか」
「いいね」
「でも、テーマって難しいよね」
「綾乃、考えて」
「なんで私?」
「言い出したから」
「すず、最近厳しくない?」
「そう?」
「そう」
二人で笑う。
そのとき。
美術室の扉が開いた。
「お疲れ」
「あ、先輩」
恵斗だった。
手には参考書とファイルを持っている。
「文化祭の準備?」
「はい」
「大変だな」
「先輩も手伝ってくれるんですよね?」
「先生に頼まれたらな」
「じゃあ、ちゃんと頼みます」
「何で俺が頼まれる前提なんだよ」
恵斗が笑う。
綾乃も笑った。
すずは二人を見ながら、少しだけ口元を緩めた。
最近。
綾乃と恵斗が話すことにも、もう見慣れてきた。
特別なことではない。
そう思っていた。
*
しばらくして。
恵斗が時計を見る。
「俺、そろそろ行く」
「勉強ですか?」
「うん」
「頑張ってください」
「ありがとう」
恵斗が扉へ向かう。
「じゃあ、また」
「はい。また」
扉が閉まる。
綾乃は何気なくその扉を見た。
「……」
「何?」
すずが言う。
「え?」
「今、先輩のこと見てたでしょ」
「見てないよ」
「見てた」
「帰るところ見ただけ」
「ふーん」
すずはそれ以上言わなかった。
綾乃も、気にしないことにした。
*
翌日の昼休み。
綾乃が廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。
「綾乃ちゃん」
振り返る。
「杏奈先輩」
「今、ちょっといい?」
「はい」
二人は廊下の端へ移動した。
「どうしたんですか?」
杏奈は少し迷ってから口を開いた。
「聞きたいことがあるの」
「何ですか?」
「恵斗先輩って、好きな人いるよね?」
綾乃は少しだけ驚いた。
「……いると思います」
恵斗本人から聞いたこと。
それだけは確かだった。
「やっぱり」
杏奈が小さく息を吐く。
「綾乃ちゃんは知ってるんだ」
「……はい」
「誰かは?」
「それは言えません」
「どうして?」
「先輩と約束したので」
「そっか……」
杏奈は少し黙った。
そして。
「じゃあ、もう一つ聞いていい?」
「はい」
「恵斗先輩って……綾乃ちゃんのこと好きなの?」
「……え?」
綾乃の目が丸くなる。
「何でそうなるんですか?」
「だって」
杏奈は困ったように笑った。
「恵斗先輩、綾乃ちゃんとはよく話してるし」
「恋バナです」
「分かってる」
「だったら……」
「でも、他の後輩とはあんなに話してないよね?」
「……」
「名前も普通に呼ぶし」
「それは前からです」
「美術室にもよく来るし」
「部活の先輩だからですよ」
「それだけかな」
綾乃は答えられなかった。
もちろん、そんなわけがない。
恵斗が自分を好きだなんて。
ありえない。
「先輩が私を好きっていうのは、ないと思います」
「どうして?」
「だって……」
綾乃は少しだけ笑った。
「先輩が好きなのは、私じゃない人だから」
そこまで言って、綾乃は口を閉じた。
誰なのかは言えない。
杏奈も、それ以上は聞かなかった。
「……そっか」
けれど。
その表情には、納得しきれないものが残っていた。
*
その日の放課後。
美術室。
綾乃とすずが作業をしているところへ、恵斗が入ってきた。
「お疲れ」
「先輩」
綾乃が顔を上げる。
「先生いる?」
「今日はまだです」
「そっか」
恵斗が入口近くに立つ。
そのとき。
「恵斗先輩」
廊下から声がした。
杏奈だった。
「……水上」
「ちょっと話したい」
「今?」
「うん」
恵斗は少しだけ黙った。
「分かった」
二人が廊下へ出ていく。
綾乃は何となく二人を見送った。
すずも、少しだけ気にしているようだった。
*
廊下。
「何?」
恵斗が聞く。
「聞きたいことがあるの」
「何」
「先輩、好きな人いるよね?」
「……」
恵斗は黙った。
「誰?」
「言わない」
「どうして?」
「言う必要ないから」
「でも」
杏奈が一歩近づく。
「私には教えてくれてもいいじゃん」
「何で?」
「私、まだ先輩のこと好きだから」
「……もう終わったことだろ」
「でも」
杏奈の声が少し震える。
「誰なのかくらい、教えてよ」
「無理」
「じゃあ……」
杏奈は少しだけ迷った。
「綾乃ちゃん?」
恵斗の表情が止まった。
「……何でそうなるの」
「だって」
杏奈は必死だった。
「先輩、綾乃ちゃんとはすごく仲いいじゃん」
「普通だろ」
「普通じゃないよ」
「普通だよ」
「でも――」
その声に。
美術室の中にいた綾乃とすずが顔を見合わせた。
「……」
「何か、聞こえない?」
綾乃が小さく言う。
「うん」
すずも立ち上がった。
二人で廊下へ出る。
すると。
「恵斗先輩の好きな人って、綾乃ちゃんなんでしょ?」
杏奈の声が聞こえた。
「……え?」
綾乃の足が止まった。
恵斗も、綾乃に気づく。
「綾乃……」
けれど。
「やっぱりそうなんじゃないの?」
杏奈が続けた。
「だって、先輩、綾乃ちゃんといるときだけ違うじゃん」
「水上」
恵斗の声が低くなる。
「もう、その話やめて」
「どうして?」
「関係ないだろ」
「でも――」
「綾乃を巻き込むな」
「……」
杏奈が黙る。
綾乃も、何も言えなかった。
「私、別に……」
ようやく口を開く。
「大丈夫です」
けれど。
恵斗が綾乃を見る。
「そういう問題じゃない」
「でも」
「綾乃に聞くな」
恵斗の声には、はっきりと苛立ちが混じっていた。
「俺が誰を好きかは、俺のことだろ」
「……」
「綾乃には関係ない」
綾乃の胸が、少しだけ痛んだ。
関係ない。
その言葉に傷ついたわけではない。
むしろ。
どうして恵斗がそこまで自分を庇うのか。
そのことのほうが分からなかった。
「先輩……」
綾乃が呼ぶ。
恵斗は少しだけ表情を緩めた。
「ごめん」
「……はい」
「でも、約束しただろ」
「……はい」
「誰のことか、言わないって」
「分かってます」
綾乃は頷いた。
そのやり取りを見て、杏奈は何も言えなくなった。
「……そっか」
小さく呟く。
「やっぱり、綾乃ちゃんは知ってるんだ」
恵斗が杏奈を見る。
「だからって、綾乃を巻き込むな」
「……分かった」
杏奈の声は小さかった。
そして。
「ごめん」
そう言って、二人の横を通り過ぎていった。
*
廊下に残った三人。
綾乃は俯いていた。
「……先輩」
「ん?」
「私、何か変なことしました?」
「してない」
「じゃあ、何で……」
綾乃は言葉を探した。
「杏奈先輩、私が先輩の好きな人だと思ってたんですよね」
「……うん」
「どうしてなんでしょう」
恵斗は少し黙った。
「俺にも分からない」
「でも」
綾乃が顔を上げる。
「先輩が好きなのは、私じゃないですよね?」
その言葉に。
恵斗の表情が一瞬だけ止まった。
「……そうだな」
「ですよね」
綾乃は笑った。
「よかった」
「何が?」
「変な誤解されたままだったら、困るので」
恵斗は何も言わなかった。
けれど。
その言葉が、なぜか胸に引っかかった。
*
すずが綾乃の肩を軽く叩く。
「綾乃」
「ん?」
「今日はもう、作業終わりにしよ」
「でも、まだ――」
「いいから」
「……うん」
すずは綾乃を連れて美術室へ戻った。
恵斗も、その後ろ姿を見送る。
そして。
廊下に一人残った。
「……」
綾乃はただの後輩。
恋愛の相談をする相手。
そう思っている。
それなのに。
「……何でだろ」
恵斗は小さく呟いた。
さっき綾乃が言った、
『先輩が好きなのは、私じゃないですよね?』
その言葉だけが。
なぜか頭から離れなかった。
*
美術室。
綾乃は鞄に道具をしまっていた。
「……」
すずは何も言わず、隣にいる。
しばらくして。
「ねえ、すず」
「ん?」
「私って、そんなに先輩と仲良く見えるのかな」
すずは少し考える。
「……まあ、仲いいんじゃない?」
「そうかな」
「うん」
「でも、先輩が私を好きっていうのは、ないよね」
「……」
すずはすぐには答えなかった。
「分からない」
「え?」
「私は先輩じゃないから」
「……そうだよね」
綾乃は少し笑った。
けれど。
杏奈の言葉が、頭から離れない。
――恵斗先輩の好きな人って、綾乃ちゃんなんでしょ?
そんなわけない。
先輩が好きなのは、環。
それを知っている。
だから。
これはただの誤解だ。
そう思う。
なのに。
胸の奥には、小さな何かが残っていた。
*
その夜。
杏奈は一人で帰宅していた。
恵斗の言葉が頭から離れない。
――綾乃を巻き込むな。
どうして、あそこまで庇ったのだろう。
もし。
本当に綾乃が好きな人だったら。
そう考えると、胸の奥が痛い。
「……違う」
杏奈は首を振った。
恵斗が好きなのは、綾乃ではない。
そう思いたい。
けれど。
もう一度、綾乃の顔を思い出す。
恵斗と話しているときの、自然な笑顔。
恵斗が綾乃を呼ぶときの、柔らかな声。
そして。
今日の恵斗の態度。
「……好きなの?」
杏奈は小さく呟いた。
答えは、まだ分からない。
でも。
初めて。
本気でそうだと思った。
*
翌朝。
綾乃は教室へ向かいながら、昨日のことを思い出していた。
杏奈に言われた言葉。
恵斗に庇われたこと。
そして。
最後に恵斗が見せた、あの一瞬の表情。
「……」
綾乃は小さく首を振る。
考えない。
先輩が好きなのは環。
それは知っている。
だから。
自分が気にする必要なんてない。
そう思いながら。
なぜか昨日から。
恵斗のことが、少しだけ違って見えるようになっていた。




